8 後悔を踏んづけて飛べ
はあ、はあ、はあ……
学校の正面にあった民家の洋式トイレに座り、息を整える。
無理だ。
何だかよくわからないけど、あの黒服ちゃんはヤバイ。
もちろん、あの変な衣装を着たレッドローズちゃんも色々とおかしいけどさ。
心臓の鼓動がなかなか落ち着かない。
ドクドクドクと脈打つ音が聞こえる。
何だろう、この感じは? もしかしたらこれが恐怖というやつなのかもしれない。
スー、ハー、スー、ハー
深呼吸を繰り返して、気持ちを落ち着かせる。
円周率を暗唱して気を紛らわせよう。
3.14159265358979323846264338327950288469399375105820974944......
うん、落ち着いた。
さてと、とりあえずこの家から出ましょうか。
トイレのドアをギギギっと軋ませながら開けると、そこには薄暗い廊下が続いていた。
誰もいないのか?
まるで、夜の闇に吸い込まれてしまったみたいで、人間の気配が何もない。
どこからともなく聞こえる何かの機械音だけが耳障りだ。
そっと歩き始めると、床がギーっと嫌な音を立てる。
うん、怖い。
なんか怖い。
こういう時は、歌を歌うといいんだ。
ということで、知っている曲の中で一番明るい曲を歌う。
大声で歌う、元気発剌な感じで歌う!
と、歌っていると……
鼓膜がつん裂けそうな轟音とともに、この家の二階部分が吹き飛んでしまった。
「トイレよ、戦いから逃げるとは男の風上にもおけんやつだな」
黒服ちゃんがぐったりとしたレッドローズを抱きかかえながら、空を飛んでいた。
どうも、家一軒くらい吹き飛ばせるだけの力を持っているみたいだ。
ぼく史上、最大のピンチ!!
「あー、えっと降伏します」
ぼくは両手を上げて、ひざまずいた。
「え、降伏? うん……そう……」
黒服ちゃんは肩透かしを食らったみたいな感じで、ゆっくりと降りてきた。
「え、トイレ、本当に降伏しちゃう感じなの?」
「うん、降伏しちゃいます。戦っても勝ち目ないし」
「え、わたしあなたを殺すわよ?」
「OK、OK、降伏します」
あっさりすぎるぼくの対応に拍子抜けしたみたいな顔の黒服ちゃん。
「あ、できれば君の名前教えて欲しいな?」
「トイレ、それはナンパなのか?」
「いやいや、殺してもらうのに、名前くらい知っておきたいなーって」
「ふん……よくわからないけど、いいわ、教えてあげるわ。わたしの名前は、煉獄の胡蝶、西園寺白沙百合よ」
うん、きっと自分でつけた名前ですね。変なポーズまで取ってカッコよさを演出をする煉獄の胡蝶さん……
「そっか、白沙百合さんか。じゃあ僕のことさっさと殺してくれる?」
これは、一種の賭けだ。
僕を殺そうとする瞬間に、きっと隙ができる。
その一瞬をついて、レッドローズちゃんを奪還し、そのまま「トイレ超高速移動術」でもって、戦線を離脱する。
完璧なプランだ。
「そうか、そんなに殺して欲しいのか……本当は、脅すことで別の能力が発現しないかの実験をするだけのつもりで、殺す気は少しもなかったんだけれど、どうしても殺して欲しいみたいだから仕方ないわね……」
墓穴を掘ったみたいだーー
「あ、えっと殺さなくてもいいですよ……」
「あ、遠慮しないでいいわよ、きっちり殺してあげるから」
あ、結構いい笑顔で笑うんだ。微笑ましいな。と、ちょっとだけ現実逃避。
はあ、賭けに勝つしかないみたいだ。
「できれば、ちゃんと包丁でグサリと殺して欲しいな」
こうなったら、できる限りのことをするまでなのだ。
「だからさ、さっきの包丁用意してよ」
「わかったわ」
そう言って、白沙百合ちゃん(あ、そういえば黒い服なのに白なんだ……)が鞄の中の包丁を出そうと、ぼくから目を離し、レッドローズちゃんから手を離した、その瞬間ーー
ぼくは走り出した。
というよりも、跳んだーー!
一足跳びに、白沙百合ちゃんの前まで来て、驚く白沙百合ちゃんを尻目に、ぐったりとしたままのレッドローズちゃんに触れる。
そして、目をつぶり、「トイレ超高速移動術」と念じる!!
あ、待てよ。
そういえば、触った状態なら他人も瞬間移動させれる、なんて本当だろうか?
なんとなくレッドローズちゃんも連れて瞬間移動できる気になってたけど……試したことないよ?
ーー今更気にしてられない!!
白沙百合ちゃんは鬼のような形相でぼくを睨みつけているし、この数ミリ秒の間に何かを考えている暇なんてない!
ーーぼくは自分の力を信じて、空間を跳んだ!!!