<第三章>武田忠信の決意
<第三章>武田忠信の決意
コンコンコンッ――
ドアをノックする音が古びたアパートの狭い廊下に響く。
「誰だ?」
そのドアの向こう側から熟年の男らしき声が聞こえた。
「俺です、ゴローさん。武田っす」
革ジャンにジーパン、いやに前髪が長い黒髪の若い男が、声を落として返事をする。
「ああ、武田か。入れ」
ボロボロのコート姿の長い髭に長い髪。どう見てもホームレスとしか言えない様な格好の男、ゴローはドアを開けるとニッコリと微笑み武田を部屋の中に促した。
「お、武田さん。ちーす!」
高校生らしき制服姿の男が気づき、武田に向かって声をかけた。
「なあ青木、木枝は?」
「木枝さんっすか? 奥で寝てますよ」
「そうか、ありがとう」
武田は軽く頭を傾け青木に礼を言うと、奥の部屋へと歩き出した。それを見たゴローが慌てて武田を引き止める。
「ちょっと待て武田。その前に外の様子を教えろよ。そのためにお前今まで出ていたんだろ?」
「あ、すいません。外は……かなり酷くなってます。頭の狂った奴等が三日前の五倍近くに増えていました」
「そんなに増えているのか。本当に一体何が起きているんだ?」
「分かりません。俺も襲われるのが怖かったんで、隠れながらここの周囲を数百メートルほど見てみただけなんです」
「そうか、悪かったな。くじの結果とは言え無理やり行かせて。もう話はいい。早く木枝ちゃんの所へ行って安心させてあげな」
ゴローは武田の肩を叩くと疲れたような笑顔でそう言った。
ここは夢遊町中心街居住区。
三日前からゴローや武田は感染者に襲われる事を恐れ、ここに集団で閉じこもっていた。
武田とその恋人である木枝は駆け落ちの末この町に逃げてきたのであり、青木は富山大震災で家と家族を失い三年前からここに住んでいる。ゴローはと言えば彼は十年近くここに住んでいるという事以外は一切謎のおじさんだった。ちょっと前まで富山樹海から来たとか言う田中さんと名乗る元大手企業の人間と同棲していたらしいが、今は一人で住んでいる。
「木枝、帰ったぞ」
武田は奥の部屋に入って直ぐに自分の恋人に呼びかけた。
「忠信……!」
するとすぐに木枝はベットから飛び起き武田に抱きつく。よほど心配だったのだろう。その瞳の下には涙の跡らしき筋が二本出来ていた。
「何だよ〜泣いてたのか? 可愛いところあんじゃん」
武田は木枝を強く抱きしめながら優しく微笑んだ。
「ふざけないでよ馬鹿! 心配したんだから」
木枝は武田の胸板を叩きながらその顔を睨みつける。
「悪い、悪い、そんなに怒んなよ」
武田は少し困った顔と、どこか嬉しそうな顔の混じった表情で木枝に謝った。
「しかし、こうなったらもう助けを待たないで逃げた方がいいんじゃないっすかねぇ?」
「外は狂人だらけだぞ? どうやって逃げるんだ」
抱き合ったままの二人を他所に、隣の部屋では青木とゴローが深刻そうな表情で今後の自分たちの行動について話し合っていた。
「トラックみたいな大型の車が手に入れば簡単に逃げられると思うんすよ。確か、二百メートルほど近くに元郵便局があったじゃないですか。あれ、使ったらどうっすかね?」
「トラックか。確かにそれに乗れたら逃げられるかも知れないけどよ。そこまで無事に行けるとは思えないぞ?」
青木の言葉にゴローはあまり賛成では無いように言う。
「でも武田さんは大体そんくらいの距離を歩き回って来たんじゃないっすか。気をつけてれば大丈夫っすよ。それに、まだ普通に外を歩いている狂人以外の人間もいるじゃないですか」
