6話 洲帆 ツミキはスポーツ女子
「はひっ、はひーっ、はっ…」
「イオちゃん、ペース落とす?」
「小川さん、もうちょっと頑張れるか?」
「ら、らいひょふっ…」
歓迎会から数日、春先の少しばかり寒気が残る朝。
ジャージ姿で死にかけているイオちゃんに合わせるよう、小さな歩幅で腿上げする。
友だちと朝のランニング。青春だ。多分、前世の俺は経験してない。
本当に俺の前世って存在するんだろうか。あまりにも情報が偏っているというか、現代社会で生きる必要最低限の知識や、それなりに人間らしい感情しか残っていない。
果たしてそれは、前世と地続きになっている俺と言えるんだろうか。
シュレディンガーの自分。早く誰かこの哲学を説いてくれ。
「ぜひっ、ぜっ、ひゅーっ…」
「小川さん、無理なら無理って言ってもいいんだぞ」
「ら、らいひょふ、らはら…」
「もう呂律回ってないよ」
フォームもへったくれもない崩れっぷりでなんとか追いつこうとするイオちゃん。
牛歩なんてもんじゃない。そこを歩くおばあちゃんの方が速い。
…いや、あのばあちゃん明らかに速過ぎるな。自転車追い越してる。
「バーババババ!軟弱軟弱ゥ!!」と叫び、街行く人を追い越していくババアに呆然と目を向けるイオちゃん。
その顔に浮かぶのは、圧倒的な敗北感。
おばあちゃんにすら負けた。その内心がありありと伝わってくる絶望顔であった。
ショックを受けているであろう彼女に、俺は励ましの声をかけた。
「……ゴールまでもうちょっと頑張ろうか」
「う、うんっ…」
あれはあのババアがおかしいだけだろう。たぶん。…ごめん自信ない。この世界のババアって軒並みさっきのババアみたいな歩き方するの?
確認を取るようにコウくんに視線を向けると、「あのばあさん速くね?」と溢している。
よかった、あのババアがとりわけおかしい個体だったんだ。
あんなババアに囲まれた世界とか嫌過ぎる。
そんなことを思っていると、後ろから声が響いた。
「あれ?守仁、小川に…、真白、だっけ?」
「お、洲帆さん」
洲帆 ツミキ。スポーツに打ち込んでいる、コウくんハーレムの1人だったか。
その場で腿上げする彼女は俺たちを見やり、問いかける。
「ランニング中だよね。混ざっていい?」
「いいけど、もうすぐでゴールだぞ」
「いいよ。こっちもそろそろ休憩する気だったから」
「じゃ、自然公園までな」
「はーい」
ダウナーな印象の割には人当たりがいい。ああいうのは大体ツンケンしてるイメージがあったのだが。
そんなことを思っていると、自然公園の入り口が見えてくる。
イオちゃんもそれを見てか、ほんの少しばかりペースを上げた。
この子、俺が作り出した世界の微生物。実質俺の子。ギャンかわ。
可愛い微生物が頑張る姿は心の健康にいい。
入り口に踏み入ると同時、イオちゃんがその場に崩れ落ち、大の字になって寝転ぶ。
もう立ってられないほどの体力しかなかったのだろう。
彼女は息も絶え絶えに口を開く。
「は、はなれて…!ばくはつしちゃう…!」
「しないしない」
「これ飲んで落ち着けなー」
おもしれー人の子。
コウくんが渡す水を飲み、ぷぁっ、と息を吐くイオちゃん。
この世界の人体は爆発するように設定してない…と思う。爆弾を飲み込んでたり、体に巻きつけたりしてるなら話は別だが。
どんなちょっかいかけたっけな、この世界。てんで覚えてないぞ。
確か、この世界の番号は…、63297415だったか。あとで本体に聞いてみよう。スマホの音声検索くらいの働きはしてくれるはずだ。
そんなことを思っていると、洲帆さんが俺に問うた。
「なにかスポーツしてるの?
