<第十五章>孤独な狂王(中篇)
<第十五章>孤独な狂王(中篇)
”般若”
「ヴォォオオオオオッー!」
「えぇぇぇいい!」
今にも本田の頭を踏み潰しそうな鋭の足に向って、安形は回収していた小型ナイフを全て投げつけた。総勢五本の小型ナイフは隼のように空中に飛び出し、深々と鋭の足に食い込む。鋭は足を振り下ろす直前になって突如走った強烈な痛みに悲鳴をあげ、バランスを崩し倒れた。
「今だ、逃げろ!」
鋭に向って走り続けながら安形は倒れている二人に呼びかける。その二人、本田と曽根はドブ水から這い出るように慌てて鋭から離れた。
「お前が依頼した相手は俺だろ! 俺の仕事が終わっていないのに他の黒服に手を出すな!」
屋上の中央まで来ると安形は黒柄ナイフを構え、鋭と真正面から相対した。足元には無数のミミズが蔓延っており、注意を怠れば直ぐにでも感染してしまいそうだ。
「……醜い姿になりやがって……」
ミミズに覆われた紫の巨体を見て、安形は悲しそうに呟いた。
「俺が……お前の苦痛を終わらせてやる」
「ヴォオオオゥウウウ……」
もはや動く者は全て敵だとでも判断しているのか、鋭は自分が依頼し、ここまで導いた安形が相手だというのに、全く敵意を隠すことなく唸った。
「どうする気だ安形。あいつの体はネルガルで覆われているんだぞ?」
柵に手を付き、ようやく立ち上がった本田が不安げに安形を見つめた。
ミミズを全て殺すには大量の火で燃やすしかない。だが、その材料になりそうなタンクは既に使用済みだし、燃やしてもまた体から吐き出されたら何の意味も無いだろう。本田は「万事休す」といった表情を浮かべた。
「ミミズは感染するまで十秒間の猶予がある。その十秒で、鋭を倒すしかない」
「はあっ? お前本気で言ってんのか? ちょっとでも遅れれば狂人になるんだぜ」
「それしか手がないなら、やるしかないだろ」
「……――言っとくが、感染したら迷わず殺すぞ? 助けてる暇なんかねえんだ」
安形は静かに頷いた。それを覚悟の合図だと理解した本田は溜息を吐くと、鋭をちらっと見た。
「まずはさっきと同じだ。曽根にあいつの注意を引きつけさせる。お前は隙を突いて一気に攻め込め。もし鋭の懐に入り込めても、失敗すればミミズを払う時間なんかない。すぐに奴の反撃が来るんだからな。その一度で全て決めろ!」
「分かった」
安形は本田が立ち上がると同時に鋭の背後へ回ろうと移動を始めた。その間に、確認するように背後を振り返る。
――あまり時間が掛かれば愛さんや佐久間たちが持たない。すぐに決着をつけるぞ!
「向こうは大分盛り上がっているな」
屋上の中央で繰り広げられている鋭との戦いを横目で見ながら、キツネは軽く笑った。
その前にはキツネ自身が鍛え、部下として行動してきた二人の人間が立っている。
「お前の目的はなんなんだ?」
右手に白柄ナイフを構え、左手で黒柄ナイフを引き抜きながら、截は探りを入れるようにキツネの目を見た。
「目的? 僕は白居さんに頼まれて護衛に来ただけだけど?」
おどげるようにキツネは両手を左右に開く。
「だったら何で鋭を倒そうとしない? もしお前が本当に『白居学の護衛』を優先するのなら、迷わず鋭を殺そうとするはずだ。……――お前の行動は不審点が多すぎる」
「ふ、初めて会ったときと比べて大分冷静になったじゃないか」
「茶化すな」
截は白柄ナイフの切っ先をキツネの眉間に合わせた。斜め横に立っていた翆も同じように黒柄刀を握った腕に力を込める。
そんな二人をどこか嬉しそうに眺めながら、キツネは自分の黒柄ナイフの切っ先を二人と同じように前に突き出した。
「そうだな。もしお前がいまここで僕を倒せたら……全て教えてやるよ。何もかも全部さ」
截は勢い良く地面を蹴った。己をこの世界に巻き込んだ、親友を死に追いやった、憎むべき最大の敵に向って。
彼に教え込まれた技術を使いながら。
それが彼の思惑通りの行動だと知る由も無く、ただ無我夢中で――。
安形に命を救われた曽根は、鋭から急いで離れると本田を見た。本田は指を動かして囮を続けるようにと伝える。
「……やれやれ、あれの攻撃を避け続けるのは半端なく危険なんだがな」
溜息を吐きながら曽根はその指示通りに鋭に向って走り出した。
鋭はすぐにその動きに反応した。大きく腕を振るう。
「むぉっ!?」
その腕が振られた瞬間、無数のミミズが曽根に向って飛んできた。あれほどの量を浴びたら払い落とすことは出来ない。間違いなく感染してしまう。
「くぉおおっ!」
間一髪でミミズの雨を避ける。曽根は前転しながら鋭の目の前に転がった。
――反応が速すぎる! 遠視感覚の力か!?