「でもな……」
青木の言葉を幾ら聞いても、ゴローは外に出る気にはなれなかった。折角安全な場所に居るのに、態々(わざわざ)外に出ることは無い。自分たちから死の危険を呼び込むことなど御免なのだ。
これほどの精神異常者が出ているのだ。きっと数日の間には警察が出てくるはず。
ゴローはそう思っていた。
「助けてくれー!」
突然アパートの外から男性の声が聞こえた。かなり追い詰められているような声だ。
「誰か襲われてるぞ!?」
武田は木枝と体を離し、急いで窓に手を掛けた。それと同時にゴローや青木も部屋の中に入ってくる。
武田、木枝、青木、ゴローの四人が窓の隙間から慎重に外を覗くと、武田と同じ位の年齢と思われる若い男が数人の狂人に追われ、道路上をこのアパートの付近へ真っ直ぐに走って来ている姿が目に入った。 ここは三階であるため、その様子はっきりと確認する事が出来る。
ストレートヘアーをアメリカのミュージシャンのように垂らした長髪に、真丸のメガネを掛けたボロボロのャージ姿の男性だ。恐らくゴローや青木と同じこの夢遊町の住民だろう。
「た、助けなきゃ!」
木枝がギュッと武田の腕にくっ付き心配そうに呟く。だが武田は木枝を守るために冷静な判断を下した。
「だ、駄目だ。今あいつを助ければあの追いかけてる狂人たちに、俺らがこのアパートにいるって事を教えてしまう。残酷だけどここは見捨てるしかない」
「でも忠信……!」
「仕方がないんだ!」
武田は自分に言い聞かせるようにそう小さく叫んだ。
「そんなの間違ってる!」
武田もゴローも木枝も男を助けようとしない姿を見た青木は、突然窓を大きく開け放ち大声を放った。
「こっっちだ! こっちに来い」
「なっ!?」
ゴローと武田が同時に驚きの声をあげる。二人はすぐに青木を部屋の中に引き戻し、窓を素早く閉めた。が、時は既に遅かった。
外を走っていたメガネの若者は天の助けだと言う様に、一気にアパートの正面入口前まで来ると、勢い良くその扉を開けた。
「――仕方がない、あいつを中に入れたらすぐに鍵を閉めて閉じこもるぞ!」
ゴローは苦虫を噛み潰したような表情で自分たちの部屋の扉を開け、丁度階段を上がってきた若者に向かって声を掛けた。
「こっちだ、急げ!」
若者はゴローを見つけるとすぐに、荒い息使いで駆けて来る。その真後ろには相変わらず狂人たちの姿があり、先ほどよりもその間の距離は狭まっている。
「掴まれー!」
ゴローは手を限界まで伸ばし、若者の腕を掴んで部屋の中へと引っ張った。折り重なるように中に倒れる二人を他所に、青木が素早く部屋の扉を閉める。
ガッ!
しかしあと一歩という所で狂人の腕がそれを止めた。ギリギリのところで扉を掴んだのだ。もうこうなっては青木にはどうしようもない。
「は、入ってくるぞ! 木枝、窓から逃げるんだ」
武田は恐怖に歪んだ表情で窓を大きく開け放ち、そこから木枝と共に逃げ出そうと試みた。だが――
「たっ、忠信っ!」
武田が窓から身を乗りだたさせたと同時に木枝が悲痛な悲鳴をあげた。どうやら狂人に肩を掴まれてしまったらしい。
「くそっ、木枝を離せこのイカレ野朗、うがぁっ!?」
武田は精一杯の力で狂人の腕を振りほどこうとしたが、全く効果はなく逆に壁に叩きつけられてしまった。
「こ、木枝ぇ!」
痛みで霞む視界の中で、今にも喉を噛みつかれそうな木枝を見る。段々と狂人の歯が木枝の首元へ近付いていく。
「忠信ー!」
木枝は泣きながら武田の顔を横目に見つめた。
ガツンッ!
