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 長い前髪が気にかかる。

 うつむくたびに目にかかり、鬱陶しさにかき上げるのを、授業のうちにもう何度も繰り返していた。とはいえ切らなければ、切らなければと考えながら、それでもなあなあにして放っておいたのは私自身だ。惰性の上に胡坐をかくとろくなことがない。またひとつ重い息をついて、手元の資料を一枚めくった。

 発表者が教壇に立たされてから二十分。

 今もまだ、散漫なスピーチが続いている。

 訴えるべきことが山のようにあるわけでもない。むしろ彼女の演説の稚拙なことは、前もって配られた資料を見れば一目瞭然なのだった。文法のミス、綴りのミス。聴衆であるクラスメイトなどはそれを取り上げて、小突き合いながら忍び笑いにふけっているようなありさまだ。

 小ぢんまりとした講義室、放射状に並ぶ机の前で、彼女は晒し者と化している。

「――ですから、」

 彼女の口が接続詞を吐き出したとき、りいんごおんと予鈴が鳴った。間もなく生徒たちから響いた拍手を、発表者は戸惑った顔で見下ろしていた――当然だ、彼女のスピーチはまだ、まとめの段階にすらたどり着いていない。

 ふらふらとさまよった彼女の視線が、私のそれにぶつかった。

 烏のような目、髪、浅黒い肌。金髪白皙の生徒たちの中ではとみに目立つたたずまい。異国由来の体を、それでも彼女は国立高校の制服に押し込んでいる。なんとはなしに覚えたばつの悪さに勝てず、私はそっと目を逸らした。

「お静かに。お静かに、皆さん」

 拍手がやんだのは、細面の教師が間に入ったときだった。

 彼女と生徒とを見比べ、こめかみの汗をぬぐう。教職に就いてまだ間もないのだ。わずかな同情を覚えずにはいられなかった。

「ええ、では、発表は次回に持ち越しということで……そう、夏休み明けになりますね。はい、はい、各自課題はこなしておくように。よろしくお願いします」

 授業が終わる。我先にと教室を飛び出していく生徒たち、瞬く間に上がる談笑に取り残されて、彼女はぽつねんと立ち尽くしていた。あの予鈴が、彼女の姿を教室の影に変えてしまったようだった。

 資料をまとめ、横目でそれを伺っていた私に、「エリー」と声がかけられる。教科書を抱えた少女がふたり、「帰ろう」と歩み寄ってくるところだった。

「エリーのところはどうするの、夏休み」

「お母さんもお父さんも仕事。帰省はたぶん、一週間ぐらい」

「またすぐ寮帰りか」

 かわいそうに。その一言を、苦い心地で受け取った。そうだねと笑いながら、無意識に引かれた一線に見ないふりをする。

「あの子はどうするんだろうね」

 私たちの視線が、ひとりきりで帰寮の支度をする生徒に注がれる。スピーチを遮られたばかりの、件のクラスメイトだ。溜息をつく様子を目ざとく認め、やだやだ、と友人が首を振った。

「どうせ寮に残るんでしょ。親と折り合いが悪いっていうじゃない」

「お姉ちゃんと差別されるんだっけ」

「あの子だけ本当の子供じゃないって話……」

 言いかけたクラスメイトを、隣の少女が肘で突く。彼女たちはちらりと私に目配せをした。すまなそうな苦笑が続く。ごめん、を口に出される前に、「かわいそうにね」と私は肩をすくめてみせた。

「帰ったら帰ったで何されるかわからないんでしょ。怖い話。寮が暗くなるのは嫌だけど、変に痣やら傷やら作ってこられても気まずいじゃない?」

「ああ……、うん、確かに」

「言えてる。エリーのとこは優しいお母さんでよかったね」

「本当に。あの子を見るたび思うもの、私は良いお母さんとお父さんに引き取ってもらえたなって。神さまに感謝しなきゃ」

 おどけたように指を組み合わせてみせれば、ふたりがけらけらと笑ってくれる。それはどっちの神さまなわけ、と無遠慮に差し向けられた問いかけにも、とぼけてみせることができた。

 そうしながら再び、彼女の背中を盗み見る。肩を縮め、腰を曲げ、申し訳なさそうに荷物をまとめる――まるで他人より低い位置でしか、呼吸をすることが許されていないかのような姿勢。

 反吐が出そうだった。

「帰ろう、早く帰省の用意をしないと、寮長さんに怒られちゃう」

「賛成、あの人超怖いんだもん」

「そういえば昨日さあ」

 会話を合わせて教室を後にする。

 前髪がひどく気にかかった。切るに切れずに伸ばし続けた髪。染髪も脱色もできないままで、ことあるごとに視界をよぎる、それは夜のように深い黒塗り。

 あの子と同じ色をしている。




 ――生徒の皆さんにお知らせします。

 ――生徒の皆さんにお知らせします。

 ――明日から、学校は夏休みに入ります。生徒の皆さんは、わが校の一員としての自覚を胸に、責任を持った行動を心がけてください。つきましては校長先生よりお話があります。……では先生、お願いします――


 先の授業が終わってから、校内放送が流れている。長期休暇前に行われる定型句じみたアナウンス。廊下をゆく生徒の誰を眺めても、その放送に耳を傾けているようには見えなかった。マイクから遠ざかっていった女生徒の代わりに、しゃがれた男声が吹き込まれるようになっても同じことだ。

