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青い空に白い雲がよく映える、そんな天気のいい日は眠くなる。木陰に腰を下ろした少女がうとうととまどろんでいる。夏の太陽は照りつけるようだけれど、それを遮る木の葉のおかけで体感温度はずいぶん涼しい。午前中の畑仕事に、飼っている牛や馬の世話で疲れた体にふくお昼前の心地いい風が、彼女を眠りへといざなう。牧草の青臭いにおいと土の深いにおい。安心するにおいに、少女のまぶたがどんどん重くなる。
「ココ、ココ」
ココと呼ばれた少女は、はっと顔を上げて、声の主を見上げた。そこには、優しい笑顔をした年老いた女性が立っていた。彼女がつけている使い古したエプロンからは、お昼ごはんであろうスープのいい匂いがした。
「ママ!もうお昼の時間?」
ココは、栗色の長い髪を揺らしながら立ち上がる。
「そうだけど、そのまえに、教会へ野菜を届けてくれないかい?パパが準備してるから、受け取ってちょうだい」
「はあい」
ココは、作業で汚れた服を軽く手で払うと、畑にいるであろう父親のもとへと走って向かっていった。
「パパ!ママが言ってたお野菜ってどれのこと?」
ココが大きな声で呼ぶと、父は畑仕事の手を止めてココを見た。そして、しわだらけの顔にさらにしわを寄せて微笑むと、これこれ、と積まれたトウモロコシとトマトを指さした。
「適当になにかに包んで持っていっておくれ」
「はあい」
「気をつけるんじゃよ」
「はあーい」
ココは父にひらひらと手を振ると、野菜を持って去っていった。父はその後ろ姿を優しい顔で見送った。
ココは、農業を主な生業とした人たちが集まるこの村で育ってきた。
年の近い友達と遊ぶこともあったけれど、家の仕事が忙しいため、家の牛や馬の世話をして遊ぶ時間のほうが多かった。時折教会の牧師から聞く街の話が遠い世界に感じるほど、この村は緑しかない。美味しいケーキが出てくるカフェや、色とりどりのドレスの話に心が躍るけれど、ココには動物の世話や野菜を育てている時間で、十分に生活は満ち足りていた。少し足りないものをあげるなら、ココには小さい頃の記憶がなかった。遊んでいる時に誤って頭を打ち、それから以前の記憶を失ってしまったのだとココの両親は言っていた。しかし、それも些細なことに思えるほど、ココは幸せだった。この村はココの家も含めてみんな裕福ではなかったけれど、ココには優しい両親がいて、懐いてくれる牛や馬がいる、それでココには十分だった。
この小さな村には、一つだけ小さな教会がある。とても古いけれど、村の人は大事にしていた。ココは教会に到着すると、扉を開けて中を覗いた。そこには誰もおらず、牧師さん?と呼びかけると窓の外から、はーい、と穏やかな声とゆらゆらと揺れる手が見えた。ココはそちらの方に向かうと、教会の周りの雑草を掃除する牧師の姿があった。
「ココさん、いらっしゃい。いやー暑いね。草がどんどん生えて…でも、生き物が生き生きしてるのを感じられていいですよね」
「あはは。これ、野菜です。ママとパパから」
「いやいやー、いつもありがとうございます」
牧師はニコニコ笑って礼を言うと、ココから野菜を受け取った。わあ美味しそう、とまん丸の顔を緩ませる牧師に、ココもにこりと笑う。すると牧師は、いやあ、今日は騒がしいですね、と続けた。ココは首をかしげる。牧師のいつものおしゃべり好きがはじまった、と、思いながら。
「何かあったんですか?」
「あら、ココさんは知らないんですか?今日は街の方から貴族の方がこの村の視察に来ているそうですよ。村長が、こんな村に貴族様を泊めるとこなんかないって嘆いてましたよ。なんとかしたみたいですけど。なんたって侯爵家の方たちですって。そんな偉い方たちがこんな田舎までご苦労さまですよね、本当に」
「へえ、貴族の人…」
村の人からの話でごくたまにでてくるような、そんな自分には縁がない言葉に少し色めき立つ。牧師は、どうもこの村を治める貴族が代わるとかで、その関係で視察に来るみたいですよ、この村ももっと豊かになればいいんですけれど、でもそんなこと期待しても…などと話を続けている。
「おっと、噂をすれば…ですね」
窓から教会の中を見て何かに気がついたようで、声をひそめる牧師。ココは、え、とつぶやいて牧師の視線の先を見た。
そこには、教会の中で片膝をつき、両手を組んで頭を垂れて祈りを捧げる金髪の少年の姿があった。
この村では見たことがないほど綺麗な服を着ており、着古した自分の服を手で伸ばしてみて、その落差を感じてまた驚いた。少し長い間のあと、祈りを終えた少年が顔を上げた。その横顔に、はっとココは息を呑んだ。綺麗な金色の髪に、白い肌。澄んだ凛々しい赤い瞳はまるで宝石のよう。美しいその少年を見て、胸が高鳴り、なんだかじっと見つめるのも恥ずかしく思えて、ココはすっとしゃがみ、赤い顔を両手で隠した。その様子を見た牧師が微笑ましげに口を開いた。
「彼は、今来ているブラウン家のご子息ですね。教会の仕事で街に行くと、彼の噂はよく聞きますよ」
そんな牧師の言葉に、そ、そうなんですか、と脈打つ心臓を抑えながらココは返事をする。もう一度、と思いそっとまた窓を覗いた時には、もう少年はいなかった。
「(綺麗な男の子だったな…)」
夕飯を目の前にして、ココはぼんやりと食事も進んでいない。
教会から帰ってきて、ずっと上の空な様子の娘に、両親は顔を見合わせる。熱でもあるのかと額を触るが平熱である。
「ココ、ココったら!」
「は、はい!」
「パパの話を聞いていたかい?」
「パパの話…?」
きょとんとするココに、やっぱり、と笑う二人。
「ジョセフと結婚するのはどうかって話よ。ココももういい年だし。向こうの親とは前から話してたんだけど、今日、そういうことにしましょって、決めたから」
「じょ、ジョセフと…?!」
ココは驚いて咳き込んだ。ジョセフといえば、粗暴で口の悪い少年で有名である。何回か、近所の子ども同士でジョセフと遊んだことがあるが、女の子を転ばせて笑ったり、とにかく意地悪で良い印象がない。いつも不機嫌そうな顔をしていて、体が縦にも横にも大きいから威圧感がある。太くたくましい腕は毛深くて、女の子たちからは野牛と呼ばれている。
「ジョセフはいいでしょう、力持ちだし、仕事の力になるわ。とても頼りがいがある。ああいう男なら安心するわあ」
「確かにな。男は力が一番!」
そう言って、娘の結婚が決まったことに喜ぶ両親を前にして、野牛は嫌だとは、ココには口が裂けても言えなかった。ココは机の下で服の裾をきゅっとつかむとにっこり微笑む。
「わかった、パパママ、結婚が楽しみ、とっても」
そうだろう、そうだろう、と喜ぶ両親に、これでいいんだ、とココは頭の中で唱える。
と、その時、昼間に見た少年をなぜか思い出した。
「(なぜ、彼のことを思い出したんだろう)」
あんなに世の中には素敵な人がいるのに、自分は野牛と結婚しなくてはいけないのか、という悲観からだろうか。しかし、しがない農家の娘の自分が、侯爵家の人とどうにかなれるわけがない。ココは、ほとんど手がついていなかった夕飯に手を伸ばし始めたが、味がぜんぜんしなかった。