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 流れるように過ぎていった日々は、私に何の報酬ももたらしはしなかった。

 帰省から五日後の朝、私はベッドで目を覚まし、階下がやけに静かなことから、両親が家を出たことを悟った。特に驚くようなこともない。彼らが国外へ渡っていくことはゆうべのうちに聞かされていたし、それが早朝のうちであろうということもあらかじめ察していたのだから。

 ふたりがいなくなったということはすなわち、私が学校へ戻る日が来たということだ。これからのことを考えながら身を起こす。まずは荷を用意して、朝食を取る必要があるだろう。あくび交じりに机上の置時計を確認しようとして、そこで瞬時に頭が冴えた。

 帰省のその日、薬局で買った髪の脱色剤がなくなっている。

 購入したきり荷の奥底にしまっていたものだった。昨夜はその説明書きを眺めながら眠りに就いたのを憶えている。結局ふんぎりがつかず、放るようにして箱を机の上に置いたことも。

 焦燥に駆られて荷物をひっかき回したところで、服や下着が出てくるばかりだ。転がるようにして階段を下り、誰もいなくなったリビングを見渡す。潔癖なまでに整った部屋は、ママの性格を示している――外出前、彼女は自分の納得のいくまで丹念に家の掃除をする癖がある。テーブルの上に載せられているのは私の朝食の皿のみで、寮に戻る前に皿を洗っていくよう託けるメモが残されていた。

「片付け……」

 はたとして屑籠をひっくり返す。空になっていることを確かめた後は、屋外のダストボックスへ駆けていって中を改めた。朝食に使ったのだろうバターのパック、レタスの芯や芋の皮をかき分けてようやく、求めるものを見つけ出す。

「…………あ」

 空っぽになったボトルを握りしめて、私は呆然と立ち尽くした。

 考えるまでもない。ママがこれをやったのだ。机上に置きっぱなしにされた脱色剤を見て、私に許可を取ることもなく。理解ができたところで、しばらく感情が付いてこなかった。困惑ばかりが頭を包み込んでいた。

 私はその日、ママという女性のことを、最悪の形で、またひとつ理解することになったのだった。

 衝撃は大きかった――惰性に動かされるままに朝食を摂り、荷物をまとめ、食器を洗い、家を出て玄関の鍵をかけるに至ってようやく、うめき声じみた嗚咽が漏れるほどに。手元で鳴った金属音のあまりのぎこちなさに指先が震えた。そうしながら、次にこの家に戻ってくるときに作るべき表情を見失っていることに気付いた。

 家を出るときはいつも同じ気持ちでいるのを、今になって思い出す。今度こそ、今度こそ、と自分を奮い立てたところで、終いには彼らに従ってしまう。許してしまうのだ。そうして飲み込んできた言葉は、腹の奥底で澱を作り、もう腐り果ててしまっているに違いなかった。

 凪いでしまった心は、いっそ機械的に私の体を動かした。バスを乗り継いで学校の前にたどり着き、その足で学生寮に向かう。夏季休暇の中日にも至っていないせいで周囲に人の気はなかった。管理棟に事情を話して中に入れてもらうのも、入学してから何度目になるのだったか。

 寮の門の前に一度立ち止まり、脇に立つ管理棟に向かう。生徒の留守中も変わらず番をしているらしい女性が、受付の窓の向こうから怪訝そうに視線を投げてきた。

「部屋番号は」

「六号棟、五二五です」

「ああ、あなた。今回もご両親のお仕事?」

「はい」

「今鍵を開けます。休暇中は寮の食堂が開きませんから、そのつもりで」

 いつものことだ。手慣れた対応を受けながら、寮の前庭に足を踏み入れる。建物の中に入ろうとしたところで、あなた、と再び声をかけられた。

「ご存知かもしれないけれど、向かいの生徒さんも部屋にいらっしゃるから」

「ああ、はい、挨拶します」

 言うだけ言って寮内に逃げる。その場限りの嘘をついたことに苦みを覚えながら。

 彼女が向かいの部屋に越してきたのは今年度の頭だった。学校の全生徒が寮生活を義務付けられているおかげで、毎年、新入生の入居にあたっては大がかりな部屋の移動が行われることになる。普通なら同じ部屋に留まれるものだが、彼女は運悪くその余波をくらってしまったのだろう。元の部屋を追い出される形で引っ越しを強いられたらしい。

