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アーサーとメイを乗せた馬車が進む。メイは、窓から街並みを覗き込む。ターナー家領地の街も自分の暮らした村よりずっと栄えていると思っていたけれど、ブラウン家の街はそのさらに上をいっていた。立ち並ぶお店、お洒落な服を着た婦人たち。


「(私の知らない世界だ…)」


メイが感嘆を漏らしていると、馬車が止まった。運転手が言うには、ここからは馬車が入れない道になるのだという。アーサーは立ち上がり、馬車から先に降りた。そして、メイに手を差し出す。メイはその手をおずおずと取り、地面に降り立つ。


「(わあ…)」


実際に地面に立って街を見渡すと、さらに壮観だった。木々もあるし、花もある、けれど道はきちんと舗装されているし、さまざまなお店もある。

ふと、メイのすぐ隣にあった花壇の花に蝶々が舞っているのが見えた。蝶はメイのすぐ目の前をひらひらと飛ぶと、また別の花へと移っていく。蝶の行く先を辿れば、さらに他にも花が咲いていることに気がつく。


「…虫、平気なんだな」

「え?」


アーサーの言葉に首をかしげる。虫、とは蝶々のことだろうか。メイは、え、ええ、と頷く。


「畑仕事をしてましたから、これくらいは。もっと青虫とかミミズとかもいますし」

「…それもそうか」

「あ…私、昔は苦手だった…とかですか?」

「まあ…」


アーサーの肯定に、そうですか、とメイ。確かに、お嬢様が青虫やミミズと触れ合うことはないだろう。


「(…お淑やかだったんだろうか、私…)」

「昼食をとっていないんだろう。何か食べられないものは?」

「いえ、特に…」

「ならこっちだ」


アーサーはそう言うと歩きだす。メイはそれについていく。ふと、街行く人の視線がアーサーにアルことに気がつく。歩いていた御婦人達が、アーサーを見つけると足を止めて、ひそひそと頬を染めて何かお互いで話し合っている。メイは隣を歩くアーサーを見上げ、まあこんな人が歩いていたらそうなるか…と妙な納得をしてしまう。メイは、昔の自分が彼のことを大好きだったということも、想像がついた。リズの言った、顔が整っているから、という言葉も納得がいく。


アーサーが連れてきたのは、閑静なカフェだった。店内に入ると、給仕の女性が数人立っており、いらっしゃいませ、と深々と頭を下げてきた。それに、メイは慣れない様子で軽く会釈をして返す。


「ブラウン様、いつものお部屋になさいますか」

「頼む」


慣れたように返すと、給仕の女性が歩きだす。それにアーサーとメイがついていく。店の中へ入っていくと、客がたくさん入っており、ピアノの演奏も流れている。客達は皆街を歩いていた人達とはまた違う雰囲気で、どこかの貴族たちであるのが伺える。彼らも、アーサーの姿を見ると、視線をこちらに向けた。そして、メイを見ると驚いた表情をした。


「アーサー様が女性を連れてらっしゃるわ」

「どこのご令嬢かしら」

「あの伯爵家の方と婚約の話が決まったって聞いてたけど」

「あら、私はあの公爵家の方だって…」


そんな噂話が聞こえて、メイは肩身が狭くなる。すると、アーサーはメイが他の客たちから見えないように立つと、メイの手を紳士的に引いて、客たちの方は一切見ずに歩いていく。メイもそれにならって、すたすたと歩く。



2人が通されたのは、ベランダのある個室だった。丸いテーブルと、2つの椅子がおいてあり、他には花瓶や棚などがシンプルに置かれている。 

窓からは店の中庭の様子が見える。メイはベランダから中庭を見下ろす。花がカラフルに植えられていて、メイにはとても珍しく思えた。


「素敵な所ですね」


メイの言葉に、気に入ってもらえたならよかった、と特に感情のない声で返すアーサー。アーサーは上着を給仕の女性に渡すと、椅子に腰掛けた。メイもそれに続いて腰をかける。

