表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/17

<第十三章>狂心変異

<第十三章>狂心変異



 安形と振り子人間が戦闘していた時と同時刻。

 おびただしいファイルや本がズラリと並んだ資料室の中で、武田が黒村から引き継いだ黒柄ナイフを愛に向って真っ直ぐに突き出していた。

 愛は自分の瞳に映る禍々しい刃を恐怖に引きつった表情で見ると、悲鳴を上げながらそれを防ごうとする。だが武田の突きは素人とは思えないほど早く、愛の腕がナイフの前に到達する前に心臓の目の前まで来ていた。

 ――駄目っ!

 刺される! そう愛が思ったときだった。

「姉御ぉぉお!」

愛の胸とナイフの間に、横から一本の腕が差し込まれた。佐久間の腕だ。

 黒柄ナイフはそのまま佐久間の肉を穿ち、骨の一歩手前というところで侵入を止めた。

「邪魔を……!」

 舌打ち。

 武田は不機嫌気味な目を佐久間に向けると、ナイフを抜いて刃に付着した血を振り払った。

「うがぁあっ!? この大馬鹿野郎!」

「馬鹿はお前だ。ここでお前がいくらこの女を庇っても、どうせ二人とも死ぬんだぞ? 何のつもりだよ」

「死なねえよ! お前なんかに殺されて堪るか! 例えどんな傷を負っても俺たちは生きてこの町から出てやる」

 腕の焼きつくような痛みを憤怒の表情で耐え、佐久間は心の底から怒鳴る。

「……はぁ、お前ホント無意味に声がデカイな。そんなに大声を出すなよ。扉の前から感染者たちがいつまでたっても消えないだろ」

 片手で耳を押さえながら溜息を吐く武田。

「武田、私たちを殺した後、あなたはどうする気なの? この部屋の外にはどっちの扉を通っても振り子人間が居るでしょ。結局、あなたも助からないじゃない」

「そう思うか?」

「……どういう意味?」

「あの振り子人間たちはここで作られた生物兵器。ここの職員ならあれをばら撒いた時点で何らかの防衛作を自分たちに行うことは当然のこと。俺は黒服の死体から特殊な香水を貰ってね。それのおかげで百パーセントじゃないが、あれの注意を自分から反らすことが出来るんだよ。さっきだって俺を追ってたのは狂人だけだっただろ?」

「こ、香水? そんなものが……」

「だから安心して死ね。俺も好きで人殺しをしたいわけじゃない。全てが終わったら、お前らの墓くらいは作ってやる」

 じりっと足を前に進める。

「姉御、ビビんなよ。だったらあいつからその香水を奪えば、俺たちだってここから逃げられるってことだろ?」

 殺気を振りまいてこちらを睨む武田を前に肩を震わせた愛を、佐久間が元気付けた。相手が化物でなく人間ならばいつもの弱腰にはならないらしい。

「お前のその自信を受けて立つのもいいけど、生憎俺は結果優先主義なんでね。そっちがその気ならもっと確実にお前らを殺せる方法を取らせてもらう」

「はぁ? 何だって?」

「俺はケンカも頭脳も大したことはない。だけど一つだけ得意なことがあるんだ。一体、何だと思う?」

「知るかよ、他人に媚を売ることか?」

「空気を読むことだよ。周囲の、周りの、人間やその場の空気を読み、一番己に被害が出ない、自分の手を煩わせないで済む最善の方法を見つけることが大得意なのさ」

 周りの物をうまく武器にすることも、感染者と真っ向から打ち勝つ力も、すばしっこく逃げ続ける事も出来ない。しかし他者の考えを読み、人々の心の流れを感じ、それを裏から導きコントロールする。それが、自分の、武田忠信の最大の能力であり、この町で生き残れた力、生存力だ。

「はっ? だから何だってんだよ! 今はそんなもの何の関係もないだろ?」

「関係あるさ。このまま俺がナイフを持って突っ込んでも、返り討ちに会う可能性も無くはないからな。だから、こうさせてもらう」

 武田は冷笑を浮かべながら二人を見ると、後ろ手でそっと廊下側の扉の鍵を掴んだ。

「あっ、お前まさかっ!?」

「閉じ篭ってないで外に出て行きたかったんだろ? だったら自由に出て行けよ。この地獄の中、たった二人でな」

「や、やめて!」

 愛が絶望に歪んだ声を上げた。しかし、無常にも武田は鍵をくるりと一回点させ扉を解放させた。

 狂人、振り子人間、人間を殺し、その細胞をすすることを目的とした人外の化物、怪物、殺人鬼、鬼、悪魔。それらが蔓延るこの邸宅の中唯一の安全地帯と言ってもよかった資料室の扉が、開け放たれる。

