インスタント・ランデブー
丸めたハンバーガーの包み紙と萎びたLサイズのポテトが目の前のトレーに乗っている。少しだけ本を読もうと思ってハンバーガーショップに入ったのだけれど、注文したものは思った通りすぐに食べ終わってしまったので、アイスコーヒーを一滴ずつ飲んでいると口の中に嫌な苦味が広がった。カップに半分くらい入っていた氷はとっくに溶けてしまった。
僕は一人で窓際のカウンター席に座っている。店はビルの二階にあり、ここからその足元を見下ろせる。目の前の横断歩道を疲れた顔をした人々が忙しなく行き交う。何故歩いているのか、誰もその答えは知らないのだろう。それでも彼等は幸せそうに見えた。
店内には中年の男が一人、不真面目そうな女子高生が二人。時折、彼女達の尖った笑い声が店内に響いた。その喧騒を掻い潜るように、僅かな静寂を通って背後から足音が近づいてくるのが聞こえてくる。隣の席に座るのだろうと思った僕は何事も無い様に立ち去ろうとした。けれど、他にも席が空いている事に気付くとそんな妄想が少し恥ずかしくなった。
結局、その足音は僕の左側で止んだ。女性が一人、立っていた。僕は反対側を向いて俯いた。隣に座って良いかどうか聞かれるのではないかと思ったのだけれど、すぐに、ここがファストフード店でそんな台詞は似合わない事に気付いた。彼女は茶白の猫を撫でる様に長いスカートを整えて座った。トレーにはSサイズの飲み物とアップルパイが載っていた。きっとアイスティーだろう。
当然の沈黙のはずなのに、僕は何故だか気まずさを感じた。彼女はショルダーバッグからスマホを取り出すと、それを左手に持った。画面に触れる親指は子猫の様に綺麗で、春の土の上を跳ねるに軽快に動いていた。時々、彼女はスマホに目を落としながらアイスティーを飲んだ。ストローに吸い込まれた液体は、その内側を撫でる様に滑らかに上っていった。僕のポテトは、もう倉庫の中の工具の様に冷え切っていた。
「あの…、」と言う声が僕が受け取る物だと気付いた時には、その声は既に残像になっていた。僕は少し畳んだ左手で口元を隠す様にしながら彼女の方を見た。彼女は微笑むと少し体を僕の方に傾けた。右耳のイヤリングが茶色い髪と一緒に揺れた。
「いつも、ここで食べてますよね。」と彼女は囁く様に言った。僕は、はい、と呟くと、その声は高気圧の様な笑い声に飲み込まれてしまった。もしくはその前に空気に滲んでしまったのかもしれない。
「あ、あと、いつも本読んでますよね。」 そう言った彼女はどこか誇らしげだった。彼女の目は、僕の奥の方にまで入り込む様に黒かった。僕は慌てて視線を逸らそうとしたが、彼女は逃してはくれなかった。
「そういえば、どんなの読んでるんですか?」と言うと、彼女は子供の様に首を傾げた。僕は手に持っていた本を栞も挟まずに慌てて閉じた。渦を巻く頭の中から言葉を押し出そうとしたが、微かな呻き声にしかならなかった。
「もしかして、言えない様な本読んでるの?」
そう言うと彼女は全て知っている様に意地の悪い笑みを浮かべた。僕がカバーの掛かった本をしまおうとすると、彼女は僕の方に手を伸ばして、肌の荒れた古紙の様な僕の手の甲を優しく掴んだ。僕は抵抗するつもりも無かった。見せて、と言うと彼女は本を開いた。
「淫らな…「あっ、」と言って彼女の声を遮ると僕は本を取り返そうとした。彼女は眉を少し上げて、何かを試す様に僕を見た。僕が顔を逸そうとすると、彼女は座っていた椅子をこちらに引いて、僕の顔を覗き込んだ。
「へえ。こういうの読んでたんだ。」
そう言って彼女は頬杖をついた。僕は何も言わずに、ただ体を縮める様にして下を向いていた。
「ねえ。顔真っ赤だよ?」
と言うと彼女は白い歯を見せて笑った。僕は耐えられなくなって本を引っ張ったが、彼女は強く掴んで離さなかった。
