真実の名
五島醍醐は、気がつくと川底にいた。
呼吸をしようとして水が口に入ってくる。
息が出来ない。必死にバタバタと手足を動かした。ようやく水の上に顔を出した。気がついてみれば、川の水位は低く、膝下程度のものだった。
流れている水は綺麗なものだったが、全てがコンクリートで囲まれていて、川というよりは用水路か何か、目的を持って作られたものではないかと思われた。
川の縁に立っている女性が言った。
「結局、ついて来たのね」
「……」
女性は、黒いファーのコート、黒いブーツ。黒いケープを羽織っている。俺は覚えている。転生前、その人は愛瑠と名乗った人だった。
「ほら、そこから上がれるでしょう?」
梯子の代わりに『コ』の字をした金属がコンクリートの壁に等間隔で刺さっていた。
俺はそれを利用して川の縁に立った。
服から水が滴っていて、少し寒い。
「ここはどこ?」
「あなたは身分証を持っている? 確か、学生だったわよね。学生証、持ってる?」
「いや、学生証を持ち歩く習慣はなくて」
愛瑠はため息をついた。
「はぁ…… まあ、仕方ないわね。何も準備してないのだから」
手招きされるままに彼女に近づくと、愛瑠は小さなパスを見せた。
「何これ?」
免許証のようだったが、名前は愛瑠ではなく、相模紀子と書かれていた。元いたところと言語は同じだが、県や市の名前が全く違う、違和感だらけの住所と、発行元の名前が書かれている。
「これはそれぞれ転生した先で自分を知る一つの手段よ。あなたも早いうちに、身分証を作るべきね。自作のドックタグでもいい。けど、こんな風に、なるべく沢山の情報が書かれている方がいい」
「それがなんの役に?」
「転生した先の自分を知ることが出来るわ」
つまり、愛瑠は今『さがみのりこ』だと言うことだ。
「さがみのりこ、がここでの名前? じゃあ、愛瑠は俺の世界にいた時の名前?」
「どうだと思う」
真実の名を俺に告げたのだろうか。
それとも転生した先の名を名乗っただけか。
追求しても応えてくれるか分からなかった。
俺にとって、それはどうでもいいことだった。
「俺が勝手に作ったドックタグだとしても、こんなふうになるの?」
「多分そうなるわ。最初、名前を書いていたメモ帳が、転生先で書き変わっていたので気がついたの」
とにかく、この濡れた服を着替えたい。
「生徒手帳がないなら、あなたの、この世界における正確な名を知る必要があるわ」
俺は服を絞って、水を切った。
「まあ、まずはこの住所に行ってみれば『私が何者か』わかるわ」
そういうと、愛瑠は通りを歩いている男に声をかけ、住所について訊いた。
男は鎧のような形の、半透明なプラスチック素材の服を着て、西洋人のような顔付きだったが、愛瑠の言葉は通じたし、俺も理解できた。
「タクシーはどこで乗れるかしら?」
「そんな金があるなら、自分勝手に呼べよ」
男は勝手に怒り出して、去って行った。
車が走りそうな道はあるのだが、車が走行していない。
急に陽を隠すものがあって、二人は影に入った。
見上げると、そこには大型の輸送機が飛んでいた。
それどころか、大小様々な飛行体が空を動いていた。
「タクシーはあれね」
愛瑠は空を指差した。
「……だね。けど、今の男の人の言葉からして、タクシーは腹立たしいほど高額みたいだけど」
「あなた、どこだか分からない世界の、どこだか分からない住所に向かって、知らない街中を歩く気力があるの?」
「金はどうするのさ」
愛瑠は手を広げて持ち上げるような仕草をした。
「今ここの場では払えないわ。けど、この住所の部屋の中にあるかもしれないし」
俺はため息をついた。
「支払い出来なくて殺されたりしないの?」
「そんな恐れがあるなら、その時はあなたが守ってくれればいいでしょ」
「中学生にボディガードを要求するの?」
愛瑠もため息をついた。
「文句は言うのに、何もしてくれない、っていうのなら、文句の方を引っ込めなさいよ」
「……」
「あと、転生したんだから中学生かどうか分からないわ。これまでの見た目は、あなたの世界と変わらない気もするけど」
確かに建物の構造や材質は似ている。画期的に違うとしたら、地上に車が走っておらず、あっちこっち、無秩序に飛行体が飛び交っていることだけだ。
愛瑠は地上の道端にある呼出ボタンを見つけ、押した。