「生きて外まで辿り着けたらの話だけどな」

 何の感情も篭らない声で、武田が冷ややかに呟いた。



 





 

 白居邸屋上。

 二人の黒服メンバーを相手に稲妻のごとく立ち回る男がいた。

 彼は化物。

 彼は怪物。

 彼は兵器。

 彼は地の底で生まれた細胞を体に宿す者であり、障害物を越えて対象を感じることの出来る超感覚者であり、ナグルファル最高の大量殺人兵器でもある。

 彼の両親は二人とも既に死んでいた。ディエス・イレメンバーの父とイミュニティーメンバーの母。母は正体を知った父に殺され、父は己の行為に耐え切れず自らその命を落とした。

 たった一人だった彼は白居学に目を付けられた。

 彼は超感覚を持つから選ばれた。

 超感覚とイグマ細胞の併用が可能なのか調べる為に。

 人間全ての常識を覆す計画の為に。

 体を開かれ、いじられ、構造を変えられ、地獄のような痛みと苦しみを味わいながら。

 彼は憎んだ。

 白居学を。

 黒服を。

 人間を。

 自分以外の全ての存在を。

 だが、それでも彼は完全に闇に落ちはしなかった。

 覚えていたから。

 母の愛を。

 父の思いを。

 人間だった時の暖かさを。

 彼はある日、自分がとある計画を行うためのモルモットだと知った。

 生きた人間をそのものの意思に関係なく自由に操り、行動を縛る。自分の体が持っている力はその計画を完成させるために作られたのだと。

 それを知った途端、彼はどうしても止めなければと思った。

 個人の意思も思考も、夢も喜びも苦しみも愛も理想も欲望も怒りすらも感じることの出来ない全てが制御、統制された、完成された、それ自体で完結した世界を生み出す計画。


 『ALLOWNオルオウン計画』


 あの最悪の計画を実行させてはならないと。

 そのために考えに考えて白居邸を脱した。逃げた。

 自分の実験に関わった全ての存在を消すため。滅ぼすために。

 既に白居邸内の殆どの実験機器や施設は破壊した。狂人の感染拡大も草壁国広が隠し切れないほどに大きくなっている。

 もう十分だろうか?

 もう計画は防げただろうか?

 いや――……まだ足りない。

 まだ不十分だ。

 これではすぐに計画は再開される。

 もっと破壊しなければ、もっと感染者を増やさなければ。

 二度と黒服がこの悪趣味な計画を考えられなくなるくらいに。

 二度と自分のような怪物を作り出さないために。

 この国自体に多大な影響を与えるくらい破壊し、地獄を呼び、自分や狂人の存在を誇示しなければ。

 そうしなければ白居は止まらない。黒服は止まらない。また何度でもあの計画を再考しようとする。

 実験の集大成である自分の命もいずれは消さなければならない。

 だがそれは先だ。今は死ぬわけにはいかない。

 もっと、被害を。

 もっと死者を。

 もっと悪夢を。

 自決するのは黒服が崩壊するほどのダメージを生み出してからだ。

 だから――

 ――だから……今は――

「邪魔をするなぁあ!」

 鋭は圧倒的な速さで本田の背に回り、その首を掴み持ち上げると激しく地面に叩き付けた。

「がはぁっ!?」

 コンクリートに激突した肋骨が鈍い悲鳴をあげ、口からは血が逃げ出す。

 本田は陸に上がった魚のようにメチャクチャにもがきながら己の身の異変を悟った。

 ――くそっ、骨が数本持ってかれやがった!