 向かいの部屋であろうとも別室であることに変わりはない。これまでの一年間、それどころか入学してからの三年間を振り返ってみても、彼女に朝晩の挨拶をしたことはなかったし、逆に声をかけられた記憶もまた一度としてなかった。たとえ彼女が引っ越してきたのが同室であったとしても同じことだったのだろう。赤の他人程度の付き合いさえ、彼女との間には交わしてはこなかったのだ。

 自分の部屋に荷を下ろし、二枚の扉を隔てた先に思いをやる。耳をそばだててみても物音は聞こえなかった。外出中か、あるいはいつものように本でも読んでいるのか。思い返せば、教室にいるときはいつも、彼女はあの国のことばで書かれた本を読んでいたものだ――。

 開け放しにした窓から、柔らかい風が吹き込んでくる。厚みのないカーテンはカーペットに淡く影を落としていた。不規則に踊る光を眺めているうちに、体から力が抜けていく。

「……いけない、」

 振り払うように立ち上がって、荷ほどきを始める。朝の出来事で根こそぎ気力を奪われているのを自覚した。まずはいつも通りの生活を取り戻して、今日の食事の用意をして。それからのことを考えながら扉を開いて買い出しに赴く。

 閉ざされたままの向かいの扉を、一瞥せずにはいられなかった。


     *


 四人に対して与えられた部屋を、ひとりで使うことの違和感に慣れない。広すぎる一室で膝を抱えていると、時間の流れがひどく緩慢に思えてくる。何をするでもなく呼吸を数え、ふと時計に顔を向けては、ほとんど進んでいない分針が目に入って愕然とするまでを、長く、飽きずに繰り返していた。

 午後九時。眠ることには抵抗があるが、起きていたからといってすべきことがあるわけでもない。窓越しに別の棟を伺えば、ぽつぽつと明かりが点いているのが見えた。私たちのほかにも寮に残っている生徒がいるのだ。そのうちのいったいどれだけが、眠れない夜を過ごしているのだろう、と考える。

 部屋に座り込んでいることに限界を感じて、マグカップ一杯のココアを片手に――冷え込む夜の暖変わりだ――外へ出た。寮の見回りは事務員が交代で行っており、門限は午後の十時、就寝時刻は十一時と定められている。この時間ならばまだ寮内の行き来は自由のはずだ。

 五階から階段を下り、三階の踊り場を引き延ばすようにして設えられた談話室に踏み入る。談話室とは呼べども扉で区切られているわけでもない、そこにあるのは小ぢんまりとした空間だ。階段を背後にした前面、壁のほぼ全部分を覆う大窓からは、向かいに建つ棟の明かりが見えていた。

 センサーが私の動きを感知して、談話室中央の照明が点灯する。向き合う形で並んだソファが露わになり、ようやく私は、そこに先客がいたことに気付いた。

『なに……』

 か細い動揺の声。驚いたのは私のほうだ、と言い返したくなるのをぐっとこらえ、彼女の姿を視界に収める。薄手の毛布を頭から引き被り、ソファの上で膝を抱いた少女の姿。毛布の丈が足りないせいで、その足先だけが外気に触れていた。

 彼女だ。

 認識と動揺は同時に訪れる。談話室の自動照明はすでに落ちてしまっていた、ということは長い間、彼女は微動だにせずにその場にとどまっていたのだ。

 友人であれば揶揄のひとつもしようものの、彼女相手ではそうもいかない。唇を開閉し、最後には「ごめんなさい」と一言伝えるだけに留めた。――今更なにを話そうというのだ。今の今まで、会釈のひとつだって互いに交わしたことのなかった相手に。

 手元のココアが揺れる。踵を返した私に、『待って』と告げたのは彼女だ。

『待って、驚かせるつもりはなかったの』

 聞こえなかったふりをしても、彼女は執拗に声をかけてくる。異国の響き、私たちの血が生まれ来たところのことばで。そのたびに孤児院に暮らしていた記憶が揺さぶられ、気を抜いた傍からあふれ出て来ようとする。それだけは許してはいけなかったのだ。