誰もが木枝の死を覚悟したその時、鈍い音と共に狂人の首がぐるりと捻じ曲がった。
「今だ! 行け!」
武田が木枝と狂人の後ろを見ると、そこにバットを構えて立っていたゴローが必死の形相で叫んだ。
「あ、ありがとうございます、ゴローさん!」
武田は心から礼を述べると木枝の腕を掴み全力で走り出した。
ゴローの身も心配だったが、何よりも今は最愛の恋人である木枝を助けることの方が重要だ。武田は心の中でゴローの安否を祈りながら部屋を飛び出す。その間に青木に群がる狂人の集団を目撃したが、こんな状況では気にする暇もない。逆に逃げ出すチャンスだと言わんばかりに武田は青木を助けることなく先へ進んだ。
「はぁ、はぁ、はぁっ……――うっ!?」
アパートから一般道に出た瞬間、突然木枝が走るのを止めた。
「どうした木枝、早く逃げないと殺されるぞ?」
木枝の両肩を掴んで揺するように言ったが、木枝は何も答えずじっと武田の顔を見ている。
「木枝?」
武田は急に不安になって木枝の顔を覗き込んだ。
「あああああぁぅううあああっー!」
その瞬間、木枝は奇声を上げながら武田の顔に噛み付いた。瞬く間に武田の顔に電撃のような鋭く熱い痛みが走る。
「あがぁああ!?」
思わず武田は殴りつけるような突きを繰り出し、木枝の体を自分から遠ざけた。
「ぐっ、な、何するんだ?」
顔を抑えながら武田が木枝を見ると、そこに立っていた女性は体中を小刻みに痙攣させながら涎を垂れ流し、自分を獣のような目つきで睨みつけていた。その様子はまるで先ほどの狂人と変わらない。
「木枝……嘘だろ!?」
武田は信じられない、信じたくないという目で愛すべき恋人の哀れな姿を見つめる。
高校生の頃から好きだった彼女。
遊園地で子供のように走り回っていた彼女。
初心な小学生みたいに顔を真っ赤にしながら手を握り合った彼女。
その最愛の彼女が今、感情の篭らない目で自分を睨みつけている。
「こ、木枝ぇ……」
武田は見っとも無い声を出しながら、木枝のその変わり果てた姿を眺め続けた。
ついさっき嬉しそうに、心配そうに自分を抱きしめてくれたあの暖かい温もり、優しい瞳はもはや見る影もない。
何故、一体どうして彼女がこんな顔で自分を見るのか武田は理解出来なかった。
「ああぁあああぅううう……ぁああああ」
赤子のような声を撒き散らしながら、木枝はゆっくりと武田に近付いていく。その行動に、武田は思わず一歩退いた。
もしもこの時武田がミミズ感染について、ネルガルという細胞兵器について知っていたのなら、あんな事にはならなかったかもしれない。あんな運命を辿ることにはならなかったかも知れない。
しかしそんな事は無理な注文というものだろう。
一般人である武田がネルガルについて知る術があるわけもなく、木枝が今どういう状態なのかも理解出来はしない。
全ては運が悪かったとしかいえない様な偶然の結果だった。
「あぁあぅうああ!」
木枝は勢い良く飛び上がり武田の体を押し倒した。女性といえどもミミズ感染によって強化された力は凄まじく、簡単に武田はその背を地面につけてしまう。
木枝はそのままゆっくりと武田の首元に自分の歯を近づけていった。
迷う事も戸惑うことも悲しむことも一切なく、ただ害虫を排除するかのような機械的な動きで。
――ああ、もう元には戻れないんだな。
武田の中でそんな考えがふと浮かんだ。
原因は何にしろ彼女はおかしくなってしまった。
イカれてしまった。
壊れてしまった。
そして今、愛し合ったはずの自分を殺そうとしている。
もし魂というものが存在するのなら、きっと――いや、絶対に木枝はこんなことは望まないだろう。
自分のしてしまったことの罪の意識で狂ってしまうかもしれない。
武田は涙を流しながら決意を固めた。