視覚障害者用に音が鳴り始めた。
上空を飛んでいたプロペラの付いた巨大なドローンのような飛行体が、真っ直ぐ降下してくる。
そして、二人の前に着陸すると、ドアが開いた。
「……無人機ね」
愛瑠は乗り込むと、行き先をカメラに向けて見せ、言った。
「ここに行ってちょうだい」
『カード専用機です。支払い可能なカードを右の口に差し込んでください』
「カードはないの。行った先で払うわ」
文字が書かれていた画面が切り替わって、人の顔が表示される。
その顔は、どこの世界でも怖がらせることが出来そうな、イカツイ面構えだった。『おい、ふざけたことを言うな。早く降りろ。六十秒以内に降りないと電撃が流れるぞ』
俺は慌てて降りた。
「無人機だとダメね。有人機は飛んでないのかしら」
そう言いながら、愛瑠も続いて飛行体から降りた。
秩序なく飛行体が飛んでいるので、どんなタイミングでボタンを押せば狙った飛行体が降りて来るか、分からない。
しばらく空を見つめていたが、愛流は再び呼び出しボタンを押した。
今度は、ビルの影から、タイヤのないセダン車の形をしたものが下りてきた。地上に触れる直前に、タイヤが四つでて、着地と同時に大きくバウンドした。
さっきのプロペラタイプのものとは違い、飛行する原理自体が違うようだった。
後部のドアが開いて、スピーカーから声がした。
「お呼びで」
開いたドアに体を半分突っ込むと、愛瑠は言った。
「お金はないわ。この住所まで送ってくれたら、家にあるもので支払う。それでいい?」
「……」
タクシードライバーが、運転席からジロジロと愛瑠を見た後、言った。
「ああ、それでもいいが、何か金目のものがなかったらどうする」
「何かサービスするわ」
「サービス、ね。気に入った。乗れ」
俺と愛瑠が乗ると、ドライバーは言う。
「オネェさんの子供か? まさか、彼とか、旦那とかは言わねぇよな」
「赤の他人よ、多分」
愛瑠はシートベルトを閉めていた。
「……」
ドアが閉まると、車体の底面全体から反発力を感じた。
車は再び着地し、少しタイヤでバウンドしてから止まった。
「おい、小僧。ベルトをしないと車の屋根を舐めることになるぞ」
再び床面から反発力のようなものを感じ始めると、車体が浮いた。
そしてなめらかに加速しながらビルの高さを遥かに越え、向きを変えるとスピードを上げた。
反重力とでも言うのだろうか。磁石の同じ極が反発するような力を使って浮いて、同じ力を使って前方に進んでいる。
レールのないリニアモーターカーと言ったところだ。
ドライバーは操縦桿には触れているが、操作はしていない。どうやら自動運転らしく、ドライバーはずっと愛瑠を横目で見ていた。無秩序な高さに見えるが、きっと自動運転装置側に何か法規で定められたものがあるに違いない。そうでなければ、自動運転とは言え、あっという間に衝突しそうだ。
大きなビルの屋上に着地すると、ドライバーは愛瑠にあるサービスを要求した。
「金を持って帰ってくるなんて信用できるか。今サービスして料金に相当する分をしはらえ」
「そんなことを強要するなら、あなたの会社を訴えるわよ」
「個人でやってるんだからそんなもんねぇな」
ドライバーは手を大きく広げて、そう言った。
愛瑠も引かない。
「国に訴えれば、タクシー免許が取り消しになるわよ」
「こっちだって、お前が料金支払わない可能性があった、と主張する。過去に乗客からモノを奪っても正当だった、という判例は知ってる。お前だって負ける可能性があるぞ」
「……」
愛瑠は俺に出ていくよう手で指図した。
「話がわかるじゃねぇか」
「一線は越えないわよ」
俺が聞いたのはそこまでだった。
タクシーを出ると、車の窓が突然黒く変色して車内が見えなくなった。
しばらくすると、タイヤが跳ねるように激しく動いた。
そして、静かになったかと思うと、窓が透明になって車内が見えるようになった。
愛瑠は降りてきて、唾を吐き捨てた。
唾は、溝の中に消えてよく見えなかったが、ただの唾にしては白かった。
タクシードライバーは打って変わったように笑顔で愛瑠の方を見ている。
俺は愛瑠を見つめていた。彼女の服装が、心なしか乱れているように見える。
「……何よ」
「……」
「安心しなさい。支払いはこれでおしまいよ」