「だめだよ。逃げようとしてるでしょ。」
彼女は真剣な顔でそう言うと、続けて
「まだ名前も聞いてないしさ。」と言って少しにやけた。僕は彼女の意図に気付かずに、その言葉を味わっていた。
「…ん? それで、名前、何て言うの?」
彼女にそう言われて、僕は意識がずっと遠い所にあった事に気づいた。
「ええと…、あ、あ、あ…、」
吃る僕を彼女はじっと見つめていた。
「あ、あの…、自分の名前…い、言えなくて…。」
僕は震えた声を何とか押し出す様にそう言った。目からは涙が染み出していた。
「そうなんだ。じゃあ、ここに打ってよ。」
そういうと彼女はスマホを僕の前に差し出した。僕の手はもう汗で濡れていた。
「ええと…、手汗、凄いんですけど…。」と僕が言うと、
「えー、良いじゃん。私、気にしないけどな。」と言った彼女はどこか不満げだった。「じゃあさ、もし君の好きな人がそうだったらさ、その人の事、好きじゃなくなっちゃうの?」と彼女は僕に聞いた。
僕がそれを否定するとすぐに彼女は、「私も一緒だよ。」と言って夜更かしを計画する子供の様に笑った。僕が彼女の言葉を上手く受け取れずに二人の間が空白になってしまうと、それを埋める様に彼女は優しく言った。「だから、私も君の事、嫌いになったりしないってこと。」
「それは、その…、」と言った僕の頭に浮かんだ言葉の続きはどれも恋愛映画の台詞の様で、いつも歪な言葉ばかりを吐き出している僕の口には合わなかった。彼女は僅かな僕の言葉を、毛糸で遊ぶ子猫の様に楽しんでいた。
「ずっと、見てたんだよ? ここで君の事を初めて見てから、毎日ここに来て君が来るの待ってたの。」
彼女はそう言うと、虹を見つけた子供の様に笑った。
「毎日って、僕、たまにしか来ないですけど…。」
「そう。だからさ、中々会えなくて大変だったんだよ。君が来た時もさ、何回も話しかけようとしたんだけど、怪しい人だと思われたらどうしようって思ったら、中々話しかけられなくて。」
そして彼女は思い出した様に、
「それでさ、毎日アップルパイ頼んでたら、これ食べる度に君の事思い出す様になっちゃった。」と芸を覚えない飼い犬を諦めた様な口調で言って、嬉しそうに笑った。僕も一緒に笑った。体がゆっくり店内の暖かさを吸い込んでいくのが分かった。そのまま僕は何も言わなかった。彼女も何も言わなかった。それでもさっきの静かな笑い声がゆっくりと広がって、二人を優しく包んでいた。
いつの間にか店内には誰もいなくなっていた。どれくらい話したのかは分からなかった。今までの彼女の言葉や声、仕草も全部が大きな壺の中の蜂蜜の様に僕の中で混ざり合っていた。僕はそれを取り出してしまってはいけない様な気がした。
「ねえ。この後って、もう帰っちゃうの?」
彼女はそう言って、ひび割れた僕の手の甲を優しく撫でた。僕は俯きながら首を横に振った。
「じゃあさ、夜景見に行かない?」
「夜景?」
「そう。綺麗な所あるからさ。」
僕は頷いた。彼女は、よし、と言うと立ち上がってトレーを片付けようとした。
「あ、一緒に片付けます。」と言うと、僕は二人分のゴミを一つに纏めて立ち上がった。そして暗証番号を打ち込む様にゆっくりとそれをゴミ箱に捨てた。彼女は背凭れに掛けてあった厚っこいベージュの綿のコートを着て待っていた。僕は黙って彼女の横に立った。彼女は笑って出口へと歩き出した。僕はその後を歩いた。
「あ、こっちこっち。」
彼女はそう言うと、僕の方を向いて手を振った。外はとても寒くて、骨の中の温かさまで吸い取られてしまった。気付けば彼女は赤に緑のチェックが入ったマフラーを細い首に巻いていた。彼女が白い息を吐き出すと、そのまま小さな星が散らばった夜空に雲の列車の様に消えていった。僕が彼女の後ろに立つと、彼女は振り向いて不満そうな顔をした。