すぐに飲み物や前菜が運ばれてきた。アスパラガスのピクルスがつやつやとしていて綺麗で、メイはそれから口に運ぶ。そんなメイを、グラスから水を飲むアーサーが少し驚いたように見つめる。


「あの、何か…」

「いや、すまない、野菜が食べられるのかと思って…」

「それは、好き嫌いなんかしてたら食べるものがなかったから…あ、昔は食べられなかったとか…?」

「まあ…」


昔の自分との違いに、記憶がないとこういうことも変わってくるのか、と思うメイ。メイは、そ、そうなんですか、と言いながら水の入ったグラスに手を伸ばす。すると、それをうまく手に取れず、指が触れたグラスが傾き、水が溢れてしまった。メイが慌てていると、給仕の女性がさっと持っていたナプキンでこぼれた水を拭き、替えのグラスをお持ちいたします、と言うと部屋から出ていった。


「(や、やってしまった…)」


メイは恥ずかしくて顔が熱くなる。お嬢様のメイならこんなことはしなかったんだろうか。


「服は大丈夫か?」


アーサーの問いかけに、は、はい…、と言ったあと、服を少しだけ掴み、メイはほほえんでみせた。


「な、なんだか慣れなくて…おかしいですよね、昔はできてたはずなのに」

「記憶がないんだから、仕方ないだろう」

「でも、貴族の家の者なのに…。ましてや、嫁いでいくブラウン家は大きな家なのに、こんなんじゃ…」

「無理に笑わなくていい」


アーサーの言葉に、メイは笑顔を止める。アーサーは真っ直ぐにメイを見つめる。


「自分をそんなに責めるな。俺は、…」


アーサーの言葉が止まる。アーサーは少しの間のあと、俺は、と続けた。


「君が無事でよかった、としか、思っていないから」


アーサーの言葉に、メイは目を丸くする。メイを気遣っての発言に、メイは、優しい人なんだな、と思う。


「あの、聞いてもいいですか?」

「なんだ?」

「どうして、婚約を継続することにしてくださったんですか?」


家同士の政略結婚というのなら、ブラウン家に利がなさすぎる。もしかして、とメイは続ける。


「私のことが好きだったんですか?」


メイの言葉に、アーサーはいつもの無表情が少し崩れた。目を丸くして、固まったままメイを見つめる。少しの間の後、アーサーは軽く咳払いをした。


「………いや……」

「なら、この婚約って、政略結婚でもないし、昔は私があなたのことを大好きだったそうですけれど、記憶がないから今は好きじゃない、あなたも私を好きじゃないなら、一体なんの意味があっての結婚なんでしょうか?」


メイは大真面目にそうアーサーに問うた。アーサーは、今まで見たことがないほど無表情が崩れて、驚いた表情をしている。メイは、この人も驚くんだ、とそんな彼を見ながら思う。



アーサーは、メイの言葉を頭の中で繰り返しながら、前に会話をした時のトーマの顔が浮かんだ。お小言を言うときの、トーマの顔が思い出される。メイをターナー家に送り届けた後、自室で片付けをしている時、トーマは改まった様子で、坊ちゃま、とアーサーに語りかけた。


「今度こそは、メイ様にご自分のお気持ちをお伝えしないといけませんよ」

「…なんだ、藪から棒に…」

「坊ちゃま、私は本気です」


トーマは、ずいっとアーサーに顔を近づける。アーサーは、そんなトーマの覇気に一歩後ずさる。


「あの事故の後、メイ様に好きだと言う前にメイ様がいなくなられてしまったと、落胆されていたではありませんか」


トーマの言葉に、アーサーは口をつぐむ。

メイとアーサーの婚約は、お互いが5歳の頃に決められたものだった。幼かった2人にはそれがどういうことかわからなかったが、時が経つにつれてその意味もわかってきた。何度もお互いの家が2人を一緒に遊ばせる機会を作った。メイは、その中でだんだんアーサーのことを好きになっていき、その気持ちをしっかり、何度もアーサーに伝えていた。

