5
海峡トンネルとそこを通る鉄道が整備され始めたのは、ちょうどこの国が移民を受け入れ始めた時期と一致する。磨かれた機体の眩しさは、埃まみれの都市には不似合いだ。新品の靴を履いた子供を眺めるようなむずがゆさでたまらなくなる。
切符を改札に通し、座席に腰を下ろしてようやく、最後に国外へ出たのが幼い頃であったことを思い出した。両親に連れられて向かった海の向こう――戦争孤児かと問われた記憶――あのときママは、パパは、どんな顔をしていたのだったか。きっと怒ってはいなかった。どこか誇らしげですらあった。
なぜ自分たちと同じ人種の子供を選ばなかったのかを察したのが、そのときであったような気がする。
何度も鉄道を乗り換えるごとに、機体は少しずつ古いものへと変わっていった。まるで時を遡っていくかのように。駅を取り巻く都市は町へ、やがて村へと様相を変えて、いつからか私たちを乗せた汽車は、あかあかと色づいた夕陽を遠くに見つめながら、荒野をひた走るようになっていた。
まばらに立つ木々は斜陽に照らされ、車体に長い影を投げかける。赤土の大地には幾本もの裂け目が走り、雨を乞うように口を開けていた。
だれもいない、と彼女が言った。唇から漏れてしまったというふうに。事実彼女の目は同じ車両の中をぼんやりと見つめているばかりで、向かいの椅子に座る私のことなどを気にしてはいなかった。
気取られぬように息をつく――初めから、こうして別のものを見ていればよかったのだ。同じように生まれて、同じ場所に育ったからといって、同じ人間になるわけがない。同じものを欲するわけもないのだから。互いに互いを認識しないまま、赤の他人のままでいた方がよかった。
それができなかったから、私はこうして、彼女と同じ列車に揺られているのだろう。
「ねえ」
手慰みに声をかけた。彼女がぱちぱちと目をしばたかせる。長い睫毛をしている子だ、と、そのとき初めて気が付いた。強いて見ないようにしていた彼女の顔は、いざまなうらに思い描こうと思ったところで、曖昧な輪郭さえ描きとることはできなくなっていた。
「前に言っていた、あなたの夢の話だけど」
「眠れなくなる夢、の話……」
「そう。眠れなくなるって、どんなきもちだった」
がたん、たたん、と汽車が揺れるたび、彼女の髪が小さく跳ねる。彼女は窓の外に顔を向けた。あかがね色に染まった頬を、白い光が滑っていく。
「同じことを訊かれた。夢の中でも」
「相手は」
彼女はうっすらと笑って答えなかった。もしかしたら私だったのだろうかと考える。そう結論づけるには、自意識が行き過ぎているような気もした。
「世界が終わっていくのを見つめているみたいなきもち、ですって。……夢の中の私はそう答えていたと思う」
「……そう」
「おかしな話。世界だなんて、いったいなにを指して言ったのかしら」
私は答えなかった。堪えるだけのことばと資格を、自分の胸に持ってはいなかった。
祖父母が移民として島国に逃れていった後、かれらの故郷は紛争に飲み込まれ、やがて数多の国々によって分割されていったという。一部には暫定政府が立ち、また一部は独立して新たな名前を冠するようになった。
だから私はかれらの故国の名前を知らない。教科書の中にすら残されなかったそれを、わざわざ調べようなどとも思わなかった。知ろうとすれば知ろうとしたぶんだけ、自分が塗り替えられてしまうのだと信じていたからだ。
徹底して距離を置き続けたものが、いま、レールの先で私を待っている。
「私ね。いつか行かなくちゃ、とは思っていたの」
私の視線を追った彼女が、同じように汽車の行く先を眺めていた。火はまさに山際に沈もうとしている。藍色の彼方、影の塊としてしか映らないそれが、イライザという女性の住む場所だという。
思い描くような故郷はない。けれど仮託している。往生際の悪い期待を抱いている。そこに郷愁を運んできてくれるようなものがあるかもしれないと、わずかに。そのどうしようもなさを、私はまた嫌悪する。
「あなたにとっては触れたくない場所なのかもしれない。けれど私にとっては、あそこはまだ自分のルーツなの。ずっと小さい頃に頭を撫でてくれたおばあちゃんの顔、もうはっきりとは思い出せないけれど、憶えている……」
汽笛が響く。人気のない終着駅に二人だけを吐き出して、汽車はもと来た道を帰っていった。空はすでに淡く鈍色に染まっており、ホームに等間隔に灯る電灯が頼りなく足元を照らしている。電球の眩さを避けるように行くうちに、いつからか足音がひとつだけになっていることに気付いた。
