<第十四章>孤独な狂王(前編)
<第十四章>孤独な狂王(前編)
「僕にケンカを売るのか?」
月明かりに精悍な顔を照らしながら、キツネが呟いた。その瞳は真っ直ぐに紫の怪物を捕らえている。
「ヴォォオオオオオオ!!」
鋭は屋上のコンクリート製の地面を激しく割り、一気に飛び上がった。そして一直線にキツネの頭を砕こうと拳を振り上げる。
「まるで野獣だな」
キツネは鋭が飛び上がった瞬間にその動きを予測し、拳が到達する前に懐を潜るように鋭の向こう側へと一瞬で移動した。
鋭の拳と地面が鉢合わせした衝撃で白居邸が大きく揺れる。
「凄い力だな。まともに当たれば頭が消し飛びそうだ」
軽やかに体を反転させながら、スリルを楽しんでいるかのようにキツネが笑った。余裕なのか黒柄ナイフを抜いてすらいない。
――いいぞ、キツネが相手なら鋭もただではすまない。出来るだけ潰しあってくれ。
中央で繰り広げられる鋭とキツネの争いを傍観しながら、本田はこっそりと後ろに下がろうとした。
「どこに行くんだ、本田。漁夫の利作戦とは関心しないぞ」
目ざとく、キツネがその動きに気がつく。
「言ったはずだ。僕は今回はただの傍観者。鋭を手にかけることは無い。任務を達成したいのならお前らが自力でどうにかしろ」
「お、俺たちが鋭に負けたら次はあんただろ? 三人で居られるうちに協力して鋭を倒した方がいいんじゃないか?」
いくらキツネと言えども、生身の人間が兵器である鋭に勝つ事はかなりの危険を伴うはず。本田はキツネが何とか自分たちに協力してくれることを願ってそう言った。
しかしその思いも虚しく、キツネは即答する。
「僕にとって、お前らの存在なんかいてもいなくても何ら変わらないさ」
それは確信と自信に満ちた声だった。それ以上、本田は何も言う事が出来ず黙ってしまう。
多くの黒服メンバーはキツネのことを化け物だと思っている。知識、判断力、行動力、実力、その他エトセトラ……。
それはあながち間違いではない。
なぜならばキツネは生まれた瞬間から、最初から黒服メンバーとして育てられた人間だからだ。
その存在そのものが、キツネという男の全てが、武器であり、兵器であり、体の、心の其処から闇に浸かった人間。
特殊な超感覚も、人外の身体機能も無いのだが、その精神は遥かに一般人を超えていた。
大人と子供を分ける壁が『経験』や『責任感』だというのなら、キツネと他の黒服メンバーとの最大の差はまさにそれだ。
彼は僅か九歳の頃より、既に感染者の蔓延る場所で任務についていた。強制的に自分の命に対する責任、生き残る術、生存力、経験をその身のまま自然現状として与えられていたのだ。
警察や軍隊で実際に凶悪犯と戦う人間は、形式化した武術をならっていてもそれを使用することは殆どない。なぜならば実践と試合ではまるで勝手が違うから。だから通常、軍人はCQBやCQCなどの実践向けの近接戦闘法を習う。
キツネは他の黒服メンバーのように訓練を受ける事は殆ど無かった。全て実践から技術や生き残る術を学ばせられたからだ。それは下手な格闘技などでは得ることの出来ない、完全な経験に基づいた圧倒的な生きる術、殺人技術となってキツネの生存力を形作った。
何故、キツネが他の黒服メンバーよりも強く、別格と評されるのか。その理由がこれだ。キツネはどうやれば自分が勝てるのか、どうやれば一番簡単に相手を殺すことが出来るのか、体の底、心の底から、殆ど本能に近い形で分かる、感じることが出来る。
それはもはや、バシン計画で生まれた超感覚とは全く別種の、一種の『超感覚』と呼べるほどのものだ。
だから彼はこの若さで黒服の幹部となった。
六角行成から、白居学から、圧倒的な信頼と任務達成の高さを得た。
本能的に、最短で任務を終わらせる、敵を殺せる方法を導き出すことが出来る男だから。
それが、その運命がどれほど彼を苦しめているのかも知られずに。
白居邸地下シェルター、総合制御室。
真っ白な円形の空間であるこの部屋の一角に無数のモニターが敷き詰められていた。
今、その全てに紫色の大男と、漆黒の衣を着た男がお互いの目をにらみ合っている映像がリアルタイムで流れている。モニターの前には複雑な制御盤やパソコンが並び、白衣や作業着を着た男や女がなにやら色々と指を動かし、かなり忙しそうにしていた。
ただ一人の男を除いて。
「キツネめ、相変わらず食えない男だ」
白居学はグラスに残った血のような赤い高級ワインを一気に飲み干すと、心の底から楽しそうに笑った。
クスクスと、女の子のような静かな笑い方で。
それは鋭の人生をあざ笑っているようで、キツネの全てを見透かしているようで、とにかく不気味さを感じさせる笑い方だった。
「ヴォオオオァアアアアア!」
完全に自我を失った鋭は、ケモノのような大声で吼えた。空気が振動し、その場に居る全員の耳が痛みを訴える。
「ここに居たらまた狙われるな。僕は一旦外野に移動させてもらう」
先ほど宣言した通り、キツネは入り口左にある屋上の柵を飛び越え、三つある屋根の一つに降り立った。これで鋭から一番離れた位置に移動したことになる。
「ち、曽根。こうなったらやるしかない! でかくなった分、スピードは落ちたはずだ。何とかして鋭を倒すぞ!」
本田は背水の陣に追い込まれた武将のように、死の物狂いの表情を浮かべ、のしのしとこちらに向ってくる鋭を睨みつけた。
「この二人はどうするんだ?」
曽根が入り口の前で座り込んでいる愛と佐久間を指差す。本田に聞いたつもりだったのだが、キツネが口を挟んだ。
「その二人は僕が後で殺しておく。お前らは気にしないで鋭と戦っていろ」
――くそっ、何様のつもりだ?
