5話 魔の一時間
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三月八日(水曜日)。
天気は晴れ。絶好の出発日和だ。
紗月は予定より早く起床し、準備を開始する。荷物は昨夜のうちに用意しておいたから、後は箱に詰めるだけだった。ただあれから少し減ったとはいえ、かなりの量があったので部屋から駐輪場まで何往復もした。
荷物を詰め込み、食パン最後の一枚をトーストにして朝食を済ませる。この日のために家にある食料を消費し尽くしたので、冷蔵庫の中はきれいさっぱりすっからかんである。
最後にHDDレコーダーの容量めいっぱいにアニメや映画の録画予約をしたら、リュックを背負って立ち上がる。
「よし、行くか!」
ヘルメットを被り、グローブをはめて玄関を出る。太陽がまぶしい。今日もいい天気だ。まるで今日の門出を祝福しているみたいだ、と紗月は思った。
完全に勘違いなんだけど。
リュックを自転車の前かごに入れ、リング錠を外す。サドルに跨り、ペダルに足をかける。ゆっくりと踏み出すと、普段よりかなり重い手応えとともに、自転車がゆっくりと進み出す。
「いざ、四国一周!」
想定日程一ヶ月間。移動距離約千㎞の長い旅が、今始まった。
出発してから約一時間。紗月はクソ重いママチャリの運転にも慣れ、機嫌よく自転車を漕いでいる。
朝の通勤ラッシュ時間は過ぎたものの、国道55号線は常に交通量が多い。紗月は安全のために車道を走るのをやめて、歩道に退避していた。
後ろの箱がガタゴト鳴るにつれ、歩道はどうしてこう走りにくいのだろうと紗月は思う。
アスファルトで滑らかに舗装された車道とは違い、歩道の路面はざらざらでデコボコだ。これでは少し速度を出しただけで自転車がガタガタ跳ねる。とてもではないが、前かごに卵のパックを入れて走る気にはなれない。そんなことをしたら、あっという間に全部割れてその日のメニューがオムレツになってしまう。
まったく、この道を作った人は一度自分で自転車に乗って走ってみればいい。自分がどれだけ走りにくい道を作ったのか身をもって知ればいい。紗月はいつもそう思う。
ぶつくさ文句を言っているうちに、道がどんどん急になっていく。坂に入ったのだ。紗月は右手のグリップシフトを捻り、ギアを一段二段と下げてペダルを軽くしていく。
しかしギアが一番軽くなったにもかかわらず、ペダルは一向に軽くならない。勾配がきつすぎるのだ。思い切りペダルを踏んでもちっとも進まないので、仕方なく紗月は自転車を降りた。
自転車を押して歩き、ようやく坂を上りきる。三月だというのに、すっかり汗をかいてしまった。
だがその甲斐あって残るは下りだ。紗月は意気揚々と自転車に跨り、坂を一気に下り始める。
「ひゃっほ~、気持ちいい~」
10㎏を超える荷物を詰んだママチャリが、軽快に坂を下る。
ただでさえ重いママチャリの荷台に灯油屋外保管用の箱を積み、その中にキャンプ用具などの荷物を詰めているのだからさらに重いのだが、下りは重いほど加速するので自転車は原付並みのスピードが出ていた。
「この先ずっと下りならいいのに」
などと自分勝手なことを言いながらも、自転車はさらに速度を上げる。
そしてトップスピードに乗ったまま坂を下りきり、歩道と車道側にある店とのつなぎ目にある段差に差し掛かった瞬間――
ドン
奇妙な音がして車体が跳ね、
ゴッ
背後で何か重い物が落ちる音がし、
ガラガラガラ
それが転がっていくのを感じた。
「――えっ!?」
紗月は咄嗟に急ブレーキをかけた。
その感触ですでにわかったが、頭ではなく体が事態を確認しようと首を巡らす。
見れば、予想通り箱が荷台から脱落し歩道に転がっていた。
「うそーーーーーっ!」
思わず叫ぶ紗月。
半分パニックになりながらも自転車を歩道の端に停め、箱まで駆け寄る。持ち上げて底面を確認すると、五箇所止めてあった結束バンドがすべて破断していた。ただ、施錠してあったので中身を道にぶちまけなかったのは不幸中の幸いだろうか。
しかし、頑丈に取り付けたと思ったはずの箱が、どうして脱落したのか。
原因は、歩道の段差であった。
速度が遅ければ問題ない段差でも、高速でタイヤが乗りあげたらそれだけ衝撃は大きくなる。そしてより大きな衝撃が箱にかかれば、荷台と箱を繋いでいる結束バンドの限界を超える。
要は、結束バンドの取り付けが五箇所ではまったく足りなかったのだ。これは完全な紗月の確認ミスである。
とりあえず箱を拾い上げ、自転車の荷台に乗せる。当然、固定はしていないのでバランスが悪く、手で押さえていないとすぐに落ちそうだ。
ここで紗月は二つの選択を迫られる。
行くか、戻るか。
ここで応急処置をし、旅を続行するか。それとも諦めて家に戻るか。
悩みつつも、紗月は荷物の中から洗濯ロープを取り出して箱と荷台を縛り付ける。やはりナイロンロープで縛ったぐらいでは箱は固定できず、落ちはしないものの不安定で乗って移動するのは無理だと感じた。
やはり無理か。
箱がこの状態では、どの道二進も三進も行かない。致命傷である。これ以上進むのは不可能だと判断した。
始まったばかりの旅が、いきなり終わってしまった。
紗月の体から力が抜ける。ついさっきまで旅の始まりに興奮していたのが嘘のようだ。
『魔の一時間』というものがある。ツーリングなどで、致命的なトラブルは出発してから一時間以内に起きることが多いと言う。そして次に多いのが自宅まであと一時間の距離で起こる、気の緩みによる事故だ。紗月はまんまとこのジンクスにやられてしまった。
「ついてないな……」
呟いた言葉が、道路を走る車の群れにかき消される。通勤の車だろうか。これから仕事が始まる彼らと違い、自分はもう終わってしまったのか。
「いや、違う」
そうだ。違う。
たった一時間走った程度の距離で、致命的なトラブルが起きて良かったのだ。
これがもし出発から何日も経ち、旅程の半分ぐらいの地点の山の中で起きていたらどうなっていただろう。当然戻ることはできないし、応急処置をするにしてもホームセンターなどあるはずもない。それこそ進退窮まっていただろう。
それに比べたら、今の自分は何と運が良いことか。
何せここは、家から自転車でたったの一時間。歩いても帰れる距離なのだ。出直すくらい、何てことはない。これは失敗ではないのだから。
そうと決まればさっさと帰ろう。紗月は片手を箱に添え自転車をゆっくりとUターンさせると、家に向かって慎重に歩き出した。
頭の中では、これからやる事をシミュレーションする。まずは当然箱の再取り付けだ。今度は結束バンドの数を少なくとも倍以上にしよう。
それからやはり荷物の削減だ。今のままでは重すぎる。
他にも考えることは山ほどあったが、なあに時間はいくらでもある。
何しろ今からたっぷり三時間は歩くのだから。