守仁と小川と走ってたなら、1.5キロは走ってるよね?それなのに、全然息が乱れてない」
やっべ。
キラキラと眩い視線を向ける彼女に、俺は内心冷や汗を垂らす。
結論から言おう。俺の息が乱れてないのは、同位体の調整ミスである。
肉体強度に関してはナーフが難しく、変に下げるとすぐ死ぬし、かといって下げないと1000年くらい生きてしまう。
今回のは寿命だけをナーフしたぶん、身体能力が補填として加算されただけなんだ。
そんな言い訳を吐けるはずもなく、俺は脳みそを振り絞り、言葉を並べた。
「い、いや、特に。健康のためにちょっと体力作りをしてたくらいで…」
「へぇ。よかったら、うちの部に入らない?
ボクシング部なんだけど」
「えっと、ご、ごめんなさい。家のこととかあるから…」
俺がボクシングなんてやった日には悲惨だぞ。首が飛ぶどころの騒ぎじゃない。どこぞの占い師の様に、腕だけ残して木っ端微塵なんてこともありうる。
しかし、そこまで面識もないのにスカウトするとは、人不足なんだろうか。
そんなことを思っていると、がし、と肩を掴まれた。
「もしよかったらスパだけ付き合ってもらえないかな。きっとハマるから」
「スパって、スパーリングだよね?
素人相手にそんなのやるの…?」
「いいじゃん。デキる人でしょ?ヤろ?」
その顔でデキるとかヤるとか言うな!!
平和な世界だからと油断していた。まさかこの世界にも戦闘狂がいるとは。
こういうのは目をつけられると、あとあとすっごく面倒なんだよな。
俺が軽く身を引くと、コウくんの手刀が爛々としていた洲帆さんの脳天に落とされた。
「だっ」
「止まれ洲帆。真白さんが困ってるだろ」
「い、いや、えっと、まあ、うん」
「せめて一発。お金出すから」
「言い方も行動もやべーなコイツ」
ものを頼む時に金を出すのが流行りなのか、この世界。
ツッコミを受けてもなお、「ヤろ」と渋沢栄一を差し出す洲帆さん。
ボクシングの何が彼女を狂わせたんだ。
「ヤろ。一発だけ。ヤろ。一発ヤればもう忘れられなくなるから」
「竿役みたいなムーブ!!」
やめろ、お前が喋るたびにRが引き上げられてしまう。そんな恍惚とした顔するな縋るな迫るな。いけない気持ちになる。
イオちゃんの方を見ると、「や、やめて」と果敢にボクシングクリーチャーに頼み込む姿があった。
ありがとうヒーロー。このバケモノはその尊ぶべき行動を歯牙にもかけてないけれど、俺はその気持ちだけで救われた。あとで千円分の商品券が当たる程度の幸運を与えてあげよう。
イオちゃんの健気さに感動していると、変態の体がコウくんによって引き剥がされた。
「ごめんな、コイツジムに放り込んでくるわ」
「あ、うん」
洲帆さんを引き剥がして引きずっていくコウくんに、俺は生返事を返す。
「あーん」と棒読みにも程がある悲鳴をあげながら消えていく洲帆さんに、俺は小さく呟いた。
「この私が、勢いに押し負けた…だと…」
「あ、あれは無理じゃ、ないかな…?」
ちくしょう微生物め。俺を戦慄させるとは、やるじゃないか。
…いや、逆に考えよう。俺が戦慄するのだ。つまり、あれには誰だって負けるということか。負けて然るべきってことだ。だってセカイ系彼女の俺が負けるんだもんな。仕方ないことだ。
………待てよ?それにしては、コウくんはまったくたじろいでなかったな?
つまり、俺はコウくんにも負けたと。
炭酸や水のみならず、ハーレムの一員をも使って俺を打ち負かすか。なんという微生物だ。かつてここまで俺に敗北感を与えた微生物が居ただろうか。
いや、いない。間違いなく、俺と対峙したどの微生物よりも俺を追い詰めている。
なんという微生物だ。因果律が収束しているがために、俺を超える力があるとでもいうのか。
俺は戦慄とショックに崩れ落ち、敷き詰められた砂利を握った。
「ちくしょー…!いつか絶対に勝ってやるからな、びせ…、守仁 コウめ…!」
「なにに…?」
「わかんない!!」
「えぇ……?」
なにに勝とうとしてるか自分でもわからないけど、勝ってやるからな。
当初の目的も忘れ、リベンジに燃える俺。
そんな俺を前に、復活して立ち上がったイオちゃんは呆れたような視線を向けた。
翌日。俺は季節外れのおしるこに負けた。
勝手に勝負して勝手に負けるセカイ系彼女