本田は心の中で愚痴を言った。声に出さないのは当然どんな目に会うかが分かっているからだ。
「ヴゥウウウ……」
唸りながら身を屈める鋭。何故か視線が斜め下、丁度屋上への階段の方へと向いている。
「何だ?」
本田と曽根がその視線の先を確かめようとしたとき、屋上の扉が激しく開け放たれ一人の男が現れた。――安形だ。
「鋭!」
飛び出すなり瞳に飛び込んできた紫色の怪物を見て、安形は力強い声でその相手の名前を呼んだ。
「安形さん!」
佐久間は安形を見ると、鼻水を撒き散らしながら心の底から嬉しそうな顔をした。
「佐久間! 無事だったか!」
「ああ、で、でも姉御が……! 早く病院に連れて行かないと――」
安形は入り口の壁に寄りかかり、佐久間に体を預けている愛を見た。その顔は青白く変色し、荒い呼吸で胸が大きく上下している。
――この出血……愛さんは元より、佐久間もかなり酷いな。確かに、早く治療しないと不味いようだ……!
二人の状態に動悸が激しくなる。
「……安形、俺たちに協力しろ。鋭を倒せばこの町のミミズも全て機能停止する。二人を助けるには一番の近道だ。鋭さえ居なくなれば、いつでもここに救護ヘリを呼べる」
曽根が鬼気迫った顔を安形に向けそう言った。
現状、二人で化物化した鋭に勝つ可能性はかなり低い。しかし安形が加われば勝てるというわけではないが、戦法を使うことは出来る。実際は愛と佐久間の命を握っているのはキツネであるにも関わらず、曽根はそんな叶う当ても無い取引を持ちかけた。
「分かった。元々お前らと戦う理由もない」
真面目な安形は簡単にその取引を受けてしまう。
「よし、確かお前の役目は後衛だったな。俺が指示を出す。曽根が上手く鋭を引きつけたら隙を突いて攻撃しろ。あの巨体でも何度も刺されればそれなりにダメージは負うはずだ」
三人で戦う事が確定したため、中衛の経験がある本田がそう指示を出した。
「ああ」
安形は鋭を見つめて気合を入れながら返事をする。
――鋭……感情を制御出来ずにイグマ細胞に支配されてしまったのか。待ってろ、俺が助けてやる……!
