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約束というものの重みについて、この頃はとみによく思いを馳せている。
幼い頃はよく、ママやパパとの間に約束を交わしていたものだった。いい子にしていること、言いつけを守ること、人に親切にすること、食事を残さないこと――そうして形作られた私は、いったい何のためにあったのだろうか。約束を守ることそのものに拘泥していたことしか思い出せず、思考は何度となく空転する。
私が両親との約束を守り続ける子供であったように、件の彼女もまた私の約束を破ろうとはしなかった。夏季休暇を終え、いくつかの行事が通り過ぎるあいだ、私が彼女とすれ違う場面は少なくなかった――しかしそのどの機会にも、彼女は顔面を固定されたかのように自分の足元だけを見つめ、私の存在を視界に入れようともしなかったのだ。
おかげであの夜以来、胸がさざめくような思いをすることはないまま。気付けば夏も終わり、乾いた風が首元を吹きすぎていく季節が訪れていた。
ある寒い夜、ルームメイトがみな寝静まった頃。私は二段ベッドの上部に横たわり、ぼんやりと天井の染みを見つめていた。
彼女と言葉を交わして以来、寝付けない日が増えているのを自覚していた。少なからず影響を受けている自分に気付かされるようで、普段ならば無理やりに眠ってしまおうと努めている。しかしこの夜に限っては――三限の体育の疲れが長く響いていたのかもしれない――そうする気にさえなれなかったのだった。
私に嫌われたくない、と言っていたのを思い出す。
今更のことだと唾棄したあの願いこそが、彼女が私との約束を守る理由なのだろうか。私の歓心を買うために、彼女は私から距離を置いたのだろうか。――だとすれば、私が両親との約束を守り続けてきたのも、彼らに嫌われたくなかったからなのだろうか。ひとりになりたいと思いながら、庇護なしでは生きられないのを自覚していたから……。
首を絞められるような息苦しさから逃れたくて、私は無意識に鞄の中を探っていた。なにか、なんでもいい、考えることをやめさせてくれるようななにか。無心のままに探していると、指先はファイルの中に潜んだ紙切れに行き当たった。
手さぐりに引き抜き、携帯電話の明かりで確かめる。それは去る日に私がぐしゃぐしゃにした、孤児院からの手紙だった。まだ棄てていなかったのかと酸い気持ちに駆られる。携帯電話のライトを毛布の中に固定し、ルームメイトに光が届かないようにして、気付けば手紙の封を切っていた。
――親愛なるエリーへ。
見飽きた筆跡から、手紙は始まっていた。
私は息を詰めたまま文面に目を通す。思い返せば、院の手紙を読まなくなったのはもう四、五年も前からだ。年に数度、時期を違えず送られてくる手紙に嫌気が差すようになって久しい。不義理をたしなめる文章のひとつでも見つかれば、すぐに読むのをやめようと考えていた。
しかしその機会は、私の意に反し、終いまで訪れることのないままだった。文末の署名までを流し読んだところで、私は首をひねることになる。二枚つづりの便箋をめくり、もう一度初めから、今度はじっくりと目を通した。
――あなたに報せたいことがあり、急ぎペンを執りました。
――まずは今、この手紙を読んでいる、あなたの身や心が無事であることを祈ります。
急いた文面。かつて記されていたような季節の挨拶も、此度ばかりは省かれている。代わりに慎重な言葉選びで伝えられているのは、身の回りに注意するようにと警告する内容が山のように。
手紙を受け取って二月ほどが過ぎてしまった秋の夜。
私はこの日に至って、ようやく、院長先生の様子がおかしいということに気が付いたのだった。
――孤児院は市の南西、三区に位置しています。周囲に大学が点在していたことを憶えているでしょうか。これらの大学に少々過激な風潮が漂っていることが、私たちにとって長年の悩みの種でした。教師の側に凝り固まった思想を持つ人間がいるのか、あるいは学生団体のうちにそうした土壌を育む環境が作られてしまっているのか……なににせよ、彼らは行き過ぎたナショナリズムを掲げている。
――簡潔にまとめましょう。そうした学生たちの反移民運動が、昨今に至り強まりを見せています。
――ここ二週間の間だけでも三度のデモ行進が行われ、うち直近のものは警察官が出動するほどの暴動騒ぎになりました。三区では大きなニュースになりましたが、そちらには伝わっていないかもしれないので念のため。
「反移民運動……」
呟いたとき、下のベッドで寝返りを打つ気配がある。迷惑そうに「エリー?」と問う声がしたので、一言謝って口をつぐんだ。幸いすぐに寝息が聞こえ、私は再び手紙に意識を戻す。
――暴動は鎮静化させられましたが、いまだ予断を許さない状況です。あなたの暮らす学校にまで、この運動が届かないとも限らない。早いうちに親御さんや学園長先生と相談して、あなた自身の身の振り方をよく考えることを薦めます。