鋭は生物兵器であると同時に視界外の状態を感じることの出来る超感覚者だ。そのことを思い出した曽根は重大な問題に気がついた。
「本田! ベイト・トッラプは――こいつに囮戦法は無意味だ!」
「何!?」
そこで鋭が拳を振り下ろす。
直撃するコースだったが、先ほどの安形の攻撃で痛んだ足の影響か、直前で僅かに軌道がずれ、奇跡的に曽根の体には当たらなかった。
「あ、危なっ……!」
どわっと冷や汗が背に流れる。
遠くから様子を見ていた本田は危うく貴重な戦力である曽根を失いかけ、手に汗を握った。そして彼が放った言葉を思い出し、歯を噛み締めた。
「くそ! ミミズの鎧に、囮が効かない? 打つ手がないじゃねえかっ……!」
黒服にしろ、イミュニティーにしろ、ディエス・イレにしろ、感染者やイグマ細胞保有者との戦闘はベイト・トラップを骨組みとする。それが効かないことはつまり攻撃する手段が無いということだ。本田は何の指示も出すこが出来ず、言葉を失ってしまった。
中衛は全員の命を握っていると言ってもいい。中衛が指示を出せない事は、全員の命を危険にさらすことを意味する。当然、あっと言う間に曽根と安形はピンチに陥った。
「くそ! 鋭のやつ、三百六十度全てに目がついているのか!?」
いくら背後に回ろうとしてもすぐに気づかれ攻撃を受ける。安形はもはや後衛というよりは前衛に近い状況へと追い込まれていた。いつの間にか、曽根と一緒に鋭の拳から逃げ惑うことしか出来なくなっている。
「本田! このままじゃ全滅だ! どうにかしてくれ!」
一発一発を死ぬ思いでかわしながら、安形は本田に助けを求めた。
「うるせえっ、今こっちも必死に考えてんだよ!」
本田は安形に負けないほどの焦った表情で叫び返す。
――こっちの動きが全て見えているのなら、見えていても回避出来ない攻撃を食らわせるしかねえ。でも、そんなことが可能なのか――!?
いくら考えても妙案は浮かばない。こうしている間にもますます二人は追い詰められていった。
「おい、早くしろ! このままじゃ柵まで追い込まれる!」
既に安形と曽根は中央から大分離れ、屋上の端付近まで移動している。もはやあと少しで逃げられなくなることは目に見えていた。あれでは殴り殺されるか下に落ちるしかない。本田は死の一歩手前まで迫った二人の状況にさらに焦りを募らせた。
――まずい! まずい! まずい! 俺一人になったら勝てるわけねえ! 逃亡しようとしてもキツネか白居に殺されちまう……! マジでどうすればいいんだよ!?
任務放棄は死あるのみだ。一度任務を受けた以上、それを終わらせるまでやめることは許されない。あらゆる意味でのプレッシャーが本田を襲う。
――くそ、くそ、くそ! 考えろ、考えろ、考えろ――要は鋭が避けれなければいいんだ。避けれない攻撃、避けれない……避けることが出来ない……動けない……ん?
