32話 お風呂は毎日入りたい
◇
「そういえば、ここってお風呂はないんですか?」
夕食の後片付けが終わり、食後のコーヒーブレイク中にふと思い出したように達樹が訊いてきた。
紗月はついにこの質問が来たかと思ったが、極力平静を装って答える。
「シャワーならあるけど、夏季限定だから今はやってないかな」
「え、じゃあお風呂ってどうすれば」
ざわ、と音が聞こえそうなほど動揺する達樹に、紗月もびっくりする。
「以前はこの近くに温泉があったんだけど、今はコロナで閉鎖しちゃったんだよねえ」
「他に温泉とかはないんですか?」
「今から行ける範囲だとちょっとないかも。明日帰る時なら何軒か心当たりがあるけど」
「じゃあ、今夜はお風呂に入れないんですか?」
「たっちゃん今日は運転しかしてないから、そんなに汗かいてなくない?」
「そういう問題じゃなく、お風呂は毎日入るものでしょう」
「わたしはそうでもないかな」
「え…………………………………………?」
どん引きした表情で半歩退いた達樹に、紗月は慌てて訂正する。
「いや、キャンプの時は別に無理して入らないってだけで、普段は毎日お風呂に入ってるよ!」
「そんな『息は鼻から吸って口から吐くのよ』みたいな当たり前のことを力強く言われても……」
「ぬうん……」
たった一言の失言で、達樹との心の距離がずいぶん離れたような気がした。
「そ、そもそもキャンプに来て家と同じことができないのは当たり前で、キャンプは不便を楽しむものなの。そんなに家が良かったら家にいろ。もしくはホテルに泊まれって話だよ」
「それは確かにそうですけど、だからといって避けられる不便を避けないのは、不便を楽しむのとは違うと思います」
「ぐふ……っ!」
達樹の正論パンチが炸裂。紗月に大ダメージだ。
「あ、明日には温泉に入れるから、とりあえず今日は体を拭くくらいで我慢してね」
「わかりました」と返事はしたものの、達樹はまだ風呂に未練がありそうだ。
「ごめんね、今回はわたしが場所を決めちゃったからお風呂入れなくて」
「いえ、そんな。わたしこそ嶌さんに頼りっきりなのに、お風呂ぐらいで文句を言ったらバチが当たります」
「文句ぐらい言っていいよ。わたしなんか他人のせいで自分の予定が狂うの嫌いで、それで独りで野宿するようになったんだから」
元から団体行動が苦手な性格だった。運動も球技などの団体競技は嫌いではないが、個人種目の方が性に合っていた。そのせいか柔道も団体戦は苦手だったが、個人戦はやたら滅法強かった。
「そうなんですか?」
「うん。誰かと行くと、自分の予定が狂ったり気を遣ったり面倒臭いじゃない。わたし、そういうの大の苦手でさ。その点、自分一人なら何から何まで自分の好きなようにできるじゃない。ただし、何があっても自己責任なんだけど」
「わたしは、嶌さんみたいに強くないから、何かあっても自分一人ではどうにかできそうにありません」
「何かっていうのは、今日みたいにナンパされることだけじゃないよ。運転中の事故だったり車の故障だったり、なかなかご飯食べるお店が見つからなくてイライラしたり。そういう旅で起こる大小さまざまなトラブル全部ひっくるめてだよ」
「だったらなおさら、わたし一人で何とかできる自信がありません」
「そんなことないよ。わたしにだってできるんだから、しっかりしてるたっちゃんなら絶対できるって」
「そうでしょうか……」
「ま、無理にとは言わないけど一度くらいやってみるといいよ。何から何まで全部自分で決めて、もしくはなんにも決めないで思いついたまんま出たとこ勝負で旅をするの。もちろん楽しいだけじゃないけど、この気楽さと身軽さは独りじゃないと絶対味わえないから」
「それはちょっと……楽しそうですね」
「絶対楽しいよ。だってわたし、いつもそう思ってるもん」
焚き火の灯りが、満面の笑みを浮かべる紗月を照らす。
「それでも独りが心細いなら、わたしで良かったら一緒に行くよ」
「はい、その時はまたよろしくお願いします」
それから二人は薪がすべて燃え尽きるまで語り明かした。
翌朝。
日の出と共に、二人はどちらからともなく起き出した。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れた?」
「いいえ。思ったよりテントに風が当たる音が大きくて、夜中に何度も目が覚めてしまいました……」
テント泊に慣れていないと、外の僅かな物音で目を覚ましてしまう。特に普段から寝つきの悪い人間は、日常にない虫の声や動物が通る際に草木を鳴らす音に敏感に反応してしまうことが多い。
「今度からは耳栓を用意するといいよ」
「ええ、それも今度買っておきます」
これで着火剤に続いて耳栓が達樹の買い物リストに入った。
「こうして道具が揃い、自分に合ったキャンプのやり方が出来上がっていくのだよ」
「そうですね。やってみないとわからないことがたくさんあって、いい経験になりました」
「それじゃ、洗顔してから朝ごはんにしよっか」
「はい」
それから二人は身支度を整えると、湯を沸かしてコーヒーを淹れ、紗月の常備食である食パンで朝食にした。
「たっちゃんは朝食何回食べる?」
「普通に一回ですけど……何回も食べるものなんですか?」
「だよね。普通一回だよね。けどわたし、キャンプすると何故か燃費が悪くなって、朝ごはん二回も三回も食べちゃうんだよねえ」
「それは、いつもより早い時間に朝食を摂るからじゃないでしょうか」
「ううん、それだけじゃないの。だってお昼ご飯も二回食べたりするもん」
「それは……ちょっと燃費が悪すぎますね。っていうか、よく太りませんね」
ちらり、と達樹が紗月を見る。
身長は女子にしては高めの達樹よりもさらに高く、体重も明らかに達樹よりありそうだが、余計な脂肪がなく引き締まっているのできっと筋肉の重さだろう。モデルというよりは、アスリート体型だ。そう言えば柔道をやっていたと聞いたが、そのせいだろう。
「いや太るよ、ってか太った。おかげでダイエット大変だったもん」
「あ、やっぱり太るんですね」
紗月の口からダイエットという言葉が出るのは意外だったが、そのギャップが何だかとても可愛く思えた。
「うん。だから今回は絶対朝昼晩の三食だけにするんだ。たっちゃん、わたしが食べたいって言っても絶対ラーメン屋とかに寄ったらダメだよ」
真剣な表情で頼む紗月の姿に、達樹は思わずくすりと笑う。
「はい、わかりました」