死にたくないという思いも勿論あったが、それ以上に木枝を悲しませたくない。殺人者にしたくない。苦しませたくないという思いの方が強かった。
近付いてくる木枝の変わり果てた顔を見つめながら、何時も腰につけている小型の万能ツールを片手で取り外し、内臓されていたナイフを引き出した。
「ああああぁあぅううう……ぁぁああああ……」
「木枝、今楽にしてあげるよ」
その瞬間、灰色の道路の上に真っ赤な花が咲いた。
まるで地獄に咲いているかのような残酷で悲しい花が。
「ここを上がればミッドタウンだ」
鋭が地下商店街の端にある階段の上を見上げながら言った。
「よし、じゃあ行くか」
安形は背中におぶった女性をしっかりと抱えなおし、階段を上がりだした。
「なあ、ヘリは夢遊町の端に止まっているんだろ? ミッドタウンを通っていったら遠回りなんじゃないのか?」
「遠回りじゃないぞ。端っていってもこっち側じゃなくミッドタウンを挟んで反対側の端だからな」
「何で態々(わざわざ)、そんな待ち合わせ場所から離れたところに着陸したんだ?」
「だって待ち合わせ場所に近いと色々と危険だろ? 依頼主が信用できる人間かどうかも分からないんだからな。ある程度こちらの存在を知られない場所から接近し、罠があるかどうかとか色々と調べる必要があったのさ」
「その割には全く慎重さが無いように見えたけど」
「まあ、俺は慎重に動くとかそういうのあまり好きじゃないからな」
安形はあっさりとそんな事を言った。
「良くそれで黒服に入れたな」
「別にいいだろそんな事は。ほら、外だ。もうおしゃべりは止めて気を引き締めようぜ」
実際に悟という同僚のついでで黒服に入った安形は、あまりその話をしたくないのか話題を変えるようにこう言った。
「うぅ……?」
階段を上がり住宅地のような場所に出たと同時に、安形の背に背負われていた女性が声を上げ目を覚ました。
「お、起きたか。良かった。このままずっとおぶっていくのは流石にきついからな」
「うん? ……――っあ、あんたら誰よ? 私なんで担がれてんの!?」
自分が誘拐されたとでも思っているのだろうか。女性は困惑と怯えの入り混じったような表情を浮かべる。
「落ち着け。俺たちはあんたに危害を加えたりはしない。下ろすぞ?」
安形はゆっくりと女性を背中から下ろした。
「あんたはミミズに感染してたんだ。覚えてないか?」
道路横のコンクリートの壁に背を付きながら、鋭が確認するように聞いた。
「ミミズ? いや私は唯に首を掴まれて……」
「その時に感染したんだ。良かったな。安形が助けなかったらあんたは永遠に操り人形になるか、他の体にミミズが移ったあとに殺されてたか、どちらかだっただろう」
「ちょっとわけ分かんないんだけど? 何なのよミミズって!?」
「これだ」
いきなり鋭は手の平を開いて女性に見せた。そこには触手だらけの長い生き物がうねうねと蠢いている。
「ひっ!?」
思わず女性は顔を勢い良く鋭から離す。だが、驚いたのは女性だけではなかった。
「鋭、お前それどこで見つけた? いつの間に掴んだんだ?」
意外そうに安形が尋ねる。
「そんなに驚くな。今この夢遊町には腐るほど居るんだ。目を凝らしてそこら中を探せば直ぐに見つかるぞ。ほら、そこにも居る」
「うおっ!?」
安形はいつの間にか自分の肩の上を這っていたミミズを慌てて叩き落した。
「用心しろ。悪魔と違ってこいつらは気づかれ難い。絶えず周囲に意識を配ってないとすぐに感染するぞ」
安形は黙ってミミズを踏み潰した。それを意味ありげな表情で見つめると鋭は歩き出した。
「さあ、行こう。立ち止まるのはマズい」
「ちょっと、どこ行くのよ?」
女性が怪訝そうに尋ねる。
「あんたには関係ないだろ? もう意識も戻ったことだし、勝手にどっか行け」
「はあ? 何よそれ! こんなとこに私を一人で置いてく気?」