「――そうか!」
何かが頭に閃いた。成功する確率は低いが、これ賭けるしかない。本田はその考えを急いで二人に伝えた。
「柵の手前、ギリギリで鋭の攻撃をかわせ! あいつを空中に放り出すんだ!」
「はっ? 落としてもまたすぐに上がってくるだろ! 何言ってるんだ!?」
本田の意図することが理解出来ず、安形は声を荒げた。
「いいから言うことを聞け! 上手く行けば確実に鋭に攻撃を浴びせられる!」
本田はまがりなりにも黒服で中衛を張っている男だ。安形は不安感を腹に押し留め、素直に従うことにした。
「失敗したら、化けて出てやる……!」
そうぼそりと呟きながら。
「ヴォォォォァァァァアア!」
勢い良く雄叫びを上げ、鋭は前方の二人に向って拳を振り下ろした。同時に腕に纏わりついたミミズが周囲に飛び散り、小さな雨となる。
「くそっ!」
安形と曽根はそれぞれ自分の上着を脱ぐと、拳を避けながらそれを傘のように被り、ミミズの雨を防いだ。ぼとぼとっと上着に不快な音が鳴る。
「こんな手は何度も使えない。さっさと決めるぞ」
その上着を柵の外に投げ捨てながら、曽根は本田が唱えた内容を実行しにかかった。柵のぎりぎりまで下がりながら、鋭の攻撃を避けるために膝を軽く曲げる。安形もそれに習い、同じように後ろにさがった。
「俺、避けるのあんまり得意じゃないんだけどな」
柵に背を当てると同時に苦笑いする。
「泣きごと言っている場合か、来るぞ!」
とうとう二人を追い詰めたと思った鋭は、迷わず腕に力を込め、渾身の一撃を前に突き出した。
その巨大な拳の圧迫感と速さ、力強さに体中の神経を振るわせながら、安形は右に、曽根は左にそれぞれ身を投げ出す。鋭の拳は柵を大きく歪め、粘土のようにぐにゃぐにゃに曲げた。
「……っこの――!」
自分がなんとか生き延びたことを知った二人は、決死の表情で体を起こすと、まだ拳を振り下ろしたままの状態の鋭の背に全力で体当たりをした。
「ヴォオオァアア!?」
バランスを崩した鋭はそのまま前のりに屋上の外へと飛び出す。柵が外に向って歪んでいる分、それは実にスムーズに行われた。
だが鋭は下に叩きつけられることは無かった。体が空中に飛び出す直前、その歪んだ柵を掴み、なんとか建物の側面に己の体を留まらせる。
「駄目か……!」
がっかりしたように安形は呟いたが、本田はこの瞬間を待っていたかのように叫んだ。
「今だ! この状態なら例えいくら見えていようとも攻撃を避けることは出来ない。やれぇっ!」
鋭は両手で柵を掴み、ぶら下がっている状態だ。確かにこの状態では反撃も回避も出来ないだろう。この形が成り立つまで何度か試みる予定だったが、いきなり成功したことに本田は喜色を浮かべた。
「――なるほど――……!」
安形は本田の咄嗟の機転に感心すると、屋上へと戻ろうとしている鋭に向って駆け出した。今の鋭は無防備だ。今なら頭部に攻撃し、一撃で全てを終わらせることが出来る。
下に落ちる手前の位置、屋上の端に足を乗せると、安形は丁度足元からこちらを睨んでくる鋭の顔を見た。紫の、怪物と化した鋭の顔を。
決着をつけるべく、力強く黒柄ナイフを振り下ろす。
だが、――……鋭の顔の直前になってその刃は止まった。
赤と青の中間、暗黒に近い夕焼けのような瞳がじっと自分の目を見つめる。
止められなければ、犠牲者が増えるのならば殺さなければならない。
そう覚悟し、決意し、意気込みここへと踏み込んだはずだった。
だがその瞳を見た瞬間、安形は思い出してしまった。自分を信頼し、頼ってくれた鋭の顔、人間だった頃の姿を。
いくら黒服として、この世界最高峰のエージェントの一員として組しようとも、所詮はまだ三年目の新米。元々持っていた優しさ、そして黒服として冷徹にっ徹しきることの出来ない甘さが、無意識のうちに安形の腕を止めさせていた。
「馬鹿野郎っ――死ぬぞ!!」
耳の奥にそんな本田の怒号が入り込む。
「ヴォァァァァァァァアアアア!」
気がつくと、空が下に、地面が上に移動し、安形はぐるぐると回りながら鋭から離れていた。
何度もお互いの刃が交差する。
火花を散らし、血飛沫を飛ばし、一歩間違えば即己の命を失うかもしれない斬り合いを続ける。
高度な技術を要するナイフの戦いは刹那的だ。本来ならばここまで長引くことはない。斬り合う彼らが生き延びているのは奇跡か、それとも人為か。その理由は神のみぞ知るところだった。
「強くなったな」
キツネは截の鋭い突きを後方に飛ぶことで回避すると、本心からそう言った。珍しく微かだが息を乱している。
二人がかり。確かにその影響は大きいだろう。翆の実力は黒服内でも高く、しかも彼女は長年キツネの部下として行動していたためその動きに見慣れている。彼女がいることは大分有利に働く。だが、例えそういった利点を無視しても、確実に截の実力は上昇していた。