「もう諦めろ。お前らじゃ俺には勝てない」

 鋭は本田の背を踏み、言う事を聞かない子供に言い聞かせるように声をかけた。

「俺は黒服にとって核兵器のようなもの。奥の手であり、パンドラの箱であり、白居の生涯をかけた計画の第一歩だ。たかが人間のお前らがいくら頑張っても傷一つ負わすことは出来ないさ」

「本田!」

 腹を押さえながら鋭に突っ込んでくる曽根。だが鋭はその場から動く事は無く手でそれを制した。

「やめろ。勝ち目が無いのは分かっているはずだ。金のために死ぬ気か?」

「同情のつもりか? お前が何を言おうと俺たちは戦闘を止めないぞ。退けば組織に殺される。俺たちは前に進んで死ぬか、後ろに戻って死ぬかしかないんだ。それが、人生を、本当の自分を殺してこの組織に入った黒服メンバーの運命」

 鋭をその茶色い双眼で睨みつけ、曽根ははっきりとそう言った。

 自分たちは社会から消された存在。

 正式には地球上のどこにも居ないはずの人間。

 使えなければ、役に立たなければ簡単に切り捨てられ処分される。自らそれを覚悟してこの道を歩んできたのだから。

「そうか……お前らも俺と同じ白居の道具でしかないんだったな。――……分かった。俺もお前らも退くことは出来ない。殺すか、殺されるか、倒すか、倒されるか。……黒服のやり方で決着を付けよう」

 血と深海のほの暗い色が混じった瞳をゆっくりと細める。

 周囲の空気が鋭のその一言で一変した。

 これは正義と悪の戦いでも、聖者と悪人の戦いでもない。

 白居は己の計画のために、鋭はその計画を破壊させるために。それぞれがそれぞれの目的のためにお互いの命を削ろうと切磋琢磨する。何が正しいか、何が間違っているか、そんなものは全く関係ない。ただ、自分の信念、断固たる決意を満足させる為に二者は牙を向け合った。

「ぅぉおらぁぁあああ!」

 曽根は真っ直ぐに突撃した。鋭は失笑し、それを相手の肩を掴み、支点にして飛び上がることで簡単にかわす。

「後衛に就いている人間っていうのは本当に猛牛のように突っ込むしか脳がないんだな。そんな攻撃が当たるわけ無いだろ」

「俺は前衛だ。油断してると痛い目を見るぞ!」

 刺突がかすりもしなかったにも関わらず、曽根は全く気にすることなくそう言って左腕を引いた。そこには細いワイヤーが握られており、鋭の背後のアンテナへと繋がっている。

 ――っ……ロングワイヤーアンテナか!

 曽根が何を狙っているのかを感覚による背面視で瞬時に理解した鋭だったが、既にワイヤーは引かれた後だったため、避けきることは出来なかった。もの凄い速度で曽根の手の平から小型ナイフが飛んでくる。ワイヤーが引かれた反動を利用した簡易投撃装置だ。

「ぐっ!?」

 鋭の右胸、心臓の真横に深々と刺さる小型ナイフ。鋭はその衝突の力で大きく仰け反った。

「今だ!」

 既に立ち上がっていた本田が黒柄ナイフを持って叫び、曽根と同時に一目散に鋭に向って走り出す。

「――しまった!?」

 肺は呼吸を司る臓器。生のかなめ。心臓に非常に近い場所に大きな衝撃を受けた鋭は、一瞬体の動きを停止させてしまった。その所為で本来ならば絶対に無い懐への二人の接近を簡単に許してしまう。

「終わりだ、鋭!」

 怒号を上げる本田。

 二人の鋭い黒柄ナイフが体を貫く。鋭はその状態のまま、二人に押される形で背後のガスタンクに打ち付けられた。

 曽根と本田は自分の黒柄ナイフを抜き取ると、一瞬にしてその場から屋上の中央まで離れる。

「こ、れは……!?」

 鋭は背後のガスタンクから「シュー」、「シュー」っと何かが漏れているような音を聞いた。

「二人じゃどうなんだ? は、二人でも何も変わらねえよ」

 冷たく笑いながら本田は火をつけたライターを投げつける。それは先ほどの黒柄ナイフの刺突によって大きな穴を開けられていたガスタンクの前に優雅に飛んだ。

「――ちょっいと時間がかかるだけさ」

 最後に本田がそう呟くと、同時に辺り一面が激しい光に包まれる。まるで太陽が屋上の上に落ちたかのような物凄い爆発の中、鋭は己の身が焼かれる苦しみに大声をあげたが、それは空気を引き裂くような爆発の衝撃音に掻き消された。








