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メイが図書館のいつものスペースに到着したら、いつもは先にいるアーサーが今日はまだ来ていなかった。席に腰かけて、アーサーがくるまで復習でもするかと準備をしていたとき、アーサーが、すまない、と言ってやってきた。アーサーは、いつもはメイの隣に座るけれど、今日は向かいに座った。
「遅れてしまった、待たせてすまない」
「大丈夫ですよ。私も今来たところですし」
「すまない」
アーサーはそう言うと、それでは始めようか、と言った。メイは、なんとなくアーサーの雰囲気がいつもと違うような気がして、おずおずとアーサーの方を見た。アーサーはメイの視線に気がつくと、どうしたんだ、と聞いた。
「いや……なんだか、疲れてる…元気がなさそうかな、と思って…」
「え?」
アーサーは、驚いたのか珍しく少しだけ声が裏返った。そんなアーサーに、メイは、図星なのかな、と心の中で呟く。
「(討論会の準備とか、色々忙しいんだろうな…)」
「(エドガーに婚約者にならないかと言っているのを見て動揺したとは言えない…いや、そう言えば良いのか、でもどうやって…)」
「(アーサーさん、家の用事とかで、休みの日は遠いのにちょくちょく実家に帰ったりもしてるし…)」
「(…そもそも、エドガーと幸せになる未来も、今のメイにはあるのか)」
アーサーはそんなことを考えて、心臓に何かが刺さったかのように痛むのを感じた。記憶を無くす前のメイは自分の事が好きだったけれど、今のメイはそうじゃない。つまり、メイは他の誰かを好きになる可能性がもちろんあるということだ。
「(…いや、昔のメイにもあり得た話だ。俺が彼女の好意に甘えていたのだから)」
「あの、アーサーさん」
「な、なんだ。説明が早かったか?」
「いえ、あの、教えていただく立場で言いにくいですけど、今日はお開きにしませんか?」
「え、」
「アーサーさん疲れてるみたいですし、明日も学校ありますし、今週も実家に用事で帰るんですよね?」
「なんでその話…」
「ここに来る前にエドガーに聞きました。また来週、余裕があったら教えてください」
「エドガーに…」
アーサーの表情が曇る。メイは、あの、と話を続けようとするが、アーサーが、いいんだ、と首をふる。
「すまない、心配をかけたな。変な態度をしてしまって悪かった」
「あの、でも」
「本当に大丈夫なんだ。続きをしよう」
アーサーは、そう言うと説明を再開した。そんな彼を、心配そうにメイは見つめるが、勉強のほうに集中しようと切り替えた。
今日の勉強もそろそろ終わろうか、という頃に、アーサーが、そういえば、と言った。
「辞書を引きながら文章も書けるようになったから、そろそら村に手紙を書いたらどうだろうか」
「手紙…」
「しばらく連絡が取れてないだろう。君にとっては一番長く過ごした場所なんだから、気になるんじゃかいか」
内容を見てもいいなら、俺も書くのを手伝う、というアーサーに、メイは、少しだけ戸惑ってしまう。村のことは気になる。パパやママが元気にしているかとか、動物たちのこととかを知りたい。それでも、アーサーに言われると、メイさんの側の人に言われると、なんだかいけないことのような気にメイはなってしまう。あの村でココとして過ごした日々は、あっても良いことなのだろうか。メイさんとして、ターナー家でお嬢様として過ごしていた日々に戻らなくてはいけないのだろうか、と。
「村に字を読める人はいるのか?」
「あっ、…牧師さんが、多分」
「ならいいな。今から書いてみようか」
アーサーがそう言って、メイに手紙を書くように促す。しかしメイは、どうしたらいいかわからない。そんなメイを、不思議そうにアーサーは見つめる。メイは服の裾を握ると、笑った。そんなメイを見てアーサーは心配そうな顔に変わる。
「…ありがとうございます。手紙、書いてみようかな…」
「…何か、気にかかることでもあるのか?」
アーサーの言葉に、またメイは、なぜこの人は私が嘘で笑っていることがわかってしまうのだろう、と不思議に思う。メイは少し黙ったあと、あの、と言った。
「…良いのかなって」
「良い、とは?」
「メイさんに、ならないとって、…特に最近強く、思うようになってて…」