しかしアーサーは、昔から感情が表情に出にくかった。元から感情の起伏が穏やかな方だったのもあるのかもしれないが、それ以上に、父の厳しい教育が根底にあった。こうしてはいけない、ああしてはいけない、もっと勉強しろ、なぜこれができないんだ。自身への否定の言葉の数々からの逃れ方を、幼い彼が知るはずもなく、いつからか感情が外に出なくなっていた。

彼の母親が亡くなったのは、彼が九歳の時だった。優しかった母の死に、泣きたくて仕方なかったが、それを父が許すはずがなかった。ただ、母の葬式の間、無表情でいるしかなかった彼を、メイが式場の外へ連れ出した。誰もいないことを確認すると、メイはしゃがみ込み、泣いたら良いのです、とアーサーに言った。アーサーはメイを見た。メイの瞳からも涙がこぼれていた。あまり彼女が泣いたところをみたことがなかったから、そのことにアーサーは驚いた。私は悲しいです、さみしいです、優しいお方でしたから、涙が出るのは当然なのです。そうメイが言うと、アーサーは自然と涙がこぼれた。そんなアーサーを、メイが抱きしめた。アーサーにとって、いつのまにかメイはかけがえのない存在になっていたのだ。


「奇跡的にメイ様が戻ってこられたのです。今度こそはしっかりバッチリご自分から仰らなければいけませんよ!大体何なんですか、あんなに好意を向けて頂いて、自分も好きなくせに素っ気ない態度を取るなんて…ツンデレなんて今日日流行らないんですよ!」

「つん…何の話だ」

「坊ちゃまは素直になりきれないところがおありです。いいですか、言葉にしないと伝わらないことがたくさんあるんですよ。後悔したくないのなら、今度こそはメイ様にしっかり好きだと、愛していると、お伝え差し上げてください」



あの日のトーマの言葉がアーサーの頭の中で響き渡る。アーサーは、昔よりも大人になったメイを見つめる。昔のメイと違い、彼女にはもう自分に好意を見せる様子がない。無表情な自分とどう接していいかわかりかねて、探るような表情でいる。もしかしたら、今後も彼女は昔のメイのように自分と接してはくれないかもしれない。それでも、そうだとしても、アーサーの中で彼女を愛しいと思う気持ちが消えようとしないのだ。


「それは、俺が君を…」


アーサーはやっとの思いで口を開く。メイは、はい、とアーサーの方を見る。


「す…」

「(す?)」

「…あ…」

「(すあ…?)」

「………君のことを、……案じているからだ」

「…あんじている…とは?」

「記憶喪失になって、その上婚約破棄にまでなってしまったら、気の毒だからだ。長い間婚約者でいたのだから、それくらいの情はある」

「…な、なるほど…」


メイは、なんて親切な人だろう、と心の中で呟く。と、同時に、申し訳なさで胸が一杯になった。こんなに素敵で、能力もあって周りからの注目も浴びるような人を、自分のために巻き込んでしまうわけにはいかない。このまま彼と結婚して、私は良いのだろうか?この人の優しさに付け込んで、一人の男性を、さらにはブラウン家という一つの大きな家を巻き込み、犠牲にして、不幸にしてまでする結婚とはなんだろうか。


幸せにおなり。


はたとメイは、メイのママの言葉を思い出す。ねえママ、幸せって何?むずかしくってわからないよ。私はね、ママ、ほんとうはね、あのまま、ママとパパと暮らしたかったよ。ジョセフとの結婚は嫌だったけど、でも私はあのまま、三人で、村で暮らしたかったよ。あの村で牛や馬、畑の世話をして、もしかして村の素敵な人と恋に落ちたりして、結ばれたりして、いやしなくっても良い、私はあそこで幸せになれたのに…

