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平手造酒
千葉周作先生のもとで剣の修業にはげんでいた俺だがなんの因果か、労咳という不治の病に犯されてしまった。千葉先生のもとを離れ、流れ流れて、下総国までやってきた。そんな俺を迎えてくれたのは笹川繁蔵というヤクザの親分だった。その親分に世話になりつつ、世を送っていたおれだが、その親分がこれまた飯岡助五郎というヤクザの親分と出入りとなったおり、俺は繁蔵親分に助勢を頼まれた。流れ流れてきた俺をしてくれた男だ。たとえヤクザの親分でも外せばすたる男道。結局おれはこの大利根河原の決闘で命を落とした。俺が死んだあと俺は天保水滸伝などで物語として伝えられることになったが、それは俺の知ったことではない。
平手の実名については、かつては平田深喜とする説が有力だった。これは子母沢寛が『游侠奇談』で紹介した「御見分書」の記載による。しかし、昭和40年頃、千葉県香取郡神崎町松崎地内を流れる浄光川の河川改修工事に伴い、堤防沿いの草むらの中から「平田三亀之墓」と刻まれた墓石が発見され、これにより平田三亀が正しいことが判明した。