「隣来てよ。」
そう言って彼女は、僕のパーカーの袖を引っ張った。一歩進んだ時に彼女のコートに微かに触れた。表面に飛び出したコートの細い毛が街灯に照らされて銀色に光っていた。僕は言われた通りに彼女の左側に立ったが、値札の様な僕には正しい距離が分からなかった。そして彼女との間には人が一人入れるくらいの隙間が出来た。しかし誰かが入ってきても良いと言う訳では無かった。
すると彼女がその隙間に入り込んで僕の右腕を抱き締めた。
「腕の方が良いでしょ?」
彼女が僕に尋ねた。僕はそれに答える様に彼女の体に擦り寄った。
「私たちカップルに見えるかな。」
彼女はそう言うと、僕の肩に頭を凭れた。蝋燭の光の様に柔らかい髪が僕の冷たい頬を撫でた。
周りを見渡せば、どこもカップルで溢れていた。それでも彼等は映画の様で、繋ぐ手にも触れ合う唇にも不器用さが無かった。何故だか僕は震える自分の手を愛しいと思った。
「じゃあ、行こっか。」
そう言って彼女が歩き出すと、僕は引っ張られる様にしてその隣を歩いた。
「どこ行くんですか?」と僕は無数の足音の隙間を探す様にして尋ねた。
「ビルの中に展望台があってさ。そのビルまで電車で行けるから。」と彼女は僕に説明した。
その後、何度か言葉を交わしていると、目の前に大きな駅が現れた。
「ここですか?」
「そう。ここから十分位なんだけどね。それとも歩いてく?」
「いや、電車で…、」と僕が言うと彼女は目を三日月の様に細めて笑った。
駅の中に入ると、沢山の光が二人に降り注いだ。彼女のイヤリングは光を反射して東京の夜空の二等星の様に輝いていた。少し歩くと、突然彼女が僕の腕を離そうとした。僕は慌てて彼女の腕を抱き締めた。
「あ、このままじゃ改札通れないから…。」
そう言って、困った様に彼女は笑った。僕は恐る恐る彼女の腕を離した。ほんの少し前に初めて腕を組んだはずなのに、僕は今までどうしていたか分からなくなっていた。
改札には絶え間無く人が通っていた。列に並ぶ彼女の背中を見ていると、僕と彼女を繋ぎ止めているものは何があるのだろうかと不安になった。改札を通り抜けると、僕は急いで彼女の腕に抱きついた。
「どうしたの。そんなに私の事、好きになっちゃった?」
彼女は少し呆れた様に、それでも嬉しそうに言った。僕は何度も頷いた。そして彼女を強く抱き締めた。
しばらく歩いてエスカレーターに近づくと、彼女はまた僕の腕を離した。彼女に続いてエスカレーターに乗ると、僕はずっと彼女のコートの袖を掴んでいた。僕を見下ろした彼女は何も言わなかった。
ホームに着くと、二人は並んで歩いた。僕は何故だか彼女に触れることが出来なかった。彼女もただ横を歩いていた。二人の間の微かな隙間を風が通り抜けた。僕は少し怖くなって、結局彼女の腕に抱きついた。
電車が来るまでには、まだ少し時間があった。彼女も僕も何も言わずに、乱暴な喧騒の隙間でただじっと待っていた。
彼女の声、髪の匂い、肌の感触。どれもすぐにでも消えてしまうものばかりだった。それ以外に、僕は彼女を何も知らなかった。それでも、彼女に尋ねる勇気は無かった。
少し遠くで電車の音が聞こえた。ホームに立っていた人は一斉に同じ方向を向いた。彼女もそちらを向いた。僕は天井の光に照らされた彼女の髪を見ていた。電車がホームに入ってくると風が吹いて、彼女の柔らかい髪は舞い上がった。電車はちょうど目の前で止まった。ドアが開くと彼女が先に乗り込んだ。僕は後に続いた。
