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露呈            :約4500文字 :天国

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/05/26

 そこは天国。

 果てしなく広がる大地には色とりどりの花々が咲き乱れ、押しつけがましさのない、やわらかく甘い香りが風に乗って漂っている。黄金がかった空から降り注ぐ光は暑くも寒くもなく、肌に触れるたびにちょうどよい温度で心身をほどいていく。

 ところどころに立つ木々には、手のひらほどの実が鈴なりにぶら下がっていた。口に含めば、かじった瞬間に自分が望んだ味や触感に変わるのだ。しゃくりと林檎になり、ふわりとケーキになり、がぶりと高級ステーキ、とろりとプリンに。どれほど食べても腹が苦しくなることはなく、かといって物足りなさを感じることもない。不思議とすべてがちょうどよかった。

 泉には下界の様子が映し出されており、人々は芝生に寝そべってそれを懐かしげに眺めている。穏やかな気候とゆるやかに流れる時間に身を委ね、天国の住人たちはのんびりと暮らしていた。――が。


「は、はなしてくれ! ボ、ボクはあの子たちを心から愛して――あああああっ!」


 突如、この場に似つかわしくない絶叫が響き渡った。しかし、それもほんの一瞬のこと。池に石を投げ入れたときの波紋のように、その声はすぐに消え失せ、再び辺りには静かな風の音だけが戻った。周囲の者たちでさえ、誰一人として気に留める様子を見せなかった。


「はあ……」


 しばらく経ったときのこと。

 天国の風景の中に、またしてもどこか似つかわしくない、沈んだ顔の男がいた。周囲ののんびりした空気とは明らかに合っておらず、そこだけ薄暗い影が落ちているかのよう。

 と、そこへ別の男が通りかかった。


「はあ……」

「ん? なんやあんた、そないおっきなため息ついて。どないしたんや?」


「え? いや、ちょっと……ね」


 暗い男は手首をさすりながら、うつむき気味に答えた。


「ちょっとやあらへんやろ。ここ、せっかくの天国やで? そない暗い顔されると、こっちまで気になってしゃあないわ」


 もう一方の男は腕を組み、あからさまに顔をしかめた。


「そ、そうですかね……すみません……」

「なんや、きょろきょろして。あんたもしかして、悪いことでもしたんとちゃうか? ははは」


「し、静かにっ」

「なんや急に。え、まさかほんまに……? あんた、天国で何やらかしたんや」


 もう一方の男は一歩、二歩と後ずさった。暗い男は慌てて距離を詰めた。


「ち、違います。その……絶対に誰にも言わないと約束してくれますか……?」

「え? まあ、ええけど。こう見えて口は堅いほうや」


「天にまします神様に誓って?」

「天っちゅうか、あっちのどでかい宮殿におるんやろうけどな。まあええわ、誓ったる。嘘ついたら、あの実をウンコ味にして食うたるわ」


 もう一方の男は親指で近くの木を指さし、にやりと笑った。


「わかりました……」


 暗い男はきょろきょろと念入りに周囲を見回した。誰もこちらを気にしていないことを確認すると、深く息を吐いた。


「実はその……いや、さっき地獄に堕ちた人がいたの知ってますか?」

「え? ああ、あのショタコンのジジイか。芸能事務所の社長でアイドル志望の少年を食いまくったっていう。よう天国へ来られたもんやな」


「ええ……死後しばらくして悪事が大々的に世間に報じられ、それで地獄へ落とされたらしいです」

「はー、神さんも案外いい加減なもんやな。うまいこと隠し通したら、あんなんでも天国に来られるんやから」


「人間なんて大勢いますからね……。いちいち細かくは見ていないのかもしれません。亡くなった直後は、みんな『ありがとう』とか『天国でもお幸せに』とか言っていましたし……。たぶん、それを真に受けたのでしょう」