街でアーサーに言ったこととは真反対のことを言い出すことに少し躊躇したが、隠してもアーサーにはバレてしまうだろうと、観念してメイは話し出す。アーサーは、前に啖呵を切ったメイのことを、馬鹿になんてせず、真剣に見つめている。
「ココでいたこと、…私の中ではそれが本当だけど、でも、…こっちで暮らす他の人達にとっては、あってはいけないことなのかなって。早くココなんてなくなって、メイにならないと、いけないのかも、…って」
それでも記憶は戻らない。それなら私は私として生きたい。それでもやっぱり、貴族の世界に身を置けばそれは難しくって。リズもオットーも、メイのことを大切にしてくれる。だからこそ、彼らの口には出さない本当の願いに、昔のメイに戻ることに応えたほうがいいことはわかっている。それでも、だからこそ、戻れない自分の存在の意味が不明確になるのだ。
「昔の君も、ココとして生きていた君も、俺は全部同じだと思っている。分けなくても良い。君は君だ」
アーサーの言葉に、メイは伏せていた目をアーサーの方へ動かす。その時に、瞳の中にめいっぱい溜まっていた涙が動いて、頬に一粒溢れた。人前で泣くなんて、と思い、メイは慌てて手のひらで涙をさっとこすり取る。そんなメイを見て、アーサーは小さく頬をゆるめる。
「君は、記憶をなくす前の君になれないことを苦に思っているかもしれないけれど、…人前で泣きたがらないところも、…無理に笑うときに服の裾をつかむ癖も、記憶をなくす前の君と一緒だ。文字を知らなくても、好みが変わってしまっても、君は君なんだと、俺は思っているよ。周りのせいで、アイデンティティが揺らぐこともあるかもしれない。それでも、それに振り回されず、自分は自分だと、生きていけばいい」
アーサーの言葉が、なんだかとっても優しくて、メイは声を出して泣きたくなった。自分の隠していた痛い傷を、さらけ出すのは恥ずかしいような部分を、優しく包んでもらえたような気がした。メイは、なんとか涙をこらえて、ありがとうございます、とだけを絞り出して言った。アーサーは、いや、とだけ返した。
結局手紙は、一度メイだけの力で書いて、清書する前に文法など意味が伝わらないところがないかをアーサーに見てもらい、それから送ることにした。
荷物を鞄にしまい、二人で図書館の外に出ると、辺りは薄暗くなっていた。もうすぐ秋も後半になる。この学校に来て、もうすぐ3カ月になろうとしている。
あと少ししたら冬ですね、とアーサーに話しかけたとき、メイはふと疑問が浮かんだ。
「…そういえば、私の癖とかよく気づきましたね」
「君のことをずっと見てきたからだ」
「えっ」
アーサーが、しまった、という気持ちでメイの方をみられないまま固まる。メイはアーサーを見上げて固まったまま、少しずつ自分の頬が紅潮していくのを感じていた。
「……幼い頃から、婚約者だったから」
「(な、なんだ、どきっとした…)」
メイは頬の赤みがなかなか引かないまま、アーサーさんは観察力があるんですね、と率直な感想を述べた。アーサーは、微妙な顔をして、そうだろうか、と返した。メイはそんなアーサーの横顔を見つめながら、アーサーさんは、と口を開いていた。
「優しい人ですよね、とっても」
「そんなことはない」
いつもの無表情で返すアーサーに、メイは微笑む。口数は少ないし、本心がわかりにくいけれど、根はとっても優しい人なのだと、今日までの時間で十分すぎるほどメイには伝わっていた。
「昔の私が、アーサーさんのことを大好きだった気持ち、とてもよくわかります」
「えっ」
メイの方を、アーサーが見た。そのアーサーを見て、メイは驚く。いつもの無表情のアーサーの白い頬が、赤く染まっているのが見えたからだ。えっ、とメイが声を漏らした瞬間、アーサーは顔をメイから見えないように背けてしまった。
「…そろそろ帰る。それじゃあ」
「あ、はい、ありがとうございました」
アーサーは、早足でメイを置いて彼女から遠ざかり、宿舎の方へ向かってしまった。しかしすぐに、また早足でメイの元に戻ってきた。
「あの、何か…」
「…忘れ物をした」
「あっ、図書館にですか?」
「いや、…君を送ることだ」
行こう、とアーサーはぶっきらぼうに言う。そんなアーサーに、メイは吹き出す。そんなメイに、バツが悪そうに黙るアーサー。メイは、そんなアーサーに微笑みが止まらない。なんだか私、この人のことが結構好きみたいだと、メイは心の中で呟いた。
11/6 アーサーの台詞修正