 しかし、


『エリ、』


 と、ほとんど叫ぶように呼ばれた名前を耳にしては、足を止めずにはいられなかった。

 エリ。私の名前。移民である祖母が付けたという名前。たった今に至るまで、ただしく発音されることのなかった名前だった。私の物心が付くころには、そう呼ぶ人間はひとりとしてこの世にいなかったためだ。

 だから、傷つけられたような気になった。勢いよくふり返り、力のかぎりに睨みつける。「やめて」とはっきりと告げ、それからもう一度、言い聞かせるように、「勝手に名前を呼ばないで」と言いつけた。

 彼女は哀れっぽい目で私を見つめている。私の奥底を探ろうとするように。毛布はすでに足元に滑り落ち、談話室の照明はその黒髪にしずかな光沢を添えていた。

『ごめんなさい、でも私』

「それが嫌だっていうの。私の産まれはこの国だし、一度だってよそへ行ったことなんかない。知ったふうな顔で、わけのわからない言葉を使わないで」

『もしかして忘れてしまったの、言葉がわからない?』

 胸の奥にちりちりと苛立ちがくすぶる。わからない、のではない、わかりたくないのだ。わかる自分でいたくない。――理解できると知られたくない。

 傍に知人がいたのなら、あるいは堪えが効いていたのかもしれない。早々に彼女から距離を取ることができていただろう。けれどもそれが幸運であったのか、不運であったのか、見当をつけることさえできはしなかった。気付けば私は体ごと彼女に向き直っていて、「あなたと一緒にしないで」と言い放っていたからだ。

「私はあなたとは違うの。やさしい両親がいる、友達だっている、エリーと呼んでくれる、私のことを想ってくれる。……ちゃんと幸せでいる。あなたと付き合う必要なんかないの、生まれや育ちが同じだからだからって親近感なんか抱かないで、迷惑だから」

「……エリー」

 たどたどしく繰り返された愛称が、今は何より胸を刺した。

 彼女は迷子の子供のように視線を移ろわせ、最後に毛布の端を両手で握り込んだ。まるで痛みをこらえるように。被害者じみた態度が気に食わない。話が済んだなら、と部屋に戻りかけた私を、「待って」と彼女は小さな声で引き止めた。

「私、あなたに嫌われたくない……」

 臓腑を絞られるような感覚に、思わず息を詰めていた。

 ――この期に及んで、と叫びだしたいのを、言葉にする寸前で踏みとどまる。頭上で瞬いた照明が、頭を一瞬のうちに冷やしていった。そして沈黙。私の足をその場に縫い止めたのは、夜という時間への配慮と、今にも泣き出しそうな彼女の表情だった。

 お願い、とねだる声がする。機嫌を取るだけの器用さも持ち合わせていないのだろう、あまりに幼く、拙い声だった。

「今夜だけでいいの。あなたがそれを飲み終わるまででいい。明日からはもう話しかけたりしない、約束する。あなたを見たりもしないから。お願い、エリー」

 慈悲を乞うように目を閉じる、そのおそろしく無防備な姿を、私は黙って見つめ返していた。支配者にでもなったような感覚が喉奥の苦みを強めていく。思い知らせるようにして溜息をつけば、彼女は体を縮める。――それですこしだけ気が晴れた。

 私は彼女から離れた位置のソファに腰を下ろすと、無言でマグカップに口をつける。それだけで贈り物を得たかのように笑う、彼女の素直さが嫌いなのだ。

「ダニーおじさまは、お元気?」

「パパなら元気。病気なんかしないもの」

「そうか、そうよね。ごめんなさい、院の先生からお手紙が来ていて、エリーのことも心配していらしたから」

「……そう」

 私と彼女は、同じ孤児院で育った子供だ。

 院の多くを占めていたのが、移民の血を引く私たちのような子供だった。育て上げるだけの金銭的な余裕が親になかったのか、あるいは周囲の圧力に屈して手放すほかになかったのか――子供たちは誰もじぶんの肉親のことを語ろうとはせず、院の中には暗黙のうちに連帯感が生まれていた。互いに問わず語らずの在り方を守ろうとする空気、寄り添おうとする空気が。

 おかげで院には両親の使っていたことばしか知らない子供も少なからず暮らしていて、私はそのうちのひとりだった。彼女もまたそうだったろう。それでも何不自由なく生活を送ることができたのは、言語に堪能な職員が多数籍を置いていたからだ。