席は既に一杯だった。僕は入ってすぐの衝立に寄り掛かった。彼女は僕の目の前で立っていた。ざらざらしたアナウンスが聞こえてドアが閉まった。電車が動き出す時、突然彼女が僕の体に抱きついた。周りの人は気付いているのか、いないのか、皆んな下を向いていた。彼女は僕の背中をゆっくりと弄ると、僕を見上げて無邪気に笑った。僕は目を逸らす様に俯いたまま、体を強張らせてじっと立っていた。彼女はまた僕を抱き締めた。僕は額を彼女の髪に付けると目を閉じた。ピンクの花の様なシャンプーの香りが僕の身体中に広がった。
電車が止まると、目の前のドアが煙を吐く様な音を立てて開いた。僕は先に降りると、すぐに後ろを振り返った。彼女は意地の悪い笑みを浮かべながら、こちらへ歩いてきた。彼女はそのまま僕の横を通り過ぎた。僕は慌てて彼女の後を追うと、袖を掴んだ。すると彼女は歩く速さを緩めた。僕は横に並んだ。二人の腕が少し窮屈にくっついた。
駅を出ると、辺りには夜空に届く程高いビルが無数に立っていた。見上げると天辺の光は空に吸い込まれて、鈍く暗い色をしていた。ビルの足元には煌びやかな店が延々と並んでいて、ぼんやりとした光がショーウィンドウから染み出していた。彼女には都会が良く似合っていた。今の彼女と僕を繋いでいるものは、形の無い感覚だけだった。
彼女の言っていたビルは一番高かった。ビルの先端は雲と混じり合って、どこまでも続いている様に見えた。彼女がビルに入ろうとすると、僕の体は少し躊躇った。
「大丈夫だよ。」
彼女は少し大袈裟にそう言った。僕は手探りで洞窟を歩く子供の様に体を縮めて彼女の後ろを歩いた。
ビルの中にはスーツに身を包んだ大人たちが行き交っていた。その光景は映画の様だった。僕達は、手を後ろに組んだ無愛想な警備員の横を通り過ぎるとエレベーターに向かった。途中ですれ違った人達は、僕達のことなど見えていない様だった。彼女がエレベーターのボタンを押すと、待っている間、僕は落ち着かずに辺りを見回していた。彼女は黄色いライトが一階に近付くのをずっと眺めていた。
到着のベルが鳴った。エレベーターのドアが開く。そして大きく開けた口で淡々と二人を中へと受け入れた。目の前の大きな鏡に二人が映っている。鏡の中で目が合うと、彼女は恥ずかしそうに口元を隠して笑った。微風に揺れる満開の桜の様で美しかった。
エレベーターには二人の他に誰も乗ってこなかった。僕は少し安心して、閉扉のボタンを押した。ゆっくりとドアが閉じると、床の奥深くで唸り声の様な機械音がして、滑らかに昇り始めた。二人の間には、空気の圧に押し潰されてしまった様に言葉の入る隙間は無かった。
到着のベルが鳴った。エレベーターのドアが開く。するとすぐに、白い毛布の様な上品な温かさと黒い瓶に入った香水の様な匂いが一気に二人に押し寄せた。エレベーターを降りると、目の前を真っ直ぐ伸びた通路の先に、ガラス張りの展望台があった。そしてその直線に沿って、暖簾の掛かったレストランがいくつも並んでいた。その暖簾の奥の方では、微かな熱気と膨張が感じられた。それでも僕達には決して手は届かない事がはっきりと分かった。二人は絨毯の上を足音を殺して展望台へと歩いた。
展望台は多面体の様になっていて、目の前には百八十度の夜景が広がっていた。そこには既に先客がいた。左を向くと、上級の会社員と思しき男女が互いを探り合う様に話をしていた。プレゼントを受け取って大袈裟に喜ぶ女性の台詞も、ここでは宝石の様に輝いていた。右を向くと、外国人の夫婦がカメラを抱えて何やら話していた。身に纏っているはずの異国の雰囲気も、夜の吐息に包み込まれて皆んなと同じ色をしていた。
「綺麗だね。」と彼女が言った。僕はガラスに映る彼女を見ていた。綺麗だと思った。そして無限に広がる夜の街を見ていた。遠くの光が点滅して見えた。そして静かな体に心臓の丁寧な鼓動が響くのが分かった。ビルの足元を見下ろすと、三粒の大人達がどこかへと歩いていった。