三本の黒い刃が抜かれ、その切っ先が鋭の紫の瞳に映る。
夢遊町の数百、数千人の犠牲者の解放。そして白居学の計画。その運命を左右する戦いが今、始まった。
「ヴォォオオオオオオ!」
暴力の塊のような体を動かし、鋭は先ほどキツネに突撃した時と同様に三人に突っ込もうとした。だが、前衛を努める曽根がいち早くその動きを察し、三人の中で一番前に出ることで上手く鋭の注意を己に集中させる。そして目と鼻の先まで鋭を引きつめたところで横にダイブするように転がり、相手のタックルを避けた。
「よし!」
安形は今がチャンスと走り出そうとした。だが本田がその肩を掴み、動きを止めた。
「まだだ! 確実に攻撃を当てられる瞬間まで待て!」
今攻撃すると反撃される危険が大きい。ベイト・トラップ(囮を使った一連の戦法)を成功させる秘訣は確実に獲物の注意を自分たちから離すことだ。まだ鋭の意識は曽根のみに絞られてはいない。そのことを理解していた本田はいくら安形が反抗しても、決して手を離さなかった。
「さすが、分かっているな」
立ち上がりながら曽根は本田の冷静な判断にニヤリと微笑む。熟練ながらの意思疎通だろうか。
「どうした鋭! 黒服最高の兵器の力っていうのはこんなものか? さっきといい、今といい、たかが一構成員すら殺せないとはな。案外、大したことはない」
曽根は鋭の注意を完全に己のみに集中させるためにそう叫んだ。暴走している鋭がこちらの言葉が分かるかどうかは疑問だったが、声を出す事で注意を引きつけることぐらいには効果はあるはずだと考えたのだ。案の定、鋭は安形と本田に背を向け、その憎しみに満ちた紫の瞳を曽根一人に注いだ。
「頼むぞ曽根。もうここには罠に使えそうな道具も配置物もない。もうこの連携で勝負を決めるしかないんだ」
ガスタンク、アンテナ、屋上にあったものは先ほど鋭を倒すために全て使用してしまった。残っているのは己の肉体と黒柄ナイフのみ。鋭を倒すにはもはやこの戦法にかけるしかなかった。
「……何だ?」
曽根はあることに気がついた。いつの間にか自分の足元に無数のヒモのような物が落ちている。
――これは――?
「ミミズだ!! 直ぐにそこを離れろ!」
いち早くその正体に気がついた安形が慌てて叫ぶ。
「な、ミミズだと!?」
もし感染したら鋭を倒すどころか敵を増やすことになってしまう。曽根は自分の足に這い上がってきた数匹のミミズを蹴散らすと、急いで後ろにさがった。
「『ネルガルの鎧』か! 不味い……!」
鋭の体から湧き出ている無数のミミズを見て、悔しそうに歯軋りする本田。デパートであれを纏われたときは手も足も出せず、仲間の高木を殺されてしまった。今、またあの悪夢が甦ろうとしている。
「曽根、何がなんでもあいつに触れるな! とにかく逃げ続けろ!」
あの時とは違い、今は熟練の高木も黒村もいない。気を抜けばあっと言う間に全滅してしまうだろう。その恐怖が本田にそう叫ばせた。
「ヴォオオオァアアアア……」
鋭はさらに体から吐き出すミミズの量を増やしていく。
「佐久間、愛さん! 今すぐそこを離れろ、感染するぞ!!」
ミミズの一部が屋上の入り口へと近付いたため、驚いて安形は二人に警告した。しかし、既に満身創痍の二人は動く事が出来ず、その場にずっと留まっている。
――くそっ!
安形は二人の下へ走り出そうとした。
「おい、今ここを離れたらもし曽根が最高の機会を作っても無駄にしちまう。あんな二人のことは忘れろ! 綺麗さっぱりな」
「直ぐに戻る! 行かせてくれ!」
「駄目だ、そんな危険はおかせない!」
本田は安形の前に立ちふさがったままテコでも動こうとはしない。安形は一瞬本田を殴ろうかと考えたが、そんな簡単に倒せる相手でもない。悶々としているうちに、こう着状態が続いた。
「――キツネ! 頼む、二人を助けてくれ!」
拒否させることは分かっていたが、安形はそう言わざるおえなかった。そうしなければ気持ちが持たないから。
「……いいよ、助けてやる。どうやら安形さんはこの二人が気になって鋭に集中出来ないようだからな」
「えっ?」
怪しい笑みを浮かべながらキツネは柵を跨ぎ、屋根の上から屋上へと移動した。その手には黒柄ナイフが握られたままだ。
――まさか、あいつ!?
キツネの言葉の意味に気がついた安形は顔を青くする。
「待て、キツネ――」
「今だ!!」
安形が一か八か本田を振り切りキツネを止めようとしたそのとき、曽根が大きな声で合図を送った。見ると鋭はまさに曽根に拳を振り下ろそうとしており、完全に注意がこちらから反れている。今いっきに背後からナイフを刺せば、大きなダメージを与えることが出来るはずだ。
――だが、そんなことをすれば佐久間と愛さんが……!