「で、そのジジイがどうしたんや? あんたもお仲間か?」


「い、いや、そうじゃないですけど……」


 暗い男は顔をぐっと近づけ、さらに声を潜めた。


「その……私も生前に悪事を働いたようでして……」

「マジか。ほならあんたも地獄行きか。おお、ナムアミダブツ。アーメン。オーメン」


「し、静かにっ。まだバレてないんですから……!」

「まだってなあ。あんたも芸能人やったら、そのうち週刊誌かなんかでバレるんとちゃうの?」


「いや、別に私はそういう立場では……」

「なんや、素人さんかいな。そなら、そないビクビクせんでもええやないか。むしろ挙動不審すぎて怪しまれるで」


「それはそうなんですけど……」


 暗い男は視線を落とした。


「自分が何をしたのかが気になってしまって……」

「ん? どういうことや?」


「その……思い出せないんですよ。自分が何をしたのか。たぶん、昔のことですから……」

「あー、まあ確かにこないのんびりしたとこにおったら、頭ぼけてくるわな。みんな痴呆症みたいな顔しとるわ」


 もう一方の男は周囲をぐるりと見渡し、鼻で笑った。芝生に寝転ぶ人々は、誰も彼も弛緩しきった顔をしていた。


「ええ……だからこそ、オドオドしていると余計に目立ってしまうんですよね……。どうにか思い出せれば、少しは気が楽になるんですが……」

「ほーん。まあ、窃盗とかちゃうの? なんや手癖悪そうな顔しとるで」


「いやあ……うーん……違う気がします」

「ほな痴漢や。スケベそうな顔しとるしな」


「いやあ、それもしっくりこない……」

「ほなら脱税か? ずるい顔しとるもんな」


「いやあ、それも違うみたいです……」

「あ、ほなあれや。あんた、政治家やろ。傲慢そうな顔しとるで。よかったやないか、地獄にお仲間ぎょうさんおるで」


「いやあ、それも違う……」

「まあ、こうして気にしとるくらいやしな。ほなら……まさか殺人か?」


「いやあ……どう、いやあ……」

「ちょっと引っかかっとるやないか。怖っ」


「でも、たぶん違うと思うんですよね……」

「うーん……ほな、そのまま忘れといたほうがええんちゃうの? 認めるだけ損やで」


 もう一方の男は肩をすくめた。


「ほら、下界でもようあるやろ。『誤解を招く表現をしてしまい申し訳ありません』だの『誹謗中傷には法的措置を検討します』だの言うて、絶対認めへんやつ。ああいうほうが、なんやかんや得するんや」


「そう……ですよね……」

「せや。忘れてボケーッと過ごしたらええねん。せっかくの天国やで? 反省会なんて無駄や、無駄。おれも生前ぎょうさん失敗したけど、全部チャラや」


「はい……確かにそうですね……ははは……」


 暗い男は引きつりながら笑った。ようやくその顔に少し色が戻ってきたようだった。


「ははは……失敗も全部チャラですよね……そう、失敗……失敗は通過点……あっ! あっ、あっ」

「なんやなんや、どないしたんや。ケツにバイブでも入っとんのか」


「お、思い出したんです……。わ、私はと、とんでもないことを、あ、あ、ああ……」


 暗い男の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。先ほどまでの青白さとは違う、灰をまぶしたような色だった。そして、まるで凍えているかのように両手を顔の前で震わせ、歯をがちがちと鳴らし出した。

 その形相に、もう一方の男は思わず慄いた。


「な、なんや……あんた、いったい何したんや」


「あ、あ、ある発明をしてしまったんです……」


 暗い男は唾を飲み込み、喉を引きつらせながら絞り出すように言った。


「発明? あんた、科学者かなんかか?」


「は、はい。もしあれが悪用――軍事転用なんかされたら、ひ、被害がとんでもないことに!」


 暗い男はがばっと身を乗り出し、もう一方の男の肩を掴んだ。指先が食い込み、震えがそのまま伝わってくる。顔には尋常ではないほどの汗が浮かび、見開かれた目は焦点を失いかけていた。その様子だけで、事態の深刻さが嫌というほど伝わってきた。