感染者たちとの戦闘、赤鬼との戦闘、黒服での経験、キツネの指導。三年前と比べれば遥かに、別人のように截は変わっている。黒服の中で見れば、まだ截など良くても中の上だ。しかし他のメンバーとは明確に異なる気持ち、親友の敵討ちという強い思いがその進化した実力と相まって、高い生存力を作り出していた。
――思っていたよりも腕が上がっているな。これなら白居も……
二人の攻撃をかわしながらキツネはとある算段をした。自分がこの事件に介入した本来の目的に関わる算段を。
「どこ見てるんだよ」
翆はキツネの注意が自分たちから離れたのを見逃さなかった。一瞬の隙を突いてフェンシングのような動きでその胸に強烈な黒柄刀の突きを叩き込む。
「っ――……!」
キツネは反射的にそれを防いだが、その影響で截の振り上げた黒柄ナイフを避ける術を失ってしまった。
――まずい、これは――
鮮血が飛び散った。
鮮やかな赤い血が流れ出る。截の攻撃をかわしきれないと悟ったキツネはその腕で黒柄ナイフを防いだのだ。
「血、赤いんだな。お前の血は黒いと思ってたよ」
黒い血は悪魔の血。截はキツネのことをそう蔑むと、憎悪の篭った目で腕に力を入れた。彼の腕を切り落とそうと考えて。しかし流石にキツネもそこまで甘くはなかった。ひらり捻りと手首を返し、截のナイフを腕の下へと移動させる。
「クスクス、前に言っただろ。僕はあくまで『人』だ。それに、そういう言い方をすれば黒い血にはお前の方が近いんじゃないか?」
「何……?」
言葉の意味が分からない。超感覚者はあくまで人間。それは科学的に立証されている。
「身体的な意味じゃない。その存在意義のことだ」
余裕を取り戻したキツネはそう呟くと、翆の黒柄刀を押さえていた黒柄ナイフをくるんと自分側に円をかくように回し、拘束を解くと同時に尋常ではない速さで前に切りつけた。
「ちっ!」
仕方が無く、翆はそれを避ける為に一旦後ろに下がる。
キツネは自分の腕で截のナイフを防いだまま、顔を彼に近づけた。
「目に見えるものがその全てだとは思うな。何事にも真意がある」
「さっきから何を言っている……?」
妙に真剣な顔をしていうキツネの考えが理解出来ず、截は戸惑いの表情を浮かべた。
「隙あり」
キツネはその瞬間、急に笑みを浮かべると、腕で強引に截のナイフを横にずらし、押し出すように蹴りを放った。完全に油断していた截は見事に吹き飛ぶ。
「まだまだだな。でもまあ、今回はこれで十分か」
「ぐっ……この……!」
截は痛みに耐え、再び走りかかろうとしたが、横の方から感覚で脅威を感じ、踏みとどまった。
視線をそちらに向けると、安形が地面に倒れ、その前に紫色の怪物が今にも腕を振り下ろそうとしていた。
「安形さん!」
思わず叫んだが、彼の体はピクリとも動かなかった。
「化物に同情しやがって、あの大馬鹿が!」
千載一遇のチャンスを情によって振ってしまった安形に舌打ちし、本田は声を荒げた。
「曽根、鋭の気を反らせ! 俺がそこの馬鹿を助ける」
曽根は直ぐに理解し、真横にいる鋭に向って攻撃をしかけた。しかし鋭は腕を振って曽根を遠ざけるだけでまともに相対しようとはしない。どうやら今は安形を殺した方がいいと本能的に判断したようだ。
「くそっ!」
今安形を失うことはこちらにとってマイナス面が大きすぎる。鋭がいなければどこで死のうと勝手だが、この限られた戦力下では戦える存在は貴重だ。本田は肋の痛みに耐え、仕方が無く自分の足で安形の下へと向った。
「早く起きろ! 俺を殺す気か!」
自己中の極みであるセリフを投げつける。
「……――うっ……!?」
ようやく意識がはっきりしてきたのか、安形はその声で頭を上げた。
「ヴォォオオオオオ!」
同時に鋭が拳を下に向って叩きつける。安形は間一髪のところでそれをかわした。しかし完全には避け切れなかったようで、避けながら打たれた肩を痛そうに押さえた。鋭はその隙を逃さず二撃目を繰り出す。
「ぐあっ!?」
安形の体は弧を描く様に飛び、本田の足元へと転がった。
「おい、大丈夫か! まだ動けるか!?」
色んな意味で心配そうに安形の顔を覗く本田。
「――だ、大丈夫だ。吹き飛ばされた分、ダメージは少ない。さっきのは頭から落ちたのが悪かった。まだ十分動ける」
口から血を垂らしながら安形は強がった。恐らく内臓にいくらかの損傷を受けていることがその様子から判断できる。
「動けりゃそれでいい。……で、どうするよ? お前の所為で今度こそ本当に打つ手が無くなっちまったぜ。綺麗さっぱりな」
「また、柵に追い込めばいいんじゃないのか?」
「いくら知能が低下したとはいえ、そこまであいつもアホじゃねえよ。あの手は一度きりの切り札だった。例え使っても、もう鋭は引っかかったりはしねえだろうな」
本田は安形を軽く睨みながらそう悔しそうに言った。
「おい、次はどうするんだ!?」
そこへ曽根が鋭から逃げつつ息を切らして駆けて来る。
――くそっ!