彼女は立ち尽くしていた。高所に立つホームから、無表情で街並みを見下ろしていた。ひどく寂れた町、薄闇に埋もれてしまうような小さな町だ。冬には雪が降るのだろうか、建物はみな背が低く、うずくまるようにして並んでいる。
帰路を急ぐ人々の髪は、一様に黄金の色をしていた。
「……ああ」
嘆息ははっきりと聞こえてきた。彼女はまばたきひとつしていなかった。
時間が止まってしまったかのような面差しを眺めながら、彼女はここを訪れるべきではなかったのだろうと考えていた。――知らない方が良かったのだ。帰るべき場所はいつだってここにあって、いつかは自分を迎え入れてくれるはずだと信じ続けていればよかった。確かめるようなことはするべきではなかった。依って立つもののない空虚さに、これでは、ただ気付かされてしまっただけだ。
「イライザさんの家は駅の近くだって」
荷から紹介状を探り出し、彼女に声をかける。彼女は目を伏せて、うん、とだけ言った。首から上はもう彼女のものではないかのような、自動的な声で。
抜け落ちてしまった彼女の表情を取り戻す方法を私は知らなかったし、そうする義理もなかった。私が歩けば彼女が続く――糸の切れた人形を引きずり回しているような感覚があって、なんとはなしに苦い気持ちになる。街路で他人とすれ違うたびに彼女の歩みは遅くなり、それは中央通りを半ばまで進んだあたりでとうとうぴたりと止まってしまった。
子供の声がする。母子が反対側から歩んできたのだ。彼女の瞳はその二人連れを呆然と眺めていた。羨望とも絶望ともつかぬ濁った眼差し。子供の甲高い笑声に、水を浴びせかけられたかのような顔をしていた。
「……わたし」
わたし、もう、――唇を動かしたのが見えて、それきりだった。
彼女はぐるりと踵を返し、逃げるようにして走り去っていく。その背中は呼び止める間もなく街角に消え、しかし私はといえば、結局一歩だって彼女のために歩むことはなかったのだった。呼び止めることすらせず、冷えた風に体を打たれながら、呆然として突き立っていた。
「あの」
と、子連れの母親に声をかけられるまでは。
返事をしてふり返る。四十代のころと見られる女性だ。しなやかな金髪が肩先で揺れている。自身によく似た子供の手を握り、彼女が今にもどこかへと走り去ろうとするのを力強く引き止めていた。
「人違いならごめんなさい。あなた、院長先生……ニースさんのところの娘さんではないかしら」
私は思わず口をつぐむ。わずかの間だけ考えて、「イライザさん?」と問い返した。母親はほっとしたようすで私に微笑みかける。
「よかった。ええ、イライザ・バレー、私のことです。院長先生からお話は聞きました、黒髪の娘さんがこちらにいらっしゃるって。帰り道にお会いできてよかったわ。すぐに家に案内します。……もうひとりの子は?」
彼女は、と答えに窮して、すぐに戻ってくると思います、と告げる。駅のホームに忘れ物をしたみたいで。それを取りに行ってくるからって。――毅然とした態度を装おうとしたところで、その実、口をついたのはもごもごとした、言い訳がましい声音だった。
とはいえ、すべてがすべてその場限りの嘘だというわけでもない。目的の家の地図を彼女に見せているのは事実だった。彼女も子供ではないのだから、落ち込むだけ落ち込んで、気が済んだなら、自分の足で家を探し当てるだろう。
「先にお邪魔します。お世話になります、イライザさん」
*
傷ついた顔をする彼女のことが、鬱陶しくて仕方がなかった。
私たちは、いつまでも繊細ではいられないのだ。無意識のうちに投げつけられた砂粒など、平気な表情で浴びていなければならない。そうして笑わなければいけないのだ、愚かな亀のふりをして。そうでなければ線を引かれてしまう。線を。一線を。混じることすら許されずに。
――彼女はその日、与えられた寝床を訪れることはなかった。
不安がるバレー夫婦をなだめて、私はひとりでかれらの家を出た。首筋を刺す冷気も気にかからない。ただただ憤懣ばかりが頭にあった。私がしてきたことが、どうして彼女にはできないのか。血も、歴史も、もはや私たちのものではない。依って立つものがない以上は無用の長物でしかないのに。――そんなことぐらい、何度も傷ついたならわかっているはずなのに。