「当たり前だろ。まさかあんた、俺たちに着いて来る気なのか?」
「当然でしょ。あんたたちが助けたんだから最後まで責任持ちなさいよ」
「何でそこまで俺らが面倒を見なきゃ行けないんだ。自分の命くらい自分で守れ」
「何ですって!?」
女性は耳を赤くして怒鳴った。
「鋭、少し冷た過ぎるぞ。こんな危険な場所に彼女を置き去りにする事なんて出来ない。せめてどこか安全な場所に避難させよう。何かいい場所を知らないか? お前――三日間ここに潜んでたんだろ?」
安形が場を納めるように言った。
「……ミッドタウンの東部にデパートがある。そこに俺の知り合いが数人立て篭ってる。俺も待ち合わせ場所に向かうまではそこに隠れていた」
「そうか、よし、じゃあそこで決まりだな。そこでこの人を預けよう。ヘリにはその跡に行けばいい」
「黒服に追いつかれるぞ?」
鋭はやや不機嫌そうに安形を見る。
「その時はその時だ」
だが、安形は楽天的な態度で鋭を一笑すると、ズンズンと歩き出した。
「はぁ……」
鋭は頭を抱え溜息をつくと、仕方がなくそれに続いた。
「曽根と本田は既に車でミッドタウンの方へ向かった。このビルの周囲は全て探したが、どこにも奴らの気配は無い。やっぱりミッドタウンに逃げ込んだらしいな」
ボロボロのビルの中、受付前の広間でレゲエ頭の黒村が憎憎しげにそう言った。
「本田らの車をここに呼ぼう。このままだと俺たちだけ出遅れる」
ロボット兵のような高木が無表情で携帯電話を取り出し、それを耳に当てる。
「止めとけ、普通の上司と部下ならともかく、黒服ではそんな命令を真に受ける奴なんてめったにいねーよ。電話を入れても大方「今手が離せません」とか言われるのがおちだ。手柄を得るためにな」
「確かに俺たちの間にはそれ程権力差は無いからな。お前が今仕切っているのも年上で経験豊富だからに過ぎない。これは飛山鋭との戦いだけでなく黒服同士の争いでもある」
「まあ、もっと上の人間が指揮を取れば別だけどな。草壁本人が出てくるとか」
「あのイヌが出てくるわけ無いだろう。あいつは総官以外の人間はゴミクズぐらいにしか思ってない。出てきたら俺はこのナイフをケツに指してもいい」
高木は黒柄ナイフを手首の回りに回転させながら珍しくニヤリと笑った。
ルルルルルル――
その時、黒村の携帯の電話が鳴った。そこには草壁国広と名前が出ている。
「はっ!?」
今の話が聞かれているわけは無いのだが、その名前を見た瞬間、二人は多少焦った。
「は、はい。黒村です。えっ? はい……分かりました。でも一体何故……はい、そうですか」
あまり長くは電話をしなかったが、高木の目から見て黒村が何やら戸惑っているような様子はしっかりと分かった。
「どうした?」
高木は黒村が電話を切るとすぐに聞いた。
「それがもう一人増援が来るそうだ」
「増援? 一体誰だ?」
高木も訳が分からないというような顔で聞く。
黒村は躊躇いながらも僅かに緊張した表情で答えた。
「本物の上の人間だよ」
黒服第三支部任務用準備室。
截はお決まりの警察特殊部隊の服とカジュアルなジャケットを足して二で割ったような黒い服を着込むと、その腰に二本の白い柄と黒い柄のナイフを挿した。
「よし、夢遊町か。今出ればまだ安形さんの身も無事なはずだ。急がないと」
数十分前。安形の依頼主を草壁が捕獲しようとしていることを知った截は、すぐに安形の手助けを考えた。本来は依頼無しに他の黒服の仕事を妨害することは許されない。だが、安形には三年前に心を救ってもらった恩がある。一緒に富山樹海から逃げ延びた仲間意識がある。
それにとある理由から元々黒服と決別するかもしれない覚悟を決めていた截にとって、黒服に反することはそれ程嫌な事ではなかった。
「安形さんから依頼を受けたことにすれば何とかなるだろ」
