<第五章>内部崩壊
<第五章>内部崩壊
デパートは一階が食品店。二階が本屋。三階が雑貨屋。四階が洋服屋で五階がレストランになっている。といっても『元』の話だが。
今はどの階のどこを見渡しても安物の商品一つ見つけることが出来ない。長い間放置されていた所為で、住民に荒らされ尽くしたからだ。利用できるものは利用し、金になりそうなものは全て売り払う。そんなことを繰り返されていれば、小学生でもどうなるか分かるだろう。文字通り今のこのデパートはただの廃墟でしかなかった。
安形たちが五階に着くと、下の階の静けさが嘘のように多くの生存者の姿が見えた。およそ十人くらいだろうか。穴や傷だらけの服を着た住民たちが、それぞれレストランのあちらこちらで座ったり談笑したり、身を寄せ合ったりしていた。
「おお、来たか。さっきは凄かったな。上から見てたよ」
安形に気づき、魚のような大きな目をしたマリモ頭の中年の男性が寄ってくる。服装こそ他の住民と同様だったが、その顔はここの住民には珍しく髪も髭もしっかりと手入れされ、サラリーマンのような雰囲気を纏っていた。
「俺は南城良太郎だ。君たちは? 見たところそこの女性以外はここの住民には見えないが」
魚眼を見開き、優しそうな表情で明るく問いかけてた。安形は何故か男のこの表情が好きになれず、無表情で答える。
「俺は安形和也。警察の者です。家出中だったこの鋭くんを探しに来てたんですが……一体何が起きているんですか?」
全て知っているにも関わらず、しらを切りそう聞いた。生存者たちの知識や情報を確認すると共に、自分も彼らと同じ一般人であることをこっそりと示すためだ。
「俺にも分からない。とにかく突然みんなが狂い出したんだ。――他の生存者の話から判断すると、何やらミミズみたいな生き物に体を乗っ取られたらしい」
「ミミズみたいな生き物ですか。そういえば、外に沢山いましたね」
「あれに触れると気が狂ってしまうんだ。君らは運が良かったな。よくここまで感染しなかったよ」
南城は愛嬌のある笑顔を浮かべながら、安形の肩を叩いた。
「さあ、こっちに来てくれ。僅かだが食い物もある。疲れただろ?」
「あ、どうも」
安形は南城の後に続いて奥のテーブルに足を進めた。その途中不意に袖を引っ張られ、首を後ろに傾けると愛の顔が間近に見えた。何か言いたそうにこちらを見ている。
「何だ?」
眉を細め、小声で聞いた。
「あの男には気をつけて。あいつは……マジでヤバイから」
「ん? どういう意味だ?」
安形は聞き返そうとした。だが、既に部屋の奥のテーブルに着いた南城が相変わらず笑顔で安形に呼びかけたため、愛は急いで顔を安形から離した。
「ここにあるものは自由に食べて構わない。なに、どうせ缶詰だ、遠慮しなくていい。俺は下の様子を見に行くから、何かあったら呼んでくれ」
「ありがとうございます」
安形は嬉しそうな顔を作り、礼を言った。
完全に南城の姿が見えなくなると、食べ物には全く手をつけずにさっきの言葉の真意を確かめようと愛を見た。周囲の様子を確認しながら真面目な顔で聞く。
「愛さん、さっきの話……」
「鋭ーっ!」
安形の言葉をかき消すように、数歩離れた位置から若々しい男の声が聞こえた。三日前、鋭がここに来た時に仲良くなったヤンキー、佐久間文人だ。
「へい! 鋭、 へい! 鋭!」
意味の分からない叫び声を上げながら、無言で椅子に座っていた鋭の頭をバシバシと叩く佐久間。鋭はうざったそうにその腕を振り払った。
「分かったから止めろ。鬱陶しい」
「ああ? 鬱陶しいだ? この野郎〜お前もう戻らないとか言って朝ここを出て行ったのに、何で戻ってきてんだよ」