安形は不甲斐なさから地面を強く叩いた。佐久間と愛の命もかなり弱まっている。なるべく早く鋭を倒さなければいけないはずだった。倒すと覚悟をしていたのにこのザマだ。己の心の未熟さに嫌気がさす。
「ヴォォオオゥウウウ……」
満身創痍の三人をあざ笑うかのように見下すと、鋭は動いた影響で体から離れたミミズの鎧を再生産するために、僅かに体を縮こまらせた。前屈みになっているのは安形たちの攻撃に素早く対処できるようにしているからだ。
「……あの『溜め』が終了したら俺たちは終わりだ。いっそのこと鋭を倒すのを諦めキツネをのすか? ヘリからロープで降りてきた奴らも居るし、この数なら勝てるだろ。まあ、後で黒服に追われることにはなるだろうけどな」
自嘲気味に本田は笑う。
さっき倒れた時に付いたのか、安形は己の体に這っていたミミズを叩き落しながら周囲に視線を走らせた。屋上の地面はもうその殆どが薄くミミズに覆われ、無事な場所といえば柵の外と、キツネや截、翆が立っている入り口付近だけだ。佐久間や愛の怪我を心配する以前に、まともに動ける場所も時間も限られ始めていた。
「ここが境界線だ。ここが攻撃の限界点だ。これ以上もがいても俺たちに勝ちの目は無い。俺はもう諦める。お前らはどうするんだ?」
『戦争論』の著者、クラウゼヴィッツは攻撃の優越はある点を持って逆転すると述べている。攻撃が上手くいけばいくほどこちらの戦果は大きくなるが、それにつれて戦闘力が減少し、消耗が大きくなるという考えだ。本来は戦争に対して使われる言葉だったが、本田をそれを引用して現状を表現した。
「ここで引き下がったらなんのために生きているのか分からなくなる。俺は……諦めない。鋭を倒すさ」
全身の軽い火傷や引っかき傷、そして先ほど鋭から受けた肩の打撲と内臓の損傷。安形はそう強がっているが、誰の目にも限界なのは明らかだ。本田は頭の悪い子供を見るように安形を一瞥すると、曽根に顔の向きを移した。
「お前はどうすんだ? この中では一番怪我が少ないけど」
「……黒服に入った時点で俺は既に死人だ。今更死に対する恐怖などない。やることを最後までやるだけだ」
「真面目だな。いや、この場合はイカれてるって言う方が正しいのか? まあ何にしてもこれでキツネに特攻ルートは消えたわけだ」
二人に逃げる意思が無い以上、キツネを倒して逃げることは出来ない。本田は仕方が無く鋭に挑み死ぬ覚悟を決めた。
諦めた上の戦闘。死を覚悟した、死ぬことが前提の戦い。日本古来の武将は戦のとき、常に死人として戦い死を恐れなかったと言われている。だが、それは勝ちを意識した、勝利のための覚悟だ。死ぬ気で戦うものは必ず死ぬ。それが真理。己の死を認めてしまった時点で、二人が鋭に勝つ可能性は消えてしまった。なぜならば死を受け入れてしまっているのだから。どんな場合も、どんな物事も諦めたらそれでお終い、負け。その時点で全てが決まってしまう。本気で生き残りたいのなら、勝ちたいのなら、決して死を受け入れてはいけない。どれほど傷を負おうとも、追い詰められようとも、最後まで生にしがみ付き、諦めない人間が生き残るのだ。そう、この男のような――
「曽根、さっきお前は偶然鋭の攻撃を避けることが出来たよな? 確か俺たちが鋭と戦い始めて一番最初の頃だ」
傷だらけの体にも関わらず、瞳に光を灯しながら安形は言った。
「ん? ああ、どうやらお前が投げたナイフの傷が痛んだらしい。おかげで拳の照準がずれたんだ。だから助かった。……それがどうかしたのか?」
「……最初に鋭を見たときから思っていったんだが、鋭は俺が傷を付ける前から足を痛めている。多分、俺が来る前にお前らがつけたダメージが原因なんだろう」