キツネはこの瞬間にも確実に二人へと近付いている。二人の生存は黒服にとって邪魔でしかない。安形はキツネが間違いなく二人を殺す気だと思った。
「すまない!」
「な、お前!?」
安形は曽根の言葉に気を取られていた本田を押しのけ、キツネの元へと走り出した。本田たちに対する罪悪感を感じながらも必死に入り口を目指す。
「キツネぇぇえ!」
「……ふん」
キツネは迫ってくる安形を見ると、冷笑を浮かべながらナイフを突き出そうとした。安形はそれを避けようと身を屈めたが、いつまで経ってもナイフは頭上を通過しない。そのかわりに安形の脛に鈍い痛みが走った。キツネに蹴られたのだ。
「ぐあっ!?」
がくんっと、安形は倒れ込む。
「はあ、黒服失格だな。任務対象よりも情を優先するとは」
「……っ……!」
安形は唇を震わせながら拳を握り締める。
キツネは安形を通り越して屋上の中心に視線を向けた。そこでは安形の代わりに本田が後衛として鋭に攻撃を試みたようだったが、やはり普段と違う役目にうまく立ち回ることが出来なかったようで、曽根と一緒に鋭に吹き飛ばされ床に倒れていた。
「僕は二人が感染するまえに楽にしてあげようとしたのに……まったくお前の考えることは分からないな」
クスクスと笑いながらキツネは安形を見下す。
「ヴォオオオオオオオォオオ!!」
中央で鋭がこれ見よがしに叫んだ。勝利の雄叫びか、これから本田と曽根に留めを刺すために意気込んでいるのか。とにかくこのままでは二人が鋭に殺されることは確実だ。
「あの二人の死も、この二人の死も、お前が引き起こしたことだ。お前が正しい判断をしていたのなら、こんなことにはならなかった。安形さん、判断を間違えればどんな気持ちで動こうと残酷な結果しか呼ばないんだよ」
キツネは小馬鹿にするように安形を見る。安形はただ黙ってその目を見返すことしか出来なかった。
ババババババババババッ……――
丁度その時、屋上の数十メートル上からプロペラの音が聞こえ、一機の黒いヘリが現れた。黒アメリカの軍用ヘリ、ブラックホークを真似て黒服で開発されたものだ。
安形はそのヘリを不思議そうな目で見る。
「……草壁か? どうやら、白居さんが痺れを切らしたみたいだな。いい加減地下に引きこもるのも限界だったんだろう。あの人は閉所恐怖症だから」
キツネは感情の篭らない声でそう言うと、視線を安形に戻した。
「この二人を生かしても邪魔にしかならない。諦めろ」
「や、止めろ!?」
キツネは左足を前に踏み出し、ナイフを持った右腕を上に掲げ、僅かにオーバーな動きを見せながら、佐久間の心臓へとその刃を振り下ろした。
高い音が響いた。
金属と金属がぶつかり合い、火花を散らす音。
振り下ろされたキツネの黒柄ナイフは、突然空から降ってきた男のナイフに止められた。白い、雪のように白い柄をしたナイフに。
ババババババ……
ヘリの音がうるさく屋上に響く。
その音を背中で背負い、腕に握ったロープを投げ捨てながら、男は口を開いた。
「間に合ったぞ、バカ野郎」
どれだけ待っただろうか、どれほど願っただろうか。安形はその男の姿を見た瞬間、纏わりついていた枷が体から外れたような気がした。自然と顔に笑みが浮かぶ。気がつくと呼んでいた。一緒に苦難を乗り越えてきた男の名を。
「截ー!」
「何が起きる頃には全て終わってるだ。俺を馬鹿にするのもいい加減にしろ」
截はキツネの黒柄ナイフを弾くと、佐久間と愛を守るようにその前に立ちふさがった。
キツネは截の登場に一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに表情を戻しナイフを突き出した。截は極限まで集中してそれを己のナイフで打ち落とす。
「甘いな」
キツネは截の注意がナイフに移っている隙に膝蹴りをその腹へと浴びせた。その蹴りで截の体はくの字へと曲がる。
「間に合ってもお前が僕に勝てないことには何も変わらない。また寝ろ」
そして続けざまに黒柄ナイフの柄を思い切り截の後頭部へと打ち下ろそうとした。
「寝るのはアンタだ」
「っ……!?」
その瞬間、キツネの頭の真上に鋭い刃が振り下ろされた。キツネは辛うじてそれをかわしたが、ギリギリだったためか額に僅かに切り傷が出来ていた。
「…………まったく、僕の部下はみな反抗的だな」
截の横に降り立ったスタイルの良い、黒髪の女性を見ながらクスクスと笑うキツネ。その女性、翆は手に持った折りたたみ式の、日本刀のような長い黒柄刀をキツネに突きつけるように向けた。
「翆、お前まで……」
安形は逞しい助っ人の登場に目を見開いた。
「安形さん。この『暴君』は俺たちが食い止める。安形さんはあの紫の怪物を」
翆と並んだ截が前を向いたまま言う。
「――すまない……!」
安形は喜びの気持ちを抑え、立ち上がった。
「直ぐに終わらせる」
そしてそう、覚悟を決めたように二人に声をかけ、鋭の待つ中央へと走り出した。
この事件の、全ての決着をつけるために――。