「好きで戻ってきたんじゃない。ただの案内だ」
「またまた、言いわけしちゃって〜!」
佐久間はぐりぐりと鋭の頭を拳で締め付けた。
「止めろ! はあ……何か変わったことはあったか?」
「変わったこと? おう、在ったぜ! お前が戻ってきたことだ」
鋭は遠くを見つめた。
「分かったよ、たっく、ジョークが通じねぇ奴だな。まあ、一つ在ったぜ。お前らの前に別の生存者がここに逃げ込んで来たんだ。それも一人で」
「一人で? どんな奴なんだ?」
一人という所に興味を持ち、安形が初めて会話に入った。
「武田忠信っていう冴えねぇ男だよ。一人で脇道をふらふらしてたところを土橋のオッサンがここから見つけて、裏口から入れたんだ。今四階に居るぜ」
「一人でふらふらか、度胸があるのか何と言うか」
安形は武田という男の話を聞いて苦笑いした。
「――あ、いっけねぇ〜俺南城さんに三階から武器になりそうなものを取ってくるようにって、言われてたんだった。じゃあな、鋭! それと、ゴッツい兄さんと綺麗な姐さん」
慌てて走り去っていく佐久間。
「変わった男だな。昔似たような坊主頭の奴を見たことがあるが……ああいう男は結構生き残れるぞ」
その後ろ姿を眺めながら、考えげに安形は呟いた。
「安形さん」
凛々しく引き締まった眉を僅かに寄せて、愛が真剣な眼差しを向けてくる。安形はすぐにさっきの話の事だろうと察した。
「分かってるよ。南城――の事だろ? あいつの何がどうヤバいんだ?」
「南城は……この夢遊町で闇取引をしている商人なの。主に生きた人間の売買をね」
「人身売買か。 そうか――さっきから妙だとは思っていたが、ここに居る生存者たちが妙にあいつに丁寧な口調で話しているのはそれが理由みたいだな。道理で偉そうにしているわけだ」
スラム街なら簡単に人身売買を行える。当然それは住民にとって大きな脅威であり、恐怖の対象となったはずだ。安形は南城に感じていた嫌悪感の理由が理解でき、腫れ物が取れたようにすっきりした顔になった。
「そんな甘いものじゃ無いわよ。南城がただのチンピラならみんなで協力してとっくに袋にしてるはずでしょ? 曲がりなりにもここはスラム街、弱肉強食の世界なんだから。みんながあいつを恐れている理由はそんな単純な理由じゃない」
「じゃあ、何なんだよ?」
「権力だ」
鋭が愛よりも先に答えた。いつの間にかもぐもぐと缶詰の牛肉を口の中で噛み締めている。
「裏の人脈、金、情報網、自由に操れる部下……絶対的な統制力をあいつは所持している。あいつはこの町ではある意味王様なんだよ。逆らったり、裏切ろうと計画すれば、すぐに気づかれてたちどころにあいつの手の者に拉致られる。逆らう事なんて出来っこない。いや、出来ないようなシステムがいつの間にか作られていた。住民は常にお互いを見張りあい、何か妙な動きがあれば金目当てに報告する。そんな状況が日常茶飯事なんだからな」
「何でそこまで南城は力を持っているんだ? たかが人身売買で。おかしくないか?」
幾らスラム街の孤立した空間と言えども、この日本でそこまでの力や商売を可能にすることは多くの制約と危険が伴うはずだ。納得できないように安形は太い腕を組んだ。
その質問を予期していたように愛が説明する。
「南城には強力な後ろ盾が居るのよ。誰も姿を見たことは無いし、私も名前を南城がチンピラ仲間と話している時に偶然立ち聞きした程度だから確かじゃないけど……」
「後ろ盾?」
「白居学という資産家よ。数十年前――まだスラム街になる前のここら一体を支配していた元財団の代表。今は政治家になって都会の方に移ったって話だけど、どうだかね」
