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たどり着いたのは、メイが見たこともないような大きなお屋敷だった。トーマが言うにはここがターナー子爵家の屋敷らしい。少し古いが手入れが行き届いているのを感じる家だ。使用人らしき数人の男女に迎えられ、その圧にメイは体がすくむが、アーサーは当然の顔でその横を通り過ぎる。メイは仕方なくそれに続く。
通された応接室で、メイはアーサーの隣に座る。ふわふわのソファーだったけれど、豪奢すぎて昼寝はできなさそうとメイは考えた。テーブルには素敵なティーセットがあり、紅茶のいい香りがしている。おいしそうなクッキーやマドレーヌがお茶請けとして置かれており、そのどれもがメイが初めて見るものだった。
ふと、部屋の中の暖炉の上に写真立てがあることに気がつく。そこには、豪華な衣装を着た女性と男性、それに赤ちゃん(服装的に男の子だろうか)が写っている。この屋敷の主とその家族だろうか。女性は自分と同じ栗色の髪をしていて、メイはどきりとする。
「メイが見つかったって…!」
ドアが使用人によって開けられるが、それが待ち切れないような速さで女性が入ってきた。メイと同じ栗色の髪を綺麗にまとめ、素敵な洋服を身にまとっている。写真の女性だ。メイがそう思っているとき、女性は、半信半疑の表情でメイを凝視した。何度もメイの顔を見たとき、彼女の瞳から大粒の涙があふれ出した。
「ああ…メイ、メイなのね…?」
「あの、あの、わたし、」
「私の娘が帰ってきてくれたのね…!ああなんてこと…!何度夢に見たかわからないわ…!」
そう言うと、女性は両腕でメイを包みこんだ。彼女はメイの肩に頭を擦り付け、涙を零しながら何度も何度も、ああ神様…とつぶやいている。後から入ってきたのは、写真に写っていた男性で、少し丸い体が村にいた牧師のようで、この人も優しそうな見た目をしていた。
「アーサー君…本当に彼女がメイなのか?」
「彼女を保護していた人物から、彼女を発見した日に身に着けていた衣装を預かっています。破損していますが、丁重に保管していたようです。いつか本当の親が現れた時に、彼女が娘だとわかるように、と」
そうアーサーが言うと、後ろに控えていたトーマが、包まれた布の中から、おそらく昔は淡いピンク色であったであろう服を取り出した。それを震える手で男性が受け取る。
「……メイの、ワンピースだ…間違いない…」
「保護していた人物の証言と、事故が起きた日の辻褄も合っていました。間違いなく、彼女はメイです」
アーサーの言葉に、男性は力が抜けたように座り込み、そしてメイを見上げた。
「メイが…本当に…」
男性はよろよろと立ち上がり、女性ごとメイを抱きしめた。メイは、なにもわけがわからないまま、なすがままになっていた。
しばらくして、皆一度ソファーに座った。女性と男性はメイを挟むようにソファーに座り、その向かいにアーサーが座っていた。
「本当にありがとう、アーサー君。君のおかげで私たちの娘が帰ってきてくれた」
男性がアーサーに礼を言った。アーサーは特段表情を変えずに、いえ、と返す。メイは、この人は本当に感情の起伏がないな、と心の中で呟く。
「俺は何もしていません。それよりも、あの村にいる保護した人物に礼をした方がよろしいかと思います。随分大切に彼女を育ててきたようです」
「あ、ああそうだな。確かにそうだ」
「先に伝えてありましたが、彼女には記憶がないようです」
女性が、メイの顔を悲しそうにを見た。
「そうだったわね…。ねえメイ、私たちのこと、何も覚えてないの?」
今日初めて会った、自分と同じ髪色をした女性の言葉に、メイは不思議な気持ちになる。メイは首を横に振る。
「本当に?全く何にも?」
「…ごめんなさい」
絶句する女性に、リズ、やめないか、と男性がたしなめる。リズと呼ばれた女性は、そうね…、と言いながらも、しかし残念さを隠しきれない様子で言う。
「なに、メイ。謝ることじゃない。ゆっくり治していけばいいじゃないか」
「オットー…」
リズは、オットーと呼ばれた男性を不安そうに見つめる。メイは、目を伏せる。これからどうなるのか、自分の記憶が戻るのか、何一つとしてわからない。
すると、アーサーが立ち上がった。
「そろそろ、次の約束もありますので、家に戻ります。失礼いたします」
アーサーが言うと、トーマも深く頭を下げた。オットーが、またお礼は別の機会に…などと話している。
「ありがとうございました。こんなに親切にしてくれて…。…あの、あなたは私の、知り合い、友人…とか…?」
メイは、恐る恐る尋ねた。記憶を失う前の自分のことが何もわからないので、本当の自分の失われたパーツを一つでも埋めようと尋ねる。メイの言葉に、オットーとリズは顔を見合わせる。アーサーは少しだけ目を大きく見開く。しかしすぐにいつもの冷静な表情に戻す。
「俺は君の婚約者だ。お互いが5歳のときからの」
「は…」
メイは呆然とする。リズはメイの背中をさすりながら、そうよね、記憶がないっていうことは、このことも忘れているってことよね、と優しく言う。
メイは頭の中が混乱してぐるぐると渦巻くのを感じる。アーサーを初めて見た時に、彼のような人がいるなんて、とときめいていたのが嘘のように、メイは彼と婚約者だという現実を喜んで受け入れられない。それくらい彼女は困惑していた。