 穏やかな場所だった。同じ場所にいることを望み続けられるなら。あそこはきっと、母胎の延長線上にあったのだ。

 思えばあの頃から、私は孤児院に良い印象を持っていなかったのかもしれない。

「エリーがダニーおじさまに引き取られていって、院のみんなは驚いていた。あなたは確かに頭のいい子だったけれど、おじさまたちのしているようなことには……その、あまり興味がないと思っていたから」

「どうしても外に出ていきたかったの。孤児院の中にこもっていたくなかった。弾かれ者が傷を舐めあって暮らしているだけだもの、私はそれが、……」

 嫌だった、とは口にできなかった。孤児院の在り方に我慢がならなかったことは確かだったけれど、その結果待ち受けていた両親の期待を、そのまま受け入れられるような子供ではなかった。

 それでも誰でもよかったなどと、彼女の前では言えなかった。引き取り先で侍従じみた生活をさせられているという彼女の前では。

 互いのことばを待つだけの、長い沈黙があった。私はココアをすすり、彼女は毛布の中に体を埋めながら。大窓の向こうの明かりがひとつまたひとつと消えていくのを、ふたりで見つめていた。

「最近はね、よく、夢を見ているの」

 ふいに彼女がつぶやいた。

「病気にかかってしまう夢よ。眠り方を忘れてしまう病気。どんなに疲れきっていても、夢の中の私はいつまでも眠れないでいる。朝が来るのをずっと待っているの。こんなふうに、ひとりで夜の景色を眺めながら」

「……それで」

「それで、いつか、死んでしまう。忘れていたぶんの眠りを取り戻すように、こんこんと眠ってしまって、もう目を覚まさない――」

 不思議な夢ね、と言って、彼女は毛布の端を抱き込む。こわばっていた口元が、うすく微笑みを浮かべているのが見えた。

「でも、その夢の中なら、朝が来るのも怖くはなかったの。ひとりきりで過ごす夜がひどく寂しいことを知っていたから。でも現実の私は目を覚ましたときに愕然とするの、……なんて残酷な夢を見ていたのかって。ほんとうは、みんなの間にいるほうが、ずっと寂しい気持ちになるっていうのに」

 長期休暇中の寮は静かだ。騒ぐような生徒もいなければ、話をするような相手もいないためだろう。手持無沙汰になった生徒たちは揃って口をつぐみ、夜が明けるのを待っている――明日を、そして明後日を。休暇が終わって、ルームメイトが戻ってくるのを。

 彼女はそうしてひとりになるのだ。

 彼女の孤独は、私たちの孤独の終わりから始まる。

「皮肉な話だわ。大勢でいると胸が苦しくなるのに、ひとりではそれが埋められない。それなら私たち、どこへ行ったらよかったの。どこなら迎え入れてもらえたの……」

 夢のような話だ。あるいは病気じみた発想だった。みずから祖国を棄てた人々を先祖に持ちながら、今度は拠り所を探している。どこかにまだ、自分を自分のままで受け入れてくれる場所があると信じている。

 馬鹿げている、と思った。ここに生を受けた以上、私たちはすでに余所者でしかありえないのだ。なおも溶け込みたいのなら、自分を塗り替えるほかに道はない。ことばを覚え、笑いかけて、かれらの監視の元に自分をさらけ出さなければ。私であることを棄てなければ。そうする意志すら放棄した彼女に、〝私たち〟などと呼ばれることだけは耐えられなかった。

「ふざけないで」

 ココアを飲み干して、私は勢いよく立ち上がる。

「私はもう孤児院にいた子供じゃないの。あなたの何者にもならない、知り合いにも、家族にも、ましてや友達になんか。私はあなたの寂しさを埋めてくれるお人形じゃない」

「エリー」

「話は終わり。もう私に関わらないで。〝私たち〟の輪に入って来ないで」

 言いきって、わざと時間をかけて彼女から遠ざかる。私はあなたのものではないのだと告げるつもりで。階段を上り、踊り場で踵を返しても、階下の照明が私の目に映らなくなっても、彼女は最後まで口をきかなかった。じぶんから交わした約束に従ったのかもしれないし、あるいはただ、呼び止めるためのことばを知らなかったのかもしれなかった。

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