――白居? どこかで聞いた事があるような……
安形はその名前に妙な引っかかりを感じ、首をかしげた。
「じゃあ、その白居が南城に金を流してここで好き勝手やらせているんだな。元財団関係者で政治家なら確かにそれぐらいは出来そうだ」
「まあ、町がこうなった今、その権力も十分に働きそうにはない。部下も二〜三人しか居ないようだしな」
鋭が知った顔で言った。
「部下の顔を知ってるって、三日前にここに着たばかりなのにやけに詳しいな鋭」
南城が人前で平然と部下と話すとは思えない。少し頭が回る人間なら上手く生存者たちの中に潜ませるはずだ。その方が色々と住民の情報や会話を知る事が出来る。
「別に……三日も居ればそれくらい気がつけるさ」
鋭は急に声の調子を変えた。手に持っていた牛肉の缶詰をがっつくように口の中にかき込む。
――やっぱり何か隠してるみたいだな。
安形の中で鋭に対する疑惑の感情が大きくなった。
自分に害を与えるようには見えないが、万が一のためにある程度鋭にも用心していた方がいいかもしれないと考える。勿論ほんの僅かな疑惑でしか無いのだが。
「さ、食べましょう」
愛がこの奇妙な空気を打ち消すように明るい声で二人に声を掛けた。
「ああ、そうだな」
自分の警戒心を悟られないように安形も明るい声で応じる。目の前に積んであった缶詰を一つ取り、蓋を開け中身を確認することなく飲むように口に含んだ。とにかく今は気を張っていても仕様が無い。これからヘリに向けて狂人の蔓延る夢遊町を歩き回らないといけないのだ。食べれる時に食べなくては。
舌先が缶の中身に触れた瞬間、安形は顔をしかめた。
「苦っ!?」
ゴーヤの塊だった。
「よお、武田っち! 元気になったか?」
今この町で起きている事を知っているのか疑いたくなるような高いテンションで、佐久間はソファーに寝ている武田に声を掛けた。
いくら片っ端から商品が売られたとはいえ、一応は元洋服屋だ。質は悪いがそれなりに服は残っている。武田はこの四階で血に塗れた自分の服を全て着替え、気分を落ち着かせようとソファーに横になった途端、佐久間の張りのある声を聞き、無理やり起こされた。
「ああ、元気だよ。おかげで眠気も吹き飛んだし」
皮肉を込めて言う。
「そうか、それなら良かった。新しい生存者が増えたぜ。安形とかいう黒い服を着たでっかい男だ。上の階にいるから後で見てみな!」
どうやら皮肉は伝わらなかったらしい。佐久間は表情を輝かせ、嬉しそうに上を指した。
――さっき来たばかりの俺に新しいも古いも分かるわけ無いだろ……。
溜息をつき、隈の出来た目を擦る武田。
「じゃあ、俺行くな。三階に包丁とか果物ナイフとか僅かに残ってるらしいから、それを取りに行かないといけねぇんだ。また後でな!」
武田の様子に全く気がつく様子も無く爽やかに笑顔を振りまくと、佐久間はスキップをしそうな軽やかな足取りでソファーから離れていった。
「はぁ……俺は何をしてるんだか」
視線を下に落とし重い息を吐く武田。人より倍は長い前髪を掻き上げ、呆けたように灰色の天井を見つめる。
この地獄から脱出し、最愛の恋人である木枝を弔い、人生を取り戻す。そのために人殺しをしてまで一人で逃げてきた。
だが、幾ら頑張っても狂人たちの間を抜ける事が出来ず、こうしてまたドブネズミのように怯えて隠れている。
「クククク……」
己の不甲斐なさと、滑稽さが可笑しくなって涙を流しながら小さく笑った。人に見られないようにソファーに深く身を沈め姿を隠す。長い前髪を指で撫でつけこのまま自殺しようかと考えた。手に持っていた万能ツールのナイフを手首に押し当て、そこで動きを止める。後は腕を引けばすぐ楽になるのだが、どうしてもその最後の一線を越えることが出来ない。
