「婚約破棄だ!」と叫ぶ王子。どうぞ。でもその服も靴も城の備品も全部実家からのレンタル品ですよ?今すぐ全裸で返却して、滞納中の王子使用料を精算してください。不法占拠者として放り出されてももう遅いですよ!
「カレン・ブライトン! 貴様のような、金のことしか頭にない冷酷な女との婚約など、今この瞬間をもって破棄させてもらう!」
王立学園の卒業パーティー。シャンデリアが眩いばかりに輝く大広間で、第一王子シルバの声が傲慢に響き渡った。隣には、ふわふわしたピンク色の髪を揺らし、いかにも「守ってあげたい」という風情の男爵令嬢リリアが、勝ち誇ったような笑みを浮かべて寄り添っている。
カレンは、手にしていたグラスを静かに近くの給仕に預けた。周囲の貴族たちは、一世を風靡したブライトン商会の令嬢がついに失脚かと、好奇の目で見つめている。
「左様でございますか、シルバ殿下。……愛がない、とおっしゃいましたか?」
「そうだ! リリアのような純粋で聖なる心を持たない貴様は、次期王妃にはふさわしくない! 貴様はいつも、予算がどうの、契約がどうのと、私の高潔な振る舞いにケチをつけてばかりだったからな。私は真実の愛に生きることに決めたのだ!」
シルバは、リリアの腰を引き寄せ、これ見よがしに彼女の額にキスをした。リリアは頬を染め、「シルバ様、素敵……」と吐息を漏らす。その光景は、一見すれば愛し合う二人の美しいドラマのようだった。
しかし、カレンの瞳に宿っているのは、悲しみでも怒りでもなく、事務的な冷徹さだけだった。
「わかりました。殿下のご決断、確かに承りました。……では、ビジネス(婚約)が終了したということで、清算の手続きに入らせていただきます」
カレンはそう言うと、どこから取り出したのか、鈍い光を放つ黒革の分厚い手帳——通称『ブライトン商会・資産管理目録』を開いた。
「な、なんだ、その態度は……。清算だと? そんなものは後で文官にやらせればいいだろう!」
「いいえ、殿下。今すぐ、この場で行う必要があります。なぜなら、この契約書の第百二十八条には『婚約破棄が通告された瞬間、すべての貸与品は即座に現物返却されるものとする』と明記されておりますので」
カレンの指が、目録のページをパラパラと高速でめくる。
「さて、まずは殿下が今お召しのその『王族専用・最高級ミッドナイトシルクの夜会服』。それから、その足元の『飛龍の革を用いた特注ブーツ』。これらは我がブライトン商会が、王家に『無償貸与』していたものです。返却してください」
シルバは鼻で笑った。
「何を言う。これは私の服だ! 王太子の服を脱げと言うのか、この無礼者が!」
「無礼なのは殿下の方です。その服のタグをご覧ください。裏側に『Property of Brighton Group(ブライトン商会所有)』と刺繍されているはずですよ。……ああ、それからリリア様。あなたが付けているその『深海の涙』と呼ばれる青真珠のティアラ。それは我が商会が今季、プロモーション用にあなたへ『試供品』として貸し出したものです。宣伝効果(婚約者としての面目)がなくなった以上、返却期限は『今』です」
カレンが合図を送ると、会場の四隅に控えていた屈強な男たちが一斉に動き出した。彼らは騎士ではない。ブライトン商会が雇っている、泣く子も黙る「債権回収特化型エージェント」たちだ。
「ちょっと、何よあなたたち! 離して!」
リリアの叫びも虚しく、エージェントの一人が無表情に彼女の頭からティアラをひっぺがした。ついでに、彼女が羽織っていた高級な毛皮のショールも回収される。
「リリアになんてことを! おい、衛兵! この不届き者たちを捕らえろ!」
シルバが叫ぶが、広場の入り口に立つ衛兵たちは、視線を泳がせるだけで動こうとしない。彼らの装備している最新式の魔導甲冑も、実はブライトン商会からのリース品であり、カレンが「返却」と言えば、その場で重い鉄屑に変わることを彼らは知っていた。
「殿下、衛兵に頼っても無駄ですよ。彼らの給料に上乗せされている『特別危険手当』は、私の私費から出ています。……さて、次は殿下、あなたの番です。脱いでください。それとも、私が剥ぎ取りましょうか?」
「き、貴様……本気か!?」
「本気です。あ、ちなみにその服を脱ぐのが嫌だというのであれば、買い取りも可能です。お値段は……特注手数料と緊急対応費込みで、金貨三千枚になります。いかがいたしますか?」
「き、金貨三千枚だと!? そんな大金、今持っているわけがないだろう!」
「では、返却ですね。……はい、やってください」
エージェントたちがシルバを取り囲む。
「やめろ! 離せ! 私は王子だぞ! あ、ああああっ、私のズボンが! 上着が!」
華やかなパーティー会場に、シルバ王子の情けない悲鳴が響き渡る。熟練の手つきで服を剥ぎ取られた王子は、あっという間に、ブライトン商会のロゴが入った「試供品のトランクス」一枚という、あまりにも情けない姿に成り果てた。
会場からは、悲鳴と、それ以上に大きな「失笑」が漏れ出す。
「……カレン、あんまりだわ……。シルバ様をこんな目に遭わせるなんて……」
ガタガタと震えながら、安物の下着同然になったドレス姿のリリアがカレンを睨む。しかしカレンは冷たく言い放った。
「あんまりなのは、国の予算を自分の遊興費と勘違いしていたあなたたちです。……さて、物的な回収はこれくらいにして、次は『サービス利用料』の清算に移りましょうか」
カレンは再び目録に目を落とす。