ダメージ。その言葉に曽根はガスタンクの爆発を思い起こした。良く見ると鋭の足は安形に付けられた小型ナイフの他に、タンクの破片のような物が無数に食い込んでいる。背中への破片はそれほどダメージを与えられなかったようだが、細い人間時の足にはあの破片の効果は大きかったらしい。だから疲労している自分や、後衛である安形がここまで奇跡的に攻撃を避け続けることができたのだ。
「まさか……お前……」
「ああ、鋭の左足を集中的に攻撃すれば、動きを完全に止められる。まだ諦めるのは早いぞ」
力強く、安形は言い切った。
「遠視感覚の影響で攻撃が当てられないから動きを止めようとしているのに、足に攻撃できるわけがないだろ」
「鋭の感覚は確かに厄介だけど、万能じゃない。多分クリアな映像としては見えないはずだ。実際、俺が投げた五本の小型ナイフは全て命中しているからな」
「そ、それでも動きを止めるとなると、どこかで大きなダメージを与える必要があるはずだ。大体、あいつの攻撃やミミズを避けながらちまちまナイフを投げる体力なんか誰も残っていない。どうやって攻撃する?」
曽根は命を諦めていた分中々安形の案を認めることが出来ないらしく、食いつくようにそう反論した。死を覚悟した状態で救われる可能性を提示されることは、幸と不幸の二通りの感情を呼ぶ。前者はそのまま助かる見込みへの喜び、後者は再び死を覚悟しなければいけない、より重い絶望への恐怖。曽根が今抱いている思いはまさに後者だった。
「……ひとつ案があるぜ」
それまで黙っていた本田が不意に口を開いた。
「これは賭けとしか言いようがないが、実効すれば鋭の足を壊して、直接急所に攻撃することが出来るかもしれない」
「どんな方法だ?」
不審そうに曽根が聞き返した。
「『三重囮』だよ。黒服内の資料にあった短期決戦用戦法の前例だ。前衛、後衛、中衛の全員が囮として相手に突撃し、注意を拡散させると共に辿り着いた人間が攻撃を当てる戦い方。もっともその前例だと失敗して全滅したらしいがな」
「三人全員で? 随分ぶっ飛んだ戦法だな」
本田の言葉を聞いて安形は目を丸くする。
「確かにまともな戦法じゃねえが、まさにこの状況に適した技じゃねえか。少しでも生き残れる可能性があるのなら俺はやるぜ。絶対にな」
チームを全滅させた戦法。成功する可能性よりも失敗する可能性の方が高いギャンブルのようなもの。安形と曽根は躊躇し、黙り込んだ。
「ヴゥウゥゥ……」
夜空に浮かんだ星々の下で、狼の唸り声のような重い響きが起こる。身を屈めていた鋭はゆっくりとその体を広げ始めた。その肌には再びウネウネと蠢く生き物たちが蔓延っている。
「早く決断しろ! 奴の『溜め』が終わったぞ」
「くそっ……――分かった、やってやる!」
黒服としての経験も、感染者との戦闘経験も圧倒的に本田の方が上だ。安形は覚悟を決め、その案に乗る事にした。
「曽根!」
本田は叱るように叫んだ。それを聞いた曽根は自分の抱いていた恐怖を振り払うと、表情を繕い冷静そうな顔で呟いた。
「……お前たちがやるなら俺は協力するだけだ」
「よし、こうなったら体の頑丈さと運だけが頼みだ! 突っ込むぞ!」
大きく息を吐き出しながら、本田は腹の底から叫んだ。その音で周囲の音が一瞬消し飛ぶ。
鋭が完全に膝を立てると同時に、三人は走り出した。もはや策も罠もへったくれも無い、完全なる特攻だ。傍から見れば馬鹿な行為にしか見えないかもしれない。だが当の三人にとてはこれが最善であり、最良の方法だった。
「来るぞ、避けろ!」
腰を捻り肘を折り曲げた鋭を見て、本田は二人に号を出す。全員が囮のような状態といっても、中衛としての役目からかやはり反射的に命令を出してしまうようだ。
二人もそれを合図に足の行き先を変えた。右から順に安形、本田、曽根と、ギリシャ神話の海の神、ポセイドン――ネプトゥヌスが持つ三叉の槍、トライデントのような形に三人の位置が形成される。