――何が木枝の弔いだ……結局俺もただ死にたくないだけじゃないか。
生への願望を、人殺しの罪を木枝の所為にして正当化していただけであることに気づき、呆れる。武田はナイフをしまうと両手で顔を覆い尽くした。
「――……のですか?」
背後十メートルほど後ろにある階段から人の声が聞こえてきた。こんなグシャグシャの顔を見られたくはない。武田は目を拭い、ソファーの後ろに回ると、そこにしゃがみ込んだ。合わせるように下の階から二人の男が上ってくる。
「間違いない。あの安形とか言う男は何か特殊な訓練を受けている人間だ。一般人には分からないだろうが、俺の目はごまかせない。足の運び方、視線の動き、どれをとっても常に急な攻撃に対応できるように神経が研ぎ澄まされている」
南城の声だ。
「町がこうなってしまった事と関係あるんですかね?」
部下らしきパンチパーマの男が立ち止まり小声で聞く。しかし周囲が静かな所為か音が響いてしまいほぼ筒抜けだった。
「さあな、でもまあ無関係でもなさそうだ。さっきあいつが狂人を退けたのを見ただろ。あれはどう見てもあの手の化物とやりなれている人間の動きだった。白居候の部下か、政府の調査員か、それとも……」
「テロリストとか?」
「ああ、一ヶ月前に起きた水憐島、紀行園の大事件の例もある。もしかしたら、この夢遊町をこんな状態にした張本人かもしれないな」
「そうだったらさっさと殺してやりましょう。御蔭で俺らは商売上ったりなんだ。白居候とも連絡が着かない状態なんですし」
「まあ待て。あいつは使える。化物とやりなれていると言う事は、逃げ方や対応策も知っているという事だ。上手く利用して脱出の手伝いをさせよう」
「協力するでしょうか?」
パンチパーマの男は不安げに聞いた。上手くいくと思っていないのか心配そうに南城の顔を見上げる。しかし男の態度とは反対に、南城は魚眼を盛大に見開いてニヤリと笑った。
「させるさ」
南城らが五階に消えると、武田はソファーの影から体を出し、立ち上がった。親指を顎に当て眉間に深い一本の縦筋を刻みながら、げっそりした顔で今聞いたばかりの話について考える。
――ここから脱出するだと? それもこんな大人数で? 無謀すぎる……!
立てこもった場所からの脱出。それがどれほど難しいか武田は身をもって知っている。一歩間違え先に狂人に気づかれれば、全滅という最悪の結果を招いてしまう。木枝が死んだ瞬間を反射的に頭の中で再生し、吐き気を覚えた。
「……止めないと、また多くの人間が死ぬ。折角の安全場所が危険にさらされる……」
これまで他人の理不尽な考えで恋人を失い、自分の命を危険にさらされ、死の一歩真横まで追い詰められた経験から、武田は自分の考えが一番正しい――自分が一番まともな判断をしていると思い込むようになっていた。
「安形、とか言ったな」
南城らの会話に出てきた名前を思い出す。脱出のキーマンであり、特殊な訓練を受けたらしい怪しい人間。その名前を心の中で何度も唱えるながら、武田は一つの結論に辿りついた。
「殺すしかない」
紺色の上着の中に手を突っ込み、万能ツールのナイフを固く握り締める。そして、ゆっくりと上の階への階段へ向かった。だが足を一段目に伸ばす前に不安がよぎり動きを止める。
「訓練を受けた、急な攻撃に対応出来るとか言っていたな。俺が不意打ちしても……成功する可能性は低いか」
自分の身体能力は良く知っている。武田は困った顔で頭をかきながら、何と無く周囲を一望した。特に意味は無い。ただ無意識の中にそうしただけだ。
「ん?」