 追って来る。

 執拗に、貪欲に、狡猾に、激しく、鋭く。

 いくら足を酷使しようとも、奴らは離れない。諦めない。

 己の欲を満たすため、本能を満足させるため、意思も感情も何も無い、生まれた存在意義のまま、ただ追って来る。

 奴らは自分たちが何故獲物を追うのかも分かってはいない。ただ、『そう作られた』、『そういう存在』だから追って来るのだ。

「もう嫌――……」

 筋肉がたわむ。

 骨が軋む。

 全身から氷のような冷たい汗が噴きあがる。

 空気が足りない。

 息が苦しい。

 頭が熱い。

 愛は自分の体が限界を超えているのを感じていた。

 三日前から殆ど休むことなくずっと逃げ惑っていた。デパートで食料を補給できたとはいえ、たかが非常食。栄養も量もそれほど多くは無い。

 もう限界だ。

 もう無理だ。

 愛はとうとう廊下のど真ん中で倒れ込んでしまった。壁に掲げられた周囲の絵画の顔が見下すようにその疲れきった女性に冷ややかな視線を向ける。

「姉御!?」

 先を走っていた佐久間が慌てて戻ってくる。

「何してんだよ!? 早く立てって! あいつらに追いつかれるぞ!?」

「ごめん……佐久間。私、もう足が動かないの。もう無理だよ……佐久間だけでもなんとか逃げて……」

「姉御がそんなか弱いセリフ言ってんじゃねえよ! 立てよ! 立てって!!」

「お願い、早く行って……」

「――姉御!」

「チャァァアアアアアッ!」

 廊下の奥に複数の振り子人間の姿が現れる。あと数秒でここに辿り着くだろう。

「くそっ、姉御、姉御が立たないなら俺もここで一緒に死ぬぞ! それでもいいんだな!?」

「何言ってんの? 馬鹿なこと言ってないで早く逃げてよ!」

「俺は――……姉御が好きなんだ! 姉御が死んだら耐えられない。お願いだから、立ってくれ!」

「佐久間……」

 振り子人間は二人と三メートルの距離まで来ていた。

「姉御!」

「――っ!」

 愛は佐久間の手を掴み、体を引き起こした。その直後に頭が置かれていた床を振り子人間の鋭い大きな爪が割る。

「走れぇぇ! 諦めるな!」

 佐久間は愛を抱えるような形で死ぬ気で走った。既に体力の状態は愛と大差は無い。もういつ倒れてもおかしくはないのだが、火事場の糞力か、愛への思いのためか、足の爪に血を滲ませながら走り続けた。

 その様子を振り子人間たちの後ろから見ていた武田は舌打ちした。しかし直後に一瞬、とある光景を思い出す。



『忠信……!』


『何だよ~、泣いてたのか? 可愛いところあんじゃん』


『ふざけないでよ馬鹿! 心配したんだから』


 

 それは少しだけ前の、まだ幸せだったときの記憶。まだ自分が自分でいられた、他人の命を優先していた頃の甘く、切ない思い出。

「……木枝このえ……」

 自然に口から声が出る。

 ――何で今更木枝の顔を……?

 武田は頭を左右に大きく振り、浮かんだ映像を振り払った。

「はぁ、……あいつ等のイチャイチャぶりに当てられたかな。俺もまだまだまともな感情が残ってたか」

 誰かが問い詰めているわけでも無いのに、一人そう言い訳のように呟く。

「……逃がさないぜ、佐久間、愛」

 たった今自分が抱いた思い、感情を強引に否定するように言うと、武田は振り子人間たちの後を追って走り出した。

 ――予想していた通り、資料室を開け放っても振り子人間たちは俺を襲わずに二人だけを狙った。これならば香水が切れない限りは安全に歩くことが出来る。狂人たちが現れたって、総合的な能力で勝る振り子人間たちが居る。……大丈夫だ。俺の案にミスは無い。