短期決着。もはやそれしか頭にない。三人は三人とも鬼のような表情を浮かべ、鋭の周囲に散らばった。
「ヴォォァァァアアア!」
得体の知れない何かを感じ取ったのか、鋭はこれまでにないほど警戒し、彼らを自分から遠ざけようとする。
「本当に見えないんだろうな!」
頭の横を掠める豪腕に頬を焼きながら、曽根は所持していた全ての小型ナイフを順に鋭の左足へと投げつけた。そのどれもがものの見事に突き刺さる。
「ヴォォオオオオオ!?」
「効いているぞ、頑張れ!」
小型ナイフを持っていない安形は直接黒柄ナイフを叩き込めるチャンスを伺いながら二人に激を飛ばす。声に反応し、鋭は側面へと回りこんでいた安形の頭に裏拳を打ち込もうとしたが、その瞬間左足ががくんと折れ曲がり大きく攻撃を外した。
――もう少しだ!
懐に飛び込みたい気持ちを抑え、安形は鋭の拳の届かないギリギリの距離に留まる。不注意に怪物の腹に飛び込めばどんな反撃を負うかは三年前の出来事で身にしみて理解している。
「ぐおぁっ!?」
鋭の真正面にいた本田が蹴りを食らい、吹き飛んだ。やはり肋の傷の影響で早く動けなかったらしい。今の衝撃で骨の一部が内臓に突き刺さったのか、屋上端の柵横で泡を吹いて痙攣を始めた。
「黒服を……な、めるな……!」
だがそんな悲惨な状況にも関わらず、本田は声を絞り出すと己の小型ナイフのホルダーを今だ鋭の周囲で走り回っている二人の方へ投げた。丁度曽根がそれを上手く受け取る。
「さっさと決めるぞ! 早くしないと本田が狂人化する」
本田が落ちた場所はミミズの真っ只中だ。腹部に大きな傷を負っている彼が感染を免れれるはずはない。敵を増やさないためにも、曽根は気合を入れて叫んだ。
「分かってるさ……――!」
安形はちらりと入り口付近を見る。
――佐久間と愛さんも完全に動かなくなっている。もう一刻の猶予もない。これで必ず、絶対に終わらせてやる!
獲物が二人に減ったことで狙いやすくなったのか、鋭は先ほどよりも的確に二人に攻撃を繰り出すようになった。二人の体に掠る拳の回数が激増する。
「この野郎! 暴れるなぁあ!」
こちらの意思とは裏腹に中々ナイフを投げる暇が作れない。曽根は下唇を噛み締め必死に攻撃をかわし続けた。
「あっ……!?」
しばらくその状態が続いたのちに、安形は背後で立ち上がった一つの影を見つけた。本田だ。唾液と泡を口からだらしなく吐きながら、黒柄ナイフを握りしめこっちに向っている。
――あいつがここに乱入したら俺たちのリズムは崩れる。曽根もそれは分かっているだろう。間違いなく本田を殺すはずだ!
安形にとって本田は悪人でも憎むべき敵でもなんでもない。ただの仕事の同僚。だから彼の死を受け入れて鋭と戦うことなど出来るわけがなかった。距離的に考えて狂人化した本田がここに辿り着くまで五秒。まだ完全に鋭の足が壊れてはいないのだが、本田の身を案じて安形は無理に突撃を始めた。
「うおおおおー!」
鋭に負けないほどの雄叫びを上げ、その胸に向って踏み出す。鋭は待ってましたとばかりに拳を振り下ろした。
――馬鹿が、今更俺が本田を殺すわけないだろ!
心の中でそう叫び、曽根は安形の頭蓋骨に直撃しそうな鋭の腕の関節、丁度肘に内側に向って二本の小型ナイフを投射した。流石に腕を引っ込めるまでとはいかないものの、鋭は僅かに動きを鈍らせる。安形はその隙を突いてなんとか拳を避けきった。
曽根はそのまま続けざまに残り三本の小型ナイフを投げたが、今度は全て叩き落されてしまった。もう残された手は遠視感覚の合間を縫って直接鋭の左足にナイフを突き立てるしかない。これで完全にこちらの策は潰えた。
――くそっ、これで終わりか――!