ふと何か動くものが部屋の奥に見えた。階段横の窓際まで移動すると、武田はまじまじとそれを見た。どうやってここまで上ってきたのか、うねうねと蠢くミミズが三匹窓の外側に引っ付いている。
頭の中で何かが閃いた。昔ニュースで見たES細胞の発明者が記者会見でしていた様子を真似て、嬉しそうに腕を組み頷く。そして足元に転がっていた空のビール瓶を拾うと、窓開け、同じように落ちていたボールペンでミミズ達をその中へと落とした。
これなら何の危険も無く上手く事を運べるだろう。
「俺が、みんなを助けるんだ」
武田は狂気を含んだ醜い笑みを浮かべ、満足げに呟いた。
夢遊町住宅区の中央。悪臭を撒き散らし、ハエや鼠、ゴキブリの蔓延るこの場所は、ゴミ捨て場と言うよりは再利用や処分が出来ないゴミを集めて作られる埋立地に似ていた。
住宅街のど真ん中に普通、こんな場所は無い。ここの始まりは一軒のゴミ屋敷だった。生きるためにゴミを集めるこ事はスラム街ではよくある事だが、その家は度が超えていた。全く売れそうに無い、生活に使えそうにない生ゴミや使い捨ての雑巾など、どうでもいい物まで集めていたのだ。いつしか町の住民はここに自分たちのゴミを勝手に捨てるようになっていった。家の主も全くそれを嫌がることが無かったため、次第にゴミはここに捨てることがさも当然であるかのような暗黙のルールが生まれ、家の主が死んでからも多くの人間が行為を続けた。夢遊町近隣の企業や会社、密輸業者までも利用するほどで、今では『夢遊町のトイレ』と呼ばれ、ひそかに名を馳せたスポットになっている。
「こんな臭せー場所に本当に隠れてんのかよ」
ハリネズミのような髪型の黒服メンバー、本田が鼻を押さえながら文句を垂れる。
「可能性は高い。人が寄り付き難いし、何より隠れる場所が豊富だ。俺だったらここに隠れる」
短髪と揉み上げ、髭が一周するように顔を囲んでいる男、曽根が機械的に言った。悪臭など全く気にする素振りもない。
「お前鼻おかしいんじゃねぇのか? こんな所に隠れてたら三十分で頭がイカれるぜ。自分もゴミになっちまったって錯覚してな」
「これだけ広いと、探している間に逃げられてしまう。ナルキッソスを使おう」
「賛成だが、媒体はどうするんだよ。人なんか殆ど見えないぞ?」
「有名な企業がゴミを捨てに来るんだ。住民がそれを素通りするわけが無い。使えそうなものを探して売ろうとするはず。必ず人は何人も居るさ。探し物をして穴を掘っている最中なのか、身を屈めているのか……そもそもこれだけ山なりの多い場所では数メートル先の景色も良く見えないだろ」
「分かったよ。ばら撒けばいいんだろ? ばら撒けば……」
本田は左手に持っていたクーラーボックスを下に置き、蓋を丁寧に開けた。
「三分後に散布するようにセットと。これでよし! さあ、とっととズラかろうぜ」
「うむ。一時感染経路である空気感染は効果時間が短いが、範囲が広いからな。急いで車まで戻ろう」
早足で二人は歩き出した。
「――そういえば、さっき途中でデパートの廃墟の前に無数の狂人が集まっている姿が見えた。十字路を横切る時に遠くに見えただけだから確信は無いけど……一度見に行ってみるか? 念のためにな」
「感染者が集まるのは新鮮な肉の気配を察知した時だけだ。――鋭や『身内』かは分からないが、生存者は居るかもしれない。行ってみる価値はある」
「よし、決まりだな。ならとっとと行こうぜ。早くしないと黒村の旦那に先を越されちまう。今頃来たのかってな」
本田は黒村の鋭い目つきを真似て口を突き出しながらそう言った。
道無き道の先に道路と曽根の愛車、ジボレーが見えてくる。