最悪、そう貫き通せばいいと考えていた。
截は準備室を出ると地下の小型ボート船着場へと向った。
今現在この第三支部は日本海の真っ只中だ。外に出るのはボートを使うしかない。早朝や深夜ならばボートが全て出ていることが多いが、幸い今は昼間だ。
運がいい事にボートは三台も置いてあった。
截はそのまま一台のボートに乗り込もうとした。
「どこいくんだ?」
その瞬間、背後からいきなり肩を掴まれた。
「な!?」
截が驚いて振り向くと、そこには現在もっとも見たくない顔があった。
「クスクス、こんな真昼間から仕事を請けてるとは随分熱心だな。それとも観光にでも行く気か?」
西洋風のセミショートの緩やかな癖毛の黒髪に切れめの目、貼り付けたような薄ら笑いを浮かべた截の直属上司、通称キツネがそこに立っていた。
「お前には関係ないだろ。何でここに居る? 仕事か?」
截は鋭い目つきでキツネを睨みつけた。
「ああ、仕事だよ。ちょっと夢遊町までな」
「夢遊町!?」
「安形の馬鹿が本部の脱走者の依頼を知らずに受けたらしくてさ、その責任を取るために僕が急遽行く事になったんだよ」
「お前が……?」
――最悪だ……! こいつが行けば、安形さんの仕事が成功する可能性はほぼゼロになる。よりによって何でこのタイミングで前の仕事から帰ってくるんだ。
截は心の中で毒ついた。
「だから『お前』は行かなくていい。安形のことは僕に任せろ」
キツネは貼り付けたような笑顔のまま截の肩に置いた手に力を込めた。無言で手を出すなと言っているのだろう。
「残念だけど俺は安形さんから『依頼』を受けてるんだ。幾らお前でも仕事を請けた俺を止める事は出来ないはずだぞ」
「確かに出来ないさ。僕にはな」
キツネはそこで一端言葉を切った。
「――そういえば最近六角行成に付いて調べ回っているらしいじゃないか。黒服のデーターベースにもこっそり侵入したりして。どうしてなんだ?」
そして突然そんな事を言い出した。
――こいつ何で知ってるんだ? 俺を脅す気か?
思わず截は身構える。
「僕はどうでもいいんだけどな。草壁がその事を気にしてたから、これ以上変な動きはしない方がいいと思うぞ。自分のためにも、相棒のためにも……」
截は拳を握り締めた。
「クスクス――」
そんな截を面白そうにしばらく眺めると、突然キツネは截の体を一本背負いのように投げ飛ばそうとした。
「くっ!?」
咄嗟に感覚が反応した截は、そのキツネの両腕を何とか手首を返すように受け流す。だが、キツネはその動きのまま既に次の行動に入っていた。手が反らされたと同時にその腕の肘で截の顎を強打したのだ。
「ぐあっ!?」
感覚では次の行動を理解していたものの、キツネのあまりの自然で見事な動きに、截は完璧にその攻撃を受けてしまった。顎に強い衝撃を受けた所為で脳が揺らされ意識が飛びかける。
「……――っ!」
截は何とか歯を食いしばり意識を保たせると、キツネの股の間に自分の足を滑り込ませ足を引っ掛けると同時に、肘撃ちを鳩尾目掛けて一気に突き出した。
しかしキツネはその攻撃を自分の肘でかち上げ弾き、逆に截の腹部に強烈な膝蹴りを食らわせた。
「がはっ!」
思わず体を折り曲げ唾を吐く截。
その瞬間、留めと言わんばかりにキツネは截の鳩尾に強烈な掌を飛ばした。ドッスっと鈍い音が鳴り響き、截の体が崩れ落ちる。
その姿を見ながら、キツネは先ほどまでと変わらない涼しい表情でこう言った。
「しばらくそうやって寝ていろ。起きた時には全て終わってるさ」
截は消え行く意識の中、その声だけを頭に木霊させ視界を闇に沈めていく。
「さあ、お尋ね者の退治に行くとするか」
気絶した截の体をそのままにし、キツネは悠々とボートに飛び乗るとエンジンを素早く入れ、真っ青な海の中へと飛び出していった。