流石に安形も覚悟し、迫りくる大きな拳骨に身を任せようとした。鋭の足は死んでいない。小型ナイフも使い切った。遠視感覚の中近付くのは不可能。こうなれば誰であっても諦めるしかないだろう。生きるための最後の希望が消えうせた瞬間だった。
「まだだ、まだ終わっていない!」
刹那、怒号を上げながら曽根が鋭に向って体当たりする。当然それはすぐに止められたが、鋭の腕に吹き飛ばされる直前、その僅かなタイミングで曽根は己の黒柄ナイフを鋭の左足に突き刺した。どうやら元々攻撃を食らう覚悟でそれだけを狙ったらしい。確かにいくら鋭でもまさか獲物が避けることを度外視して、その身と引き換えに攻撃してくるとは思わないだろう。見事に鋭はバランスを崩し、地に膝を付いた。
肋骨を数本折られながら盛大に宙を舞った曽根は、地面に体を打ちつけ、額を擦り付けると同時に真横をよたよたと駆けて行く狂人本田の姿を見つけた。
「ああぁうー……」
「お前はそっちに行くなって!」
腹の激痛を我慢し、後ろから腰に抱きつく事で本田の動きを封じる。倒さないのは体のダメージの影響と、情を抱いてしまった本田の体を気遣ってのことだ。
「――安形ぁぁああっ!」
その状態のまま腹の底から叫び声をあげる。
安形は遂に自由に動けなくなった鋭を見つめ、曽根の期待に答えるべく一気にその距離を詰めた。
「ヴォォオオァァアアアッー!!」
「えええぇぇぃいいいい!!」
お互いの声が空気を引き裂く。
黒服の計画を、白居学の野望を止めるために全てを捨て、命をかけた鋭。
例え悪魔の手先になろうとも自分の信じる正義、信念のためにそれを阻止しようとする安形。
どちらが正しいのか、どちらが間違っているのか、その答えは分からない。ただ言えることは一つ。
勝った方が全て。それだけだ。
歴史にしても、戦争にしても、何にしても、この世の流れを決めるものは結局は『力』。暴力、知力、権力、財力、人力、人の行動を支配するものには全て『力』という言葉が付く。愛や平和などと理想を掲げることは誰にでも出来る。だが人間は人間である以上、動物である以上、最後に頼るものは必ず力なのだ。弱肉強食。それが全てでありこの世の真理。力がなければ誰も守ることは出来ない。戦争抑止のために大国が核兵器を所持し合うことがそのいい例だ。
今、この戦いにおいても結局は力の強いものが生き残る。
それは暴力なのか、知力なのか、はたまた別の力なのか、なんにしても強いものが勝つことには違いない。鋭と安形もこれまで人間が犯してきた幾多の戦いと同様、己の持つ力を使い、互いにその命を奪おうとそれぞれの矛を向け合った。
足を一歩踏み込むごとに死の気配が増す。圧倒的な殺意と憎悪。それが篭った鋭の視線をしっかりと受け止め、安形は体ごと黒柄ナイフを突き出した。
ほぼ同時に鋭もまた鋭利な己の爪を強烈な速度で打ち出す。
安形はただの人間。超感覚者ではない。これほどの近距離で相手の攻撃をかわすことは出来ない。当然、同時に攻撃を繰り出せば鋭の方が速度でも力でも勝る。
安形自身もそれを理解していた。理解しているにも関わらずあえて突っ込んだ。例え自分の命を失おうとも、こちらの攻撃が心臓に届けばそれでいいのだ。鋭の暴虐さえとめることが出来れば、佐久間と愛は助かるから。
黒色の爪が眼に映る直前、安形は鋭の依頼を成し遂げられなかったことを悔い、心の中で謝った。
――すまない――鋭――
「しゃがめぇえ――!」
鋭い声が後頭部を突き抜ける。
咄嗟に安形は膝を屈めた。直後に頭の真上を鋭の巨大な拳が通過する。
目だけを動かして声の主を見ると、こちらを見つめる截の姿が見えた。
――そうだ、果たさなきゃいけない約束はもう一つあった――
「……――っうぉぉおぁあああああっー!!」
そのまま眼前の巨大な胸に飛び込む。
――鋭ー――!
黒い刃が、生と死の象徴である黒服の、死神の鎌が、その瞬間――紫染の怪物を穿った。