――大事な教え子、あなたの無事を祈って。
皺の付いた便箋を折りたたみ、私はしばらく瞠目していた。
学生寮に通っているあいだ、新聞やテレビのニュースに目を向けることはなかった。バス内に流れるラジオ放送ですら、雑音同然と聞き流すのが常であったのだ。その中で三区のデモ騒ぎが伝えられていたとしても気付かなかった。
事態は思いのほかに深刻なのかもしれない――。
漠然とした不安が形になったのは、その翌日のことだった。
教師のひとりから声をかけられて、私は校長室の前に誘われた。彼は次の授業は休みを取るようにとだけ告げて去り、あとには訳も分からぬままの私だけが残される。訝りながら扉を開ければ、埃っぽい空気の中に立つ生徒の姿が見えた。それが彼女であることを理解したとき、私の唇は一瞬、確かに引きつっていただろう。
「やあ、突然すまない」
大机の向こう側から校長の声がかかる。
講話が放送越しに行われるようになって以来、学校の肖像の中でしか見かけることのなくなっていた相手だった。壮年を過ぎたばかりと見える彼は、私と彼女とを視界に入れ、一度うなずいてから唇を開く。
「突然呼び出すことになってしまって申し訳ない。放送で名前を呼ぶこともできなかったから、驚いているかもしれないが」
「いえ」
全校中に呼び出しをかけられるほうが迷惑だっただろう、と想像するだに耐え難くなる。教師に袖を引かれた際にも、友人たちの奇異の目が突きささっていたぐらいなのだ。帰った後の教室の空気を想像して、私の胸はわずかに沈んだ。
「放送が使えなかったというのは」
「今朝方、学校宛てに手紙が出されてね。差出人は不明、署名代わりに〝国の未来を担う者〟とある」
「未来を……」
「ふざけた名前だろう、悪質ないたずらに違いない。普段ならすぐにダストボックスに放り込むものだが、……今は、現状が現状でね。きみたちも三区で起こった暴動の噂ぐらいは耳にしているだろう」
心臓が大きく鼓動する。「一応は」と答えれば、校長は重々しく頷いた。
「手紙は半ば脅迫じみた内容だった。今なお増える移民たち、その子たち、孫たちを、いまだに受け入れられない者たちの――聞けば、暴動加担者の中には反政府運動に携わっている人間も混じっていたらしい。この学校の中で同規模の騒動が起こる可能性も、少ないだろうとはいえゼロとは言いきれない」
一語一句を選んで口にする校長のようすには、彼の立ち位置の微妙さが見受けられた。
境界無き学び舎を自称する以上、この事態への対応には衆目の関心が寄せられているに違いなかった。同時によほどの重圧も。今日中にそれとなく事務室の様子を窺ったところ、生徒の保護者たちからは絶え間なく電話がかかってきているらしい。学校に行くな、と親に言われた――そう冗談めかして笑った、クラスメイトのことを思い出す。
「きみたちのような子供を」と曖昧なことばを使い、校長は唇を噛む。「少人数ずつ呼び出して話をしている。こうした手段を取るのは、非常に心苦しいのだが」
「退学でしょうか」
おそるおそる問いかけると、校長は目を丸くする。即座に大きく首を振った。
「そこまでのことは。ただ、一時的に休学していることを薦めよう、ということだ。まずは一週間――長引くようなら一月――騒ぎのほとぼりが冷めるまで。そのぶんの授業の手続きは当然補助しよう、きみたちの学びが遅れるようなことはない、約束する」
「休学…………」
ことばの理解に勤めていたのだろう、黙りこくっていた彼女が初めて口を開く。校長は彼女を安心させるようにゆっくりと頷いてみせ、続けた。
「気負うことはない。夏休みが少しだけ伸びたようなものだと考えてくれていい」
「そのあいだ……私たち、私は、どうすればいいんでしょうか」
校長が首をひねる。説明に戸惑う彼女の代わりに、仕方なく私が割って入った。
「私も同じです。両親は仕事で留守にしていて、今は外国に行ってしまっているから、すぐには帰ってこられない」少し考えて、「どうにかしてみますけど」と添える。校長は気遣わしげに私を見たが、幾分かほっとした様子を見せた。
「何事かあればすぐに学校に連絡してくれていい。私にでも、先生にでも、気のおける友達にでも。自分たちのことを大事に過ごしなさい」
校長室を後にしながら、〝何事か〟とはなにを指すのだろうと考えた。
私たちが暴動に巻き込まれることだろうか。生活の場が見つからないことだろうか。どれもさしたる大事ではない。そのときはそれまでだと思えるようなことだった。むしろ、たった今校長によって示された事実――自分は線引きの向こうにいるのだと、表立って知らしめられたことこそが、足場の崩れ落ちるような喪失感を私にもたらしていた。
両手で扉を閉める。硬質な手すりの肌触りに、祈るように目を閉じていた。