気がつくと、周りにはもう誰もいなかった。後ろを振り返ると、ただエレベーターだけが、じっと何かを待っていた。
「どうしたの?」と彼女は少し疲れた様に言った。
「誰もいなくなっちゃいましたね。」と僕が言うと、彼女は「二人っきりだね。」と言って微笑んだ。僕はどうしようも無くなって煌びやかな街に視線を戻すと、ガラスに映った彼女と目が合った。僕が慌てて目を逸らすと、突然彼女が僕の右手を握った。彼女は何も言わなかった。ただ彼女の指の感触で全て分かったような気がした。
突然、背後でエレベーターのドアが開く音がした。僕は慌てて彼女の手を離した。そして横目で彼女の悲しそうな顔が見えた。彼女は後ろを向くと、僕の隣からいなくなってしまった。僕は慌てて彼女を追いかけた。彼女はもうエレベーターのボタンを押していて、ポケットに手を入れて待っていた。僕は真っ直ぐ彼女の方を見ていたが、彼女はじっと前を見ていた。エレベーターは中々来なかった。それでも、階を示す黄色いライトが一つ右に動く度に、僕は何故だか焦りを感じた。
「あの…、さっきはごめんなさい…。」
僕は喉から尖った言葉を押し出す様に言った。彼女は何も言わなかった。
そしてドアが開いた。中には誰も乗っていなかった。彼女は先に乗ると、ぼやけた目で少し下を向いていた。僕は彼女から目を逸らす様に乗った。彼女がボタンを押すとドアは閉まった。エレベーターは地面に引き付けられる様に降りていった。僕は言葉を発しようとしたけれど、頭の中に浮かんだ言葉は全部、一秒前の座標に置いていかれてしまった。
そしてエレベーターは止まった。ゆっくりとドアが開いた。一階にはまだ人がいて、騒めきが反響しながら上に登っていた。彼女は立ち止まることなく出口へと向かった。自動ドアが開いて彼女が外に出ると、僕はドアが閉まる前に外に出た。
すると彼女は立ち止まって僕の方を振り向いた。そして「トイレ行ってくるから、ちょっと待ってて。」と言って微笑んだ。僕は頷くと肩の力が抜けるのが分かった。そして彼女はまたビルの中へと入っていった。
僕は一人になると途端にどうして良いか分からなくなった。夜の寒さは次第に僕の肌の内側まで染み込んで骨の奥を冷やした。唇の間から漏れた息は白く染まって、照明に混ざって消えた。ドアが開いた音がしたのでそちらを向くと、都会の格好をした女性が三人出てきた。僕は怖くなって彼女達に背を向けた。そして三人が行ってしまうと、また静けさが夜の底に広がった。
しばらくしても彼女は戻ってこなかった。ビルの中にはもう人は居なくて、警備員も奥の方へ行ってしまったようだった。下を向くと、土の付いたボロボロのスニーカーが目に入った。酷く子供っぽいと思った。彼女の感覚が消えてしまわない様にポケットに入れた右手を優しく握った。少し遠くで電車の音が聞こえた。
どれくらいそこに居たのか、気づいた頃には遠くの空が白く滲んでいた。僕の体は死体の様に冷たくなっていた。
ビルから左の方に伸びた道は先の方で曲がっていて、そこからはずっと真っ黒な一点に吸い込まれていた。僕は後ろを振り返ると、二、三歩後ろ向きに下がってビルを見上げた。空はもう遠くの方に行ってしまっていて、ビルの頂上は酷く近く感じた。そして僕は駅へと向かった。
店内の角の丸まった暖かさが膨張して、その中でオレンジ色の喧騒が一層響いていた。僕は外の見える席に座った。トレーにはアップルパイとアイスティーが載っている。僕は一口アイスティーを飲むと、本を取り出して適当にページを開いた。紙の上に乗った文字を目で追うが、黒い塊となって目に映るだけだった。僕はどうしようも無くなって本を閉じると、目を瞑った。背後では相変わらず尖った笑い声が隙間無く響いているだけだった。