はたと、メイは頭の中で何かがひらめく。

メイは勢いよくアーサーの方を見た。アーサーはそんなメイに少し驚いたような顔をする。


「あのそれって、私に他に好きな人ができたり、それとも何かによって安定することができたら、婚約破棄が心置きなくできるっていうことですか?」

「……は?」

「私のこと、可哀想だって同情しているから婚約を継続してくれてるだけですもんね?なら、私が可哀想じゃなくなればいいってことですよね?」


メイは、目を輝かせた。そうだ、結婚なんてしなくてもいい、するとしても、この人でなくていい、いや、無い方がいいのだ。昔のメイがこの人を好きだった?そんなの知らない。私は、私が幸せになるように進むのだ。こんな、アーサーを犠牲にするような、そして、昔のメイでいることを強いられるような結婚、後味が悪いだけ。メイは、きらきらする目でアーサーを見つめる。アーサーは言葉を失っている。


「私、アーサーさんが心配する必要がなくなるよう、幸せになります!」

「待っ…」

「アーサーさんが次の幸せな婚約を見つけるためにも、自分が幸せになるためにも!」


メイの言葉に、ぐ、と言葉に詰まるアーサー。メイは、私、頑張ります!と意気込む。そんなメイを見つめながら、発する言葉が見つからずに絶句するアーサー。

給仕の女性が、大変お時間いただきました、と言いながら水の入ったグラスを持ってこの部屋に入ってきたとき、二人の異様な空気にきょとんとした。







「メイ、こんな大きな街を歩くなんて大丈夫かしら…」


ブラウン家の応接室で、リズは心配そうに呟く。オットーは、アーサー君がいるから大丈夫さ、とリズの肩を抱く。


「それより、本当によろしいんですか?こんな…家格が全くあっていない婚約だなんて…」


オットーが恐る恐るブラウン侯爵に尋ねる。ブラウン侯爵は、本音はですね、と口を開く。


「アーサーのところには、縁談がいくつも来ていました。その中には私がいいと思う縁談もいくつかあった。もうすぐメイさんがいなくなって5年になるし、そろそろ良いんじゃないかと思っていました。けれど、アーサーが頑なに首を縦に振らなかった」

「アーサー君が…」

「私の言う事を必ず聞いていた奴が初めてした反抗に、…嬉しかったんです。私は親として不十分で、奴に父親らしいことは一つもしてやってこられなかった。だから、奴が譲らなかったメイさんとの結婚を、私は祝福したいんです。お互いを想い合う二人ならきっといい夫婦になれると、そう思うんです」


ブラウン侯爵の言葉に、オットーは、そうだったんですか、と呟く。リズは、でも、と口を開く。


「メイには今記憶がありませんから、彼を好きだったこと忘れていて…」

「ああ、そうでしたな。なら案外今、奴は、メイさんに断られているかもしれませんな」


ブラウン侯爵の言葉に、え、と固まるオットーとリズ。ブラウン侯爵は、ふ、と小さく微笑みながら2人を見た。


「愚息の初恋を、どうか温かく見守ってやってください。奴ならなんとかしますよ、きっとね」


ブラウン侯爵は、失礼、昼食がまだでしたね、と二人に言うと立ち上がった。リズとオットーは顔を見合わせたあと、お互いの顔を見て小さく微笑んだ。







「あ、坊ちゃま、メイ様とお出かけされてきたんですってね。どうでしたか?」


家に帰ってきたアーサーに、トーマが期待に溢れた瞳で話しかける。アーサーは、トーマの目を見られないまま、婚約破棄になるかもしれないと言った。トーマは笑顔のまま、はい?と聞き返す。


「向こうは婚約継続を望まない、らしい…」

「……」


トーマの笑顔が固まる。トーマはゆっくり自分の額に手をやり、目を閉じて少しの間のあと、大きく息を吸った。


「ほれ見たことか!です!」


トーマの声が屋敷中に響き渡った。アーサーは返す言葉もなく、トーマの方を見られないままでいた。







次から学園が舞台になります。

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