「シルバ殿下。過去三年間、あなたが私との『愛のない婚約』を維持するために費やした、あらゆるコストを算出いたしました。題して『王子・優雅な生活パッケージ』の利用料金です」
「な……パッケージだと?」
「ええ。殿下が毎日召し上がっていた最高級の肉、リリア様とのお忍びデートに使われた魔導馬車の維持費、さらには殿下がリリア様に贈った宝石の数々。これらすべて、王家の公金ではなく、私の『ポケットマネー』……つまり、ブライトン商会の広告宣伝費として処理していました。しかし、婚約が破棄された以上、これは『広告』ではなく、ただの『個人融資』となります。利息を乗せて返していただきますよ」
カレンが手帳を叩きつけるように閉じる。
「合計で、金貨五万枚です」
「ご、五万……!? そんなの、王家が払えるはずがないだろう!」
「ええ、払えませんね。王家の金庫は、殿下の放漫経営……失礼、放漫な浪費によって、すでに底をついています。ですから、差し押さえの手続きを行いました。殿下。あなたが今立っている、この王立学園の土地。それから、現在あなたが住んでいる王宮の東離宮。……先ほど、私の父が国王陛下と交渉し、すべて『借金の担保』として、我がブライトン公爵家の所有物となりました」
「な、なんだと……父上が、そんなことを許すはずが……」
「許すも何も、国王陛下もカジノで作られた借金の肩代わりを条件に、喜んで判を押されましたよ。……というわけで、殿下。あなたは現在、私の土地に、私のトランクスを履いて、無断で侵入している不法占拠者です。速やかに退場してください」
シルバは真っ白な顔をして、膝をついた。先ほどまでの傲慢な王子はどこにもいない。ただの、トランクス一丁の震える男である。
「あ、あの、カレン様……わ、私……」
リリアがすり寄ってこようとしたが、カレンはその顔を扇子で制した。
「リリア様。あなたは『聖女』を自称して殿下をたぶらかしたようですが、残念なお知らせです。あなたが毎日使っていた、そのお肌を白く見せる『聖なる香油』。あれ、我が商会が開発した『ただの保湿クリーム』なんですよ。魔力なんて一滴も入っていません。明日から供給を止めますので、一週間後には元の、少し荒れたお肌に戻ることでしょう。……さあ、衛兵! この不審者二人を、裏口から放り出しなさい!」
カレンの命令が飛ぶ。今度は衛兵たちが機敏に動いた。彼らは、下着姿の王子と、ボロボロになった令嬢の両脇を抱え、文字通り「ゴミ」のように会場の外へと連行していった。
静まり返った会場で、カレンは誰にも聞こえない程度にふう、と息をついた。
「……やれやれ、ようやく終わったわ。あんな不良債権、もっと早く切り捨てればよかった」
すると、背後から落ち着いた、しかしどこか楽しげな声が聞こえてきた。
「実に見事な手際だ。噂には聞いていたが、君は数字で国を動かせる真の天才だな」
振り返ると、そこにはパーティーの招待客の一人……隣国の第一王子、エドアルドが立っていた。彼はシルバとは対照的に、質素だが仕立ての良い服を完璧に着こなし、その瞳には知性が宿っている。
「エドアルド殿下。……お見苦しいところを失礼いたしました」
「いいや。これほど爽快なショーは初めてだ。……カレン嬢。私の国は、今まさに税制改革と、腐敗した官僚の粛清で忙しくてね。君のような、感情に流されず、契約書一本で敵を壊滅させる能力を持つ女性を求めているんだ。……どうだろう。私の国の『国家財務総督』として、私と一緒に働いてくれないか?」
カレンは目を丸くした。国家財務総督。それは、王妃よりも実質的な権力を持つ、国の財布を握る最高責任者のポストだ。
「それは……プロポーズ、という理解でよろしいでしょうか?」
「ははっ、仕事仲間としての誘いでもあるが、君が望むなら、もっと親密な契約書にサインしても構わない。君の家の資産に頼るつもりはないよ。私の国は、君に『自由』と『権力』、そして、君が今まで一度も受け取ったことがないであろう……『正当な報酬』を用意する」
エドアルドは優雅に手を差し出した。
カレンは少し考え、そして、かつてないほど魅力的な微笑みを浮かべた。
「いいでしょう。では、まずは雇用契約書から作成させていただいてもよろしいですか? ……あ、私の時給は、ものすごく高いですよ?」
「望むところだ。君なら、その百倍の利益を我が国にもたらしてくれるだろうからね」
翌日、王宮から放り出されたシルバ王子とリリア男爵令嬢は、全裸同然の姿で王都を彷徨っているところを、ブライトン商会の借金取り立て人に捕まった。彼らは現在、商会が経営する鉱山で、これまでの贅沢分を返済するためにせっせとツルハシを振るっている。ちなみに、彼らが着ているボロ布の作業着も、しっかり「日額レンタル料」が引かれているそうだ。
一方、カレンは隣国へ渡り、その冷徹なまでの事務能力を発揮して、わずか一年で隣国の国庫を三倍に増やした。今や彼女は、大陸全土から「鉄の公爵令嬢」として畏怖され、エドアルド王子と共に、世界で最も裕福で平和な国を築き上げている。
カレンの執務室の壁には、今でも一枚の古いトランクスが、額縁に入れて飾られている。それを見るたびに、彼女は部下たちにこう言うのだ。
「皆さん、いいですか。愛は目に見えませんが、契約書と数字は嘘をつきません。それこそが、この世で最も信頼できる真実なのですよ」
彼女の輝くような笑顔に、財務省の若手官僚たちは、憧れと少しの恐怖を抱きながら、今日もせっせと書類に判を押し続けるのであった。