「――お、作動したぜ」
助手席に座り、車が動き出した直後、夢遊町のトイレから一飛沫の霧の柱が見えた。それは高く高く上り、燦々と輝く太陽の光を命一杯受けて、美しい虹を作った。
「そろそろ行こうか」
安形はテーブルに手を付き、椅子から腰を浮かせた。
ここに来た目的である愛の保護も一応済んだし、自身の任務である鋭の脱出補助を流石に再開しなくてはならない。
「本当に行っちゃうの?」
僅かとはいえ、生死を共にした仲だ。愛はちょっと寂しそうな顔で安形と鋭を交互に見た。
「ああ、それが目的だからな。こればっかりはどうしようもない。なに、鋭を送ったらまたここに戻ってくるさ」
安形は愛を安心させるように優しく微笑んだ。
「南城に見つかったら厄介だ。早く行こう」
鋭く自然にレストラン内の他の人間の様子を見ながら、鋭は緊張感ある声で安形を促す。
「そう急かすなよ。分かってる」
最後に愛に目でお別れを言うと、安形は歩き出した。
揺ぎ無い足取りで部屋の正面の端を真っ直ぐに目指す。手すりが見え、太陽の届かない暗に覆われた階段が現れる。再び地獄の中に踏み入れる覚悟を決め、一気に降りていこうとした。
「おや、何処にいくんだ?」
真下から何の前触れも無く南城とパンチパーマの男が笑顔のまま現れた。その気配の無さに安形は驚き咄嗟に身構えてしまう。
「おいおい、俺が何をした? その空手家のような構えを解いてくれ」
大げさに両腕を上げる南城。安形は「しまった」と思いながら慌てて手を下ろした。場を繕う様に鋭が口を開く。『感覚』で数メートル前から南城たちの存在に気がついていたのか、対処がかなり早かった。
「ちょっと狂人の様子を見に行こうと思ってたから、緊張していたんだ。ここもいつまで持つか分からないからな。定期的に確認やバリケードの点検をした方がいい。ちょっと下に行って二人で見てくる」
「ああ、心配するな。それなら交代でもうやってるさ。君らはまだ来たばかりなんだ。ゆっくり休んでくれ」
「いや、休んでいても何だか落ち着かない。気晴らしのつもりで行かせてくれ」
鋭は引き下がることなく言葉を続けた。ここまで言えば大抵の人間ならば譲るはずだ。だが南城は違った。
「いいから、いいから。丁度君達に話したいことがあったんだ。聞いてくれ」
人懐こい笑顔を崩さず、優しそうに鋭の背に手を置く。大した力は込められて居なかったが、その手が絶対に逃がさないぞと言っている様で、鋭はそれ以上反抗出来なかった。安形を見ると、仕方が無いというように肩を竦めている。ここで南城たちを気絶させて出て行くのは簡単だが、そんなことをすれば一緒に逃げてきた愛があとでどんな目に合わされるか分からない。鋭はとうとう諦め、それ以上何も言わなかった。満足げに微笑み、南城は脱出について話そうと口を開く。
だが言葉を発する前に足音が聞こえ、階段の下から紺色のジャンバーにジーパン姿の、前髪のいやに長い男が上ってきた。武田だ。
「おお、武田くん。もう気分は治ったのか?」
南城は切り出そうとした提案を止められ、一瞬不機嫌そうな顔を作ったが、すぐに表情を戻し、武田を振り返った。
「お蔭様で良くなりました。ありがとう御座います。少し上で食事を取らせて下さい。吐き気が収まったら何だか腹が減ってしまって」
「ああ、構わない。好きなだけ食ってくれ」
南城は終始笑顔で応じると、武田を奥の席へとパンチパーマの男に送らせた。何故か武田はこちらをじっと見つめていたが、安形はあまり気にしなかった。
――あれがたった一人で逃げ込んできたとか言う男か。随分華奢な体格だったな。
安形は武田という名前を聞き、先ほどの佐久間の言葉を思い起こす。