次に学校に帰ったとき、そこに私の居場所は、同じように残されているだろうか。
*
どうにかする、と告げたのは、ほとんど破れかぶれだった。
家の金銭管理は母親が行っていて、カードの暗証番号はおろか、置いてある場所すら教えられていない。私が自由にできるお金といえば、密かに作った口座に貯めたアルバイトの給金ばかりだ。それに手をつけることは躊躇われ、試しに両親に電話をかけてみたものの、電波の届かないような奥地にでも向かっているのだろう、答える声はない。
どうやら彼女のほうも条件は似たようなものらしい、と悟り、私は昨夜にファイルにしまい込んだばかりの封筒を取り出した。孤児院の院長が手ずから記した電話番号――彼女の連絡先を、携帯電話で呼び出しにかかる。
ワンコール。すぐに電話は繋がって、落ち着いた女性の声が返った。
「先生、ご無沙汰しています。エリーです」
ひとしきりの挨拶を終えたあと、すぐに孤児院へ向かいたい旨を伝える。院長はそれを受け入れ、重々しい声で、道中には気をつけるように、と言い残した。
学校から孤児院までは、駅を経由して一時間ほどをバスに揺られることになる。私はほとんど何も言わないまま、それでも彼女が後ろをついてくることを受け入れていた。彼女もまた躊躇いながら私に続く。わざわざ許可を取られないのは気が楽だった。互いに仕方なくと言い聞かせている節があった。
院長は電話を置き次第外へ出て、そのまま孤児院の門前で私たちを待っていたらしい。険しい表情で路地を見つめていたが、私と目が合うやいなや小走りに距離を詰めてきた。私と彼女の背を押し――人の目から逃げるような素振りだった――院の一室に連れ込むと、そこでようやく息がつけたとばかりに相好を崩した。
「お久しぶりね、ふたりとも。変わりはなかったかしら。エリーが流暢にこちらのことばを話すものだからずいぶん驚きました。……そうね、もう十年近く経つのだものね。最後に会ったのもあなたたちがまだほんの小さなころだったから、もう私のようなお婆さんの顔なんて忘れてしまったかもしれない」
冗談めかしてそう口にした院長が、記憶の中の彼女よりもずっと小さな女性であったことに、ささやかな驚きを覚えていた。ヘーゼルの髪に混じる白髪は遠目にも目立つほどであり、私の中に眠っていた過去の院長の面影を曖昧ににじませていく。
庭木の背も、院の内装も、昔のものとはすっかり趣を変えてしまっている。変わらずにあるのは遠くに響く子供の声と、息をひそめることを強いられているかのような空気だけだった。
「電話で聞いた限りでは、しばらくのあいだ身を隠しておける場所を探していると」
「はい」
私の両親が家を留守にしていること、彼女に帰る家のないことを手短に説明する。院長は神妙な表情でうなずいた。
「それならこの孤児院に……と言いたいところだけれど、騒動の発端がこの三区にある以上、そうもいかないのが実情なの。表で遊んでいる子供たちを見たかしら」
「? はい」小さなぶらんこに集まった子供の集まりを思い出す。「そういえば、見ない間に移民の子が減りましたね」
「減ったのではなくて、ここから離れさせたのよ。先日の騒動で怪我をさせられた子が出たから」
「怪我を……」
「押し合いに巻き込まれて転んでしまったのね。腕の骨を折って入院することになった。ほかの子供たちも怖がってしまって。だから一時的に、あちこちの知人に預かってもらっているの。あなたたちの校長先生がなさっているようにね」
院長はしばらく考えて、二枚の封筒を私たちに差しだした。片方にはいつか私自身が受け取ったような簡素な封筒だ。表に綴られたイライザ・バレーの名に覚えはなかった。
「紹介状です」と院長は言い、「頼るところが見つからなければ彼女を訪ねなさい。先ほど電話をして、あなたたちのことを伝えておきました。国境を越えて、遠い旅路になるけれど……これから出発すれば、日が沈むころに着けるでしょう。旅費はふたりぶん、その中に包んであります」
残った封筒には数枚の紙幣が入っている。私はぎょっと目を剥いた。
「先生」
「ほとんどが往復の切符代です。残りはイライザと相談して、あくまであなた方のために使いなさい」
「でも、こんなお金」
「数年の間でも親代わりだったのですもの。これぐらいの世話は焼かせてちょうだい」
封筒を握った私の手を覆うように、乾いたてのひらが重ねられる。遠慮を飲み込まされて、私はうつむいた。
「先生」と呼んだ彼女が、「イライザさんはどちらに」と問う。院長はすぐに地図を持ち出してきて、私たちの前に広げた。四方八方へ向かう鉄道を示した路線図だ。この都市から鉄道に乗り、海峡トンネルを抜けて大陸へ。彼女の指先が止まった場所に添えられた文字に、私は言葉を失った。
「……大陸の内陸国。あなた方のお爺さま、お婆さまの産まれたところ」
――血の生まれ来たところ。
その場所を、祖国と呼ぶことができないでいる。