「そ、そない大声出したらあかんやん! 地獄へ落とされるで!」


「あなたのほうが大きいですよ……! い、いや、私は地獄へ落ちるべき人間です……。あんなものを思いついてしまったばかりに……あ、あああ……!」


 暗い男は俯き、頭をもう一方の男の胸に擦りつけた。


「いや、勝手に認めるんはええけど、放せや! 巻き添えで一緒に落とされたらたまらんわ!」


「あ、あなたもどうせ悪いことをしたんでしょう……? 顔に滲み出てますよ……」

「うっさいわボケ! 勝手に決めつけんな!」


「罪滅ぼしに……せめて、あなたも……い、い、一緒に、一緒、いっ、いっ、いっ……」

「気色悪いねん! やっぱお前ホモやろ!」


「やっぱり差別主義者じゃないですかあ。はは、ははははは!」

「この! ええかげんに……いや、なんも起きんな」


 二人は掴み合ったまま、おそるおそる辺りを見渡した。花は相変わらずおしとやかに揺れ、風は優しく吹いている。周囲には相変わらずのどかな時間が流れていた。


「天使も取り押さえに来んし、地面も割れへん」

「そ、そうですね……神様、お昼寝中なんでしょうか……?」


「確かに、いつも寝てそうやけど……あっ、なんや単純な話や。何作ったか知らんけど、まだ使われてへんのやったら、あんたの罪にはならんとちゃうか?」

「そ、そうですかね……」


「それに、それをつこうたやつが悪いんや。包丁作った鍛冶屋が刺傷事件の責任取るか? 取らんやろ。知らん顔しとけばええねん」

「え、ええ……。い、いや、でもやっぱりあれは、そんなレベルの話では――」


 ――ああっ!

 ――うお!


 突如、遠くのほうで悲鳴が上がった。周囲の静寂を掻き分けるようにどよめきが走り、ざわざわと波紋のように広がっていった。

 二人は顔を見合わせると、ほとんど同時に声のしたほうへ駆け出した。

 泉の周囲には、すでに人だかりができていた。誰もが言葉を失い、水面を凝視している。二人は人垣を押し分けて泉を覗き込んだ。

 そして次の瞬間、顎を落としそうなほど口を開いた。

 そこに映っていたのは、口に出すのもおぞましい、まさに地獄のような光景であった。

 病院の外に並べられた遺体。皮膚が溶け、剥き出しになった赤黒い肉の筋。垂れ流しの排泄物。断末魔の叫びを掻き消す激しい咳。血に濡れた床を駆け回る半狂乱の看護師。涙を食らい、滴り落ちる血――泉の水面越しですら、むせ返るような臭気が漂ってきそうな惨状だった。


「いや、どえらいことになっとるやないか……」


 もう一方の男はゆっくりと振り返り、暗い男のほうを向いた。


「いったい何人死んだんや……? いや、これからも死ぬで……。まさか、これ、あんたの発明とやらか?」

「あ、あ、あ……は、はい……あ、いや、違います……いや、あの、でも……ご、誤解です……!」


「でもも誤解もあらへん……。あんたは悪魔や……悪魔や! ここに悪魔がおるで!」

「や、やめてください! 静かに! 私は悪くない! 弁護士に相談させてください!」


「ぜんぜん反省しとらんやんけ。こら一考の余地なしや。地獄へホールインワンやで」

「嫌だ、嫌だああ!」


 暗い男は、再びもう一方の男へ掴みかかった。が、男はひらりと身をかわした。暗い男は勢いそのまま、地面へ崩れ落ちた。立ち上がる気力すら失ったらしく、ぶるぶると震えながら両手で頭を抱え込んだ。

 ついに地獄の穴が開く。もう一方の男はそう思い、後ずさった。

 だが――。


「……いや、やっぱりなんも起きひんな」

「ですね……」


 暗い男はおそるおそる顔を上げた。


「神さんがめんどくさがっとるんかな。もう人間なんて知らん、失敗作やしどうでもええわ、みたいな」

「そんなまさか……もしそうだとしても、絶対に失敗なんて認めないでしょう……」


「そもそも、ほんまにあんたの発明なんか? 虚言癖ちゃうやろな」

「いや、たぶん……でも、あのときのことはそこまで鮮明に覚えていなくて……こう、天からアイデアが降りてきたと言いますか、取り憑かれたように没頭して……。それで、完成直後に過労で死んでしまったんです……」


「あっ!」

「あっ!」


 二人は同時に声を上げた。

 しばし無言で見つめ合い、やがてもう一方の男がぽつりと呟いた。


「共犯者が神さんやったら、そら裁けんわな……」

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