「さてと、何処まで話したっけな。いや、まだ話し始めてもなかったか。ハハハハ」
声を出して笑い、こちらに向き直る南城。若干不機嫌そうなのは会話を中断させられたからだろうか。
大きく息を吸い込むと、今度こそはと口を開け念入りに考えた言葉を口に出そうとした。
しかし、それはまたしても妨害された。
「きゃぁあああああああっ!?」
生存者のものと思われる女性の悲鳴が響き渡った。それもデパートの外ではなくレストランの内部から。
「何だ?」
ガラスでも割ったのかといった態度で部屋の奥を見つめる南城。安全を保っていたこのデパートで狂人がいきなり、しかも最高階である五階に出現するなど考えられない。当然の反応といえば当然だ。
「安形、狂人が居るぞ!」
感覚で状況を理解した鋭が、南城とは正反対に緊張した声を出した。
「何だと!? ――そんな馬鹿な! さっきまで俺たちあっちに座ってたんだぞ!?」
流石の安形も状況が理解出来ず心臓を大きく跳ね上がらせる。
「さっき武田を送って言ったパンチパーマの男だ。あいつが感染している」
「と、とにかく何とかするぞ、愛さんや他の生存者が危ない!」
安形は大急ぎで走り出した。
「あぁあぁぁぁあああああ!」
奇声を上げながら狂人は逃げ惑う人々を追いかけた。皆一様に顔を青ざめ、階段や部屋の奥を目掛けて蜘蛛の子を散らすように駆けて行く。
狂人はその最後尾に居た、側面の髪の毛を頭上クロスさせている男に追いつくと、何のためらいも無く首に噛み付いた。
「ぎゃぁあああああっ!?」
神経を痛みの信号が駆け巡り思考を麻痺させる。男はムンクの叫びのような表情で叫ぶと、大量の血を吐き出し体を痙攣させ、狂人の口に首を咥えられたまま体をピクピクと動かすだけの肉隗となった。
「止めろ!」
逆方向に雪崩のように去っていく人垣を押し分けながら、安形は狂人の前に躍り出る。同時に黒柄ナイフを抜き、威圧的に構えた。
「た、助けてくれ!」
狂人の右横から声が聞こえた。顔を前に向けたまま視線を動かすと、武田が腰を床に付き子犬のように震えていた。
――逃げ遅れたのか!?
武田は狂人とかなり近い場所に居る。下手に刺激すればあっと言う間に殺されかねない。安形は狂人の注意が武田に向かないように視線をその狂人と交差させたまま、距離を潰していった。
「いいか、俺がこれからあいつの動きを止める。その隙に階段に全力で走るんだ」
「わ、分かった」
安形の命令するような口調にどもりながら武田は答えた。
「今だ!」
大声を放ち、一気に間合いを積め狂人の胸をナイフの柄で強打する。狂人は悶えつつも安形の服を掴み、押し倒そうとした。
「あああああぁああああ!」
――くそっ、俺は相撲取りじゃないぞ!
安形は足を踏ん張り何とか体を支える。狂人の力は悪魔ほどではないといえ、人間よりは強力であることに変わりは無い。安形と狂人はほぼ互角の押し合いを繰り広げた。
「うぐっ!?」
突然首筋に何か生暖かいものが触れた。覚えのある感触だ。浸透してくるような、電気が走るような――
「あんたが安形だろ? 悪いがあんたが居ると南城が脱出したがるんだ。ここで死んでくれ」
ついさっき目の前で怯えていた男の声が真後ろから聞こえる。
――な、まさか――!?
最悪の状況が頭を過ぎる。だが、その考えはすぐに遠のいていった。消しゴムで消し去ったように頭の中が真っ白になる。
変わりに猛烈な殺意と、排除感、憎しみを覚え、体中に得体のしれない力が沸き起こっていく。
無意識の中に安形は声を出していた。
感情の無い、冷たい、ただ吐き出しているだけのような声を。
「ああああぁああああああああああ……!」