 前に進みながら策と考えを確認し、無理やり笑った。

 それは自分の策に対する自信の表れなのか、それとも微かに残った人間の心に対する後悔を紛らわすためなのか、武田自信にも分からなかった。


「姉御、どうする!? どっちに逃げる!?」

 廊下の終わりに差し掛かり、佐久間が困ったような声を出した。

 ここからの逃走ルートは三つ。屋上への階段をあがるか、二階へ降りるか、真横のトイレに立て篭もるか。

 ――屋上に行ってもどうせ行き止まりだし、二階は化物だらけだった。トイレなんて論外。すぐに突破されてしまう。

 これではどのルートを選んでも危険には変わりない。愛はその問いの答えを選ぶことは出来なかった。

「他に道は無いの……!?」

「壁をぶち抜けば出来るぜ!」

「こんな時にふざけんじゃないわよ!」

「もうこうなったら一か八か逆走して武田に体当たりするか? 香水さえ取れればこっちも襲われなくなるんだし……」

「そんな無茶な……いや、待って。香水――そうか、香水よ! 香水を無効化させれば良いんだわ! 無効化させれば奴らに一番近い武田に攻撃対象が変わるはず」

「はあ? どうやって無効化するんだよ、二人で屁をこきながら突っ込むのか?」

「……あんたの親の顔が見てみたいわ」

「え? もう両親に会うこと考えてんの?」

 照れくさそうに佐久間はにやける。

「……はあ、マジで疲れる。違うわよ、スプリンクラーを使うの! あれで香水の臭いを武田から落とすのよ、こんな施設なんだから液体に匂いの強い消毒成分とかも入ってるかもしれないでしょ!」

「スプリンクラーって、火事とかで作動するあのシャワーみたいな?」

「そう、それ。今は引き離したけどまたすぐに追いつかれるわ。今のうちに作動させないと……あんた、ちょっと台になって」

 ぼうっと突っ立っている佐久間を強引に四つんばいにさせると、愛はその背を思い切り踏みつけながら天井に手を伸ばした。その先には円形の小さなふたのようなものがへばり付いているのが見える。

「ライターとか持ってる?」

「タバコの用のお気に入りがあるぜ」

 愛は佐久間から鬼の絵が入った趣味の悪いライターを受け取ると、火を灯し、円形の物体に近づけた。

「あ、姉御! 奴らまた追いついて来たぞ」

 「ドドドド」っと地鳴りのような音を立てながら迫ってくる振り子人間たち。二人との間の距離はすぐに狭まっていく。

「姉御、時間切れだ! 逃げよう」

「もう少し、もう少しのはずなの! お願い、点いてっ」

 四つんばいの体勢では逃げるのに遅れる。佐久間は恐怖から怯えた声を出したのだが、愛はその背から退く事なくライターの火を揺らし続けた。

「姉御ぉお! 来てるぅってぇっ!」

「チャァァァアアア!」

 先頭の振り子人間が嬉しそうに、元々笑った状態の顔をさらに不器用に歪める。

「ああぁっあ! 死ぬぅうう!」

 佐久間は目を閉じ体を伏せた。

 バシャァァァァアアア!

 豪雨が巻き起こった。

 一瞬にして周囲の全てが水に包まれる。

 ――やった! センサーが反応してくれた!

 愛は佐久間の背から飛び降りながら、スプリンクラーの始動に喜んだ。

「な、何だいきなり!?」

 武田は突如天井から大量の水が落ちてきたことに戸惑いを隠すことが出来なかった。濡れたことで視界を妨害する長い前髪を横にずらしながら、何とか状況を把握しようとする。だが次の瞬間、すぐに前を向いたことを後悔した。

「ん? こ、これは……!」

 先ほどまで自分に目もくれてなかった振り子人間たちが一斉にこちらを見つめ、今にも襲い掛かろうとしていた。明らかに香水の効果が消えている。

 ――やられた! まさかこんな方法を……!

 顔が思いっきり引きつる。

「ザマ見ろ、前方ロン毛!」

 佐久間が嬉しそうに叫んだ。

 ――ここで逆走しても、逃げ切る事は出来ない、だったら――!

 武田は黒柄ナイフを構え、振り子人間たちの中へ突っ込んだ。水の所為で動きや視界に影響を受けていた振り子人間たちは僅かに反応が遅れる。

「俺は死なない、死にはしない! 死ぬのはお前らだ! お前らが死ねぇえ!」

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 自分は全てを失った。

 家族を捨て、友人を捨て、恋人とこの町に逃げ込んだ。

 その恋人も自分の手で殺した。

 もうたった一人。

 誰も助けてはくれないし、誰に助けを求めることもできない。

 ――ならば何故生きたい?

 本能のため?

 痛みが恐ろしいから?

 死が怖いから?

 違う。

 それはただの意地のため。

 全てを捨てて恋人とこの町に来た。この町から新しい人生を始めるつもりだった。

 心から愛した、最愛の女性と一緒に。

 自分の意思で自由を勝ち取るはずだった。これからそうなるはずだった。

 だから許せない。

 この事件を起こした犯人が。

 自分の計画を妨害した相手が。

 この運命が。

 ここで死ぬのはその運命に負けたことを意味する。運命の思い通りになる。

 ――嫌だ。俺と木枝は幸せになるはずだったんだ。それが破壊された。踏み潰された。もうこれ以上お前の、運命の思いどおりになって堪るか! 醜くとも、嫌らしくとも、卑怯でも、冷酷でもなんでも俺は生きて、生きて、行き続けてやる! 生きてお前の筋書きを打ち砕いてやる! 