彼女を見つけるのに、さほどの時間は要らなかった。彼女は私の想像通り、紺色に染まりきった空を頭上に、無人駅のホームの椅子に座っていたのだ。丸みを帯びた椅子の上、いつかのように膝を抱き、呆けた目で線路を見つめて。誰かの忘れ物であるかのような風情を漂わせながら。
私は昔から、その、ただ座り込んでいるばかりの彼女の姿が、とかく気に入らなかったのだった。
彼女の生みの親のことを、私は知らない。それどころか自分自身の親のことさえ。私にとっての肉親は、記憶の霧の向こうに消えてしまった何者かに過ぎなかった。頭を撫ぜた手は優しかったのか――名を呼ぶ声が温かかったのか――その唇は――瞳は――どれひとつ取っても、今の私の構成要素にはなり得ない人々。だから捨て去ってしまった、私がここにいるために、彼らは必要のない思い出であったから。
けれど彼女の肉親は、幼い日の彼女の胸に、大きな痕跡を残していってしまったのだろう。しこりじみた記憶――無用でしかないのに、捨てきれない体の一部となって。だから彼女はそちらにしか在れなかったのだし、一度座りこんだなら置き去りにされるのも当然だった。彼女もそれをわかっていたはずだ。
私は違う。
私とは違う。
なのに私まで自分の元に置こうとする、彼女の哀れっぽい顔つきが気に障るのだ。
「いつまで甘えているつもり」
彼女は私を見ない。小さく身を動かして、膝をより強く抱えただけだった。不遜な態度にまた腹が立つ。
――思い知ればいいと思った。
私が捨てたものを後生大事に抱え続けた、その報いを受ければいい。
「最初から知っていたでしょう。あなたの故郷なんてここにはないの。どこを探したって見つからない。帰る場所なんてなかったの、どこにも」
まるで夜汽車のようだった。きっとパパもママも、私にそれを望んでいたのだ。町から町をひた走り、懸け橋となったところで、自身が腰を落ち着けられる場所などどこにも存在しない。生来孤独であることを決めつけられてしまった以上、悲鳴を上げながら走り続けるよりほかにはないのだ。
どこにも染まれないから。――何にも染まれなかったから。
私も彼女も一人きりだった。肩を並べたところで、私たちにはなれなかった。そう見られることを、何より私が疎んでいた。
なんとか言ったらどうなの、と水を向ければ、彼女はすっくりと立ち上がる。黒々とした髪を夜風に任せて、「あなたのほうよ」とつぶやいた。意味が取れずに顔をしかめた私に、「ずっと宙ぶらりんでいたのは、あなたのほう」とくり返す。悲喜にまつわる感情のすべてを放り去ってしまったかのような、ひどく凪いだ顔つきで。それが初めて相対した彼女の反抗だったのだと気付くのに、長い沈黙を要した。
私が息を詰めているあいだ、彼女はじっと地平線を眺めていた。曖昧な色に溶けた地の涯を。
「私はこの場所を信じていられた。いつか帰る場所として夢に描いていられた。それに今日、やっと裏切られただけのことだわ。……じゃああなたは? あなたは今まで、なにを頼りにしてきたの。なにを頼りにしていくの」
「私は」
言葉が続かなかった。胸まで射抜くかのような彼女の瞳は、駅のライトを受けてなお黒くかがやいている。そこに見え隠れする哀れみの色を、やめろと打ちやることさえできなかった。
「ううん、もういいの。私、あなたの身にはなれないってわかったから」
告げて、彼女はくるりと身を翻す。踊るような足取り。そこに至って私は気付く、いまの彼女は私などより、もっと意味持つものを山のように捨てていることに。
ふいに閃光が視界を覆った。直線状のレールを辿り、夜汽車がこちらを目指している。最終便だった。この駅を通り抜け、終点さえも過ぎ去って、彼はもう元の街には戻らない。近付くにつれ輝度を増していくかのようなライトを、彼女はうっとりと、待ちわびたように見つめていた。
――怖気が走った。
「……ねえ、」
私が一歩を踏み出すより先、彼女はすでに二歩を後ずさっている。どくりと心臓が蠢く。逡巡の間もなかった。徐々に減速を始めた夜汽車が、私の前を横切っていく。
そこにもう彼女はいない。
『さようなら、エリ』
その夜、彼女は呆気なく死んだ。
急ブレーキが残した高音の余韻。誰かが怒鳴り散らす声。立ち尽くす私を問い詰めようとする気配。そのどれにも応えを返さないままで、私はただ、自分の名前を呼び得る人間が消え去ったことの意味について考えていた。