 友人との会話を続けながら、私はスピーカーへと意識を向ける。

 続く講話の中身も、何度聞いたとも知れないものだった。


 ――我が国が移民の受け入れを始めたのは、きみたちのお爺さんやお婆さんが、まだきみたちのような若者だったころでした。


 お決まりの昔話だ。集会でも行おうものなら、全校生徒が揃って舟を漕ぐだろう。

 校長もそれをよくよく理解しているはずだ。彼の代から講話を校内放送で代えるようにしたのは、ひとり壇上で話し続ける重圧に耐えかねたために違いなかった。

 無視を決め込まれるスピーカーに同情しつつ、友人の冗談に笑声を返す。所詮祖父母の苦悩など、私たちにとっては他人事なのだ。

 私たちの思考の枠組みは、自分の産まれたその日を境に切り替わる。

 産まれた後のことを思い出と呼んでしまえば、産まれる前のことはもう歴史にしかなりえない。そんな時代に国会がどんな議決を下していたところで興味がない、持ちようがない。整えられた社会を前にして、感慨などが生まれるはずもない。


 ――自分の国では、夢を果たすことどころか、生きることすら難しかった人々。彼らのような人々を救うための取り決めでした。きみたちのいるこの学校も、その際に作られたものです。

 ――設立者が目指したものはひとつでした。誰もが、


「誰もが分け隔てなく、国境なく、勉学に励むことのできる学び舎……」

 ひとりごちた私を、友人たちがきょとんとした顔で振り返る。

「どうしたの、エリー」

「べつに。耳にたこだなって思っただけ」

 校長の顔真似をして繰り返した校訓は、彼女たちの笑いを誘ってくれる。侮蔑を込めた文句でも、ジョークになるなら十分だった。

 祖父母の代。遠い過去であるところの時代に、この島国は移民を受け入れた。

 第一に流れ込んだのは、大陸に居場所を失った難民たちだった。度重なる紛争に疲れ果てた彼らは我先にと海を渡り、島国の庇護のもとにようやく安住の地を見つけた、かに見えた。

 ――いや、事実、抗争に明け暮れた日々に比べれば、十分に平和な生活を手に入れていたのだろう。しかし島国の人間は当然、彼らを快く受け入れはしなかった。

 本国からの圧力と逃避先からの圧力、そのしわ寄せは先の世代に現れる。例えば進学先、例えば労働環境、暗黙のうちに敷かれた、あらゆる場所での立ち位置の差異。

 私たちはふらつく足場の上に立ち、常に監視を受けている。ほんのわずかでも非行に手を染めようものなら、その足場もまた容易く崩れ落ちてしまうことだろう。

 境界の撤廃を謳うこの学校もまた、裏を返せば監獄のようなものに過ぎなかった。表立った差別を押しつけて暴動を招くぐらいなら、いっそ体の良い言い訳で移民の子を集めてしまったほうが――目の届く範囲で管理してしまったほうが、よほど効率的に違いないというわけだ。

「それじゃあエリーは、今回も早く寮に戻ってくるんだ」

 寮暮らしの生徒たちは、四人ごとにひとつの部屋が与えられている。ベッドや床、場所を問わず私物の散乱する一室で、私たちは帰省の準備を整えていた。会話を振られたのは、ろくに畳みもしない下着やタオルを無理に鞄に詰め込んでいたときだ。

 どこまで話をしていたのだったか。寸秒で思い返し、私はすぐにうなずきを返した。

「そういうこと。みんなのこと、おかえりなさあいって迎えてあげる」

「あーあ、どうせならあたしも寮に残りたいかも。帰ったって模試の成績がどうのこうのってうるさいだけだもん。エリー大先生には遠い話だろうけど!」

「そんなことないよ、買いかぶりすぎ」

「またまたご謙遜、数学の期末で一位取っておいて。商業大の推薦、来ているんでしょ」

「それでも。私は私で大変なことがあるんだから」

 家に帰る足が重いのはそのせいだった。むしろ推薦の話が来ているからこそと言ってもいい。

 推薦状はしわのひとつも付かないようファイルに挟み込んである。それを大切に鞄にしまって、私はふと開け放しのドアの向こうに目を向ける。荷物整理に部屋掃除にと精を出す生徒たちのおかげで、寮のどの一室も扉を開いたままにしているのだった。

 向かいの部屋に、膝を抱えた女生徒の姿が見えた。彼女だ。この夏休みも家に帰らないのだろうと推測したのはまさにその通りであったようで、部屋のものに手をつけることもせず、ぼんやりと足先を見つめている。

「ごめんなさい、そこどいて」

 同室の生徒に声をかけられ、一拍遅れて体を端に寄せる彼女。タイムラグ。言葉を変換するための。漂う沈黙が伝播するようで、なんとはなしに気まずい思いに駆られた。そんな私の前で、立ち上がったルームメイトが手を振る。

「エリー、それじゃ」

「あたしたちは先に帰るよ。また休み明けに」

「うん、またね」

 私はさっさと彼女から目を外し、友人たちに手を振った。

 ひとりきりで取り残されて、がらんどうの部屋の広さに溺れる。唐突に襲い来る心細さと引き換えに、滞った空気は呼吸をひどく楽にした。

 このまま寮に残りたい気もするし、両親もきっとそれを許すだろう。けれど今回ばかり、この夏休みに限っては、ほんのわずかな期間であっても、両親と顔を合わせなければならないのだ。鞄の中の推薦状を意識して、重い鞄を持ち上げる。

 部屋を出るとき、彼女の顔が見えた。先までの私と同じ、部屋に置き去りにされた彼女。せいせいしていることだろうと見やった表情は、しかしどことなく、つまらなそうにも見えた気がした。

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