 そのためには、絶対にここで死ぬわけにはいかない。

 ここで殺されるわけにはいかない。

 何がなんでも生き延びる。

 これはくだらないただの意地。

 だけどもう自分にはこれしかない。これがなければ生きる意味が何も無い。木枝を殺してまでここにいる理由が無い。だからそれを邪魔するものは全て排除する。そのためには例え相手が普通の人間だろうと殺す。

 男だろうと、女だろうと、子供だろうと、この意地を邪魔するものは全て――

「殺す!」

 背後に振り子人間たちを引き連れながら武田は一気にナイフを突き出した。

「くそっ、姉御! さがれぇ!」

「きゃぁっ!?」

 迫り来る黒柄ナイフの光を見た愛が絶叫を上げる。

 ――俺は鋭と約束したんだ! 姉御と一緒にこの町を出るんだ! こんなところでは死なない、死んでやらない。俺は絶対に生きる! 生きて生き延びて、死ぬまで苦しみ抜いてやる!

「――武田ぁぁあっ!」

「死ねぇえ!」

 二人の距離がゼロになる。その瞬間、愛が大声で叫んだ。

「佐久間ぁっ!」

 武田と佐久間の体が交差した。どっと鈍い音が響き、両者の体が傾く。赤い火花が散り、黒と銀色の刃が肉を断つ。

 一瞬の間の後に、武田が驚きの声を漏らした。

「――っお前――!?」

「一度刺された腕だ! 死ぬくらいだったらこんな物、お前にくれてやるよ!」

 佐久間は二度目の斬撃が食い込んだ腕をそのまま武田側に押し戻す。

 人間の腕は構造上内側よりは外側の方が頑丈に出来ている。奇跡的にも佐久間は真っ向から武田の斬撃を防いだことで、黒柄ナイフの侵入を骨の前で止めていた。

 弾かれる黒柄ナイフ。佐久間はその動作に連続し、逆の右手で渾身の拳を振り上げた。

「がっ!?」

 顎がもげたかのような衝撃が体に走る。武田は舌一杯に鉄の味を感じながら、佐久間から仰け反るように離れた。

「チャァアアアー!」

 その武田を見事に全身で受け止める振り子人間。

「佐久間っ――こっち!」

 愛は黒柄ナイフを二度も受けボロボロになった佐久間の腕を引っ張ると、何も考えず屋上への階段を駆け上がった。

 武田に気を取られ、振り子人間たちは途中から追うのをやめる。

 武田は自分の周囲を取り囲む化物たちを見て、パニックを起こした。

「や、っ止めろ! 俺は死にたくない! 死にたくないんだ!」

 ――誰か助けてくれ! 南城、佐久間、愛、安形、鋭――木枝ぇっ……!

 


『忠信。やっと一緒になれたね? もう絶対に離れないよ。ずっと一緒、ずっと二人。二人で力を合わせて、二人で――幸せに生きようね』



 ――木枝、どこにいるんだ!? 木枝! 木枝!

「うぐがぁぁああぁぁあああああっ!?」

 服が裂け、肌が割れる。肉が飛び散り、赤い光が輝く。

 世界で一番大切な人間の姿を思いながら、武田は動物のような何とも表現のしようのない絶叫を響かせた。

 







 屋上の入口まで一気に駆け上がった二人はそのまま屋外に出ることはせず、階段の上に倒れるように座り込んだ。

「はぁ、はぁっ……追ってきていないか?」

「――大丈夫、何も居ない」

 そこで会話が止まる。

 佐久間は仰向けに横になると、血が大量に湧き出ている自分の左腕を眺めた。

「ちょっ、あんたそれメチャクチャヤバい怪我じゃない! 何で普通に眺めてんの!?」

 何気なく横を向いてまともにその悲惨な腕を見た愛は、顔を真っ青にして手当てを始めた。

 慌しい手つきでデパートで入手した包帯をぐるぐると佐久間の腕に巻きつけ、近くに落ちていた雑誌と合わせて固定する。佐久間は激痛に耐えているのか歯を噛み締め、終始涙を流していた。