「(そうか…トーマさんの言ってた先約とか、ジョセフとの結婚の話をアーサーさんの家も間に入ってくれることとかも、私とアーサーさんが婚約しているから、ってことか…)」
「ま、まあ、でも、それがまだ効力があるかは…」
言葉を選ぶようにオットーが言う。メイが、え?と首をかしげる。
「その、…メイがいなくなってもう5年くらい経つし、周りはもうメイを死んでしまったような扱いをしていたし…ブラウン家がどういう風に考えているかは…」
ちら、とオットーは気まずそうにアーサーを見る。アーサーは、表情を変えずにこちらを見た。
「父と相談します。また後日、この話をする時間をいただくと思います」
アーサーはそう言うと、踵を返す。メイはそのあとを追いかけて、ありがとうございました、と声を掛ける。アーサーは背中を向けたまま立ち止まると、ゆっくりメイの方を振り向く。アーサーの金色の髪が揺れるのを見て、本当に綺麗な人だと改めてメイは思わされる。アーサーの後ろで、何かを言いたげな顔をしたトーマが立っている。
アーサーはメイを見つめたまま数秒間固まる。そんなアーサーに、メイは、彼の顔面に見惚れる気持ちから、なんなんだろうこの間は…という疑問を抱く気持ちへと変わっていった。
「(な、…なに?)」
「…また来る」
随分な時間をとってのその一言に、メイは間抜けな、はい、という声がもれた。
アーサーを見送ると、オットーは、はああ、と大きなため息をついた。
「まあ、婚約は駄目になるだろうなあ…。ブラウン家も気を使ってかうちにはなにも言ってこなかったけど、正直婚約破棄したいだろうしなあ…」
「メイとアーサーの婚約が決まったときは、うちもだいぶ繁盛していたのに、いまは見る影もないものね」
リズが言うと、ずんと落ち込むオットー。わけが分からずまばたきをするメイに、後ろに控えていた使用人の一人がこっそりと、ターナー家はお嬢様が行方不明になった5年間で随分没落していってしまったのです、とささやいた。
「(今でもこんなにいい暮らししてるのに…)」
「ただでさえ、侯爵家と子爵家なのに、うちがこんなんじゃ家格は絶対に合わない…」
「アーサーには、常に縁談の話が舞い込んでるみたいだし、もう内々で相手が決まっていてもおかしくはないわね。よく噂で、この家のご令嬢が似合いそうだとか、よく流れていたもの」
「アーサー君ももう次の誕生日が来たら18歳だもんなあ…むしろ、5年もよくこの約束をし続けてくれたものだよ…。あんなに立派な家の嫡男で、しかもあんな容姿をしてて、頭もいい…周りが放って置く訳が無い」
落ち込む二人に挟まれて、メイはどうしていいかわからなかった。何がどうなっているのやら、とりあえず、アーサーとは婚約者同士だったけれど、それは破棄されるだろう、ということはわかった。
オロオロとするメイに気がついたリズが、はっとメイの瞳を見たあと、ぎゅっと力強くメイを抱きしめた。
「まあ、それでもいいじゃない。私たちのところにメイが帰ってきたくれたんだもの。それ以上のことはないわ」
「そのとおり、そのとおりだよ!」
オットーがまたメイとリズを抱きしめた。メイは、二人の体温を感じながら、少しだけ微笑んだ。
そのとき扉が開き、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。声の方を見ると、写真にうつっていた赤ん坊が大声で泣いていた。坊ちゃまがお昼寝から起きられました、と使用人が伝えると、リズは急いで立ち上がり、赤ん坊に近寄った。
「あらあら、そろそろミルクの時間かしら」
「ジュンー、よく寝たかなー?」
オットーもジュンと言うらしい赤ん坊に近づいて、慈愛に満ちた表情で見つめる。微笑ましい三人家族の姿
に、メイは疎外感がした。
「(私って、いらないんじゃ…)」
大きな家との婚約もなくなる、新しい子どもは跡取り息子。なら私は?
さーっと頭が真っ白になるのを感じたメイ。立ち尽くすメイに、疲れたでしょう、部屋で休みなさい、と優しく声を掛けるリズに、は、はい、と小さな笑顔で返すのがメイには精一杯だった。
使用人に通されたのは、信じられないほど広くて、綺麗な部屋だった。大きくて清潔で、柔らかそうなベッド、可愛いテーブル。お嬢様が帰ってこられるということで、はりきってお掃除いたしました、と嬉しそうに話す、さきほど小声で話しかけてきた使用人。
使用人は、また夕食の時間になったら呼びに来る、ということを伝えていなくなった。メイは、広すぎる部屋の中で立ち尽くす。何をしたらいいかわからず、とりあえずベッドに腰掛けた。
「(…こんなに広い部屋、パパとママと住んでた家より広いかもしれない)」
そう心の中で呟いたとき、メイは急に自分が一人ぼっちだと思った。メイにとっては、村にいる2人が家族だったのに、2人はメイを本当の親だという人たちに返すことを望んだ。本当の親だと言われても、婚約者だと言われても、記憶をなくした彼女にとっては初対面の他人だ。これからどうしたらいいんだろう。何もわからない。ああ、村に帰りたい、パパとママと、動物の世話をして、畑の水やりをしたい。ドロドロになった手からする土の匂い。はやく洗いなさいと言うママの優しい声と顔。大きいのがとれたと喜ぶ、収穫した野菜を持つしわしわのパパの手。そんな光景を思い出したメイの頬に、涙が伝った。