「一応包帯は巻いたけどすぐに正規の手当てをしないと、あんたマジでヤバいわよ」

 愛の腕は作業の最中から佐久間の血で真っ赤に染まっていた。その影響か忠告する声がかなり震えている。

 佐久間はそうか、っと一言頷くのみで、特に自分の怪我のことには感心を示さなかった。

「ねえ、聞いてんの!?」

 自分の出血量の多さを分かっていないような佐久間の態度に、愛は頬を膨らませた。

 しかし佐久間は僅かに聞こえた武田の断末魔が耳から離れないらしく、愛の言葉を無視してなにやら感慨げに話を始めた。

「……姉御。あいつは――……もしかしたら、ただ恋人の死を受け止めることが出来なかっただけなのかもしれない」

「はあ? いきなり何の話?」

「武田だよ。デパートであいつに聞いた言葉を思い出したんだ。自分の手で恋人を殺してしまったって。あいつはそれを実感することが出来なかったんだ。だからあれほど『生』に執着していた。生きていればまた恋人に会えるような気がするから……」

「何でそう思うの?」

「あいつ、最後に叫んでただろ? 木枝、木枝――って。まるで彼女の姿を探しているみたいだった。だから……」

「どんな理由があろうと他人に迷惑をかけるようになったらお終いよ。武田は狂気に飲まれた。己の欲望に負けた。ただそれだけ。あんたが今更同情しようが、あいつの死に罪悪感を感じようが、もう何も変わらない。全て終わったのよ。いつまでも気にしないで。それより今はやることがあるでしょ?」

「……ああ、そうだな。安形さんを助けないといけないんだったな」

 ゆっくりと佐久間は体を起こした。暗い笑顔を浮かべながら。

 人が狂う方法はいくつかある。

 憎しみ、、絶望、孤独、執着、恐怖。

 憎しみは罪を己に容認させ自己完結した勝手な正義を生み出し、絶望は生きる意志を消し去り理性のタガを飛ばした自己嫌悪を引き起こす。孤独は他者との競争、対比から外れたことで独りよがりな思考のズレや異常性を生み、執着は自分の周りのものを視界から隠す。そして恐怖は精神に亀裂を作り他の四つの感情へと繋がる。

 武田は木枝という恋人に執着することで他人のことを考えられなくなり、その死に絶望することで人殺しに対する罪悪感を無くし、また他者に対する恐怖から誰も信じれず孤独になり自分こそが正しいという勝手な思いを抱いた。

 ――もし、俺も誰にも会わないで一人で逃げていたら……きっと武田となんら変わらない状態になっていたかもな。

 佐久間は運良くデパートに近い場所で事件に巻き込まれたことを思い出し、苦笑いする。

 自分は多くの生存者たちと一緒にいたから、鋭や安形、愛を信じる事が出来たから狂いはしなかった。最初に彼らに会わなければとっくにおかしくなっていただろうと確信できる。

「……あいつは、ついてなかったのかな……」

 全ては偶然、運命としかいいようがない。武田が狂人の感染方法について知らなかったことも、その所為で自ら愛する女性を刺し殺したことも、一緒にいた生存者たちが全滅したことも、必然ではなくその場その場の流れで起きた。

 もし安形と早い段階で会っていれば、もし木枝が感染しなければ、もしあの時デパートに南城が居なければ……考えれば考えるほど多くの別れ道が浮かぶ。

 だが、いくら考えても愛の言うとおり全ては終わってしまった。武田は死に、こうして自分たちは生きている。

 今となっては何を考えても遅い。佐久間は短く、重い溜息を吐くと、気持ちを切り替え立ち上がった。

「……行こう、姉御。武田の遺体にはまだ振り子人間避けの香水があるはずだ。奴等が居なくなったらそれを使って安形さんのところへ戻ろう。もう大分時間が経ってるけど、あの人のことだ。……そう簡単に死ぬわけはないって」

「そうね――……安形さんならきっとあんな化物なんか全滅させてるわよ。絶対に死ぬはずはないわ。絶対に……」

 安形の死という不安を打ち消すように、愛はそう自分に言い聞かせた。

 二人は足音を立てないように一歩一歩慎重に階段を降り始める。

 愛が二段目に足を伸ばした時、黒い影が突然前に現れた。はっと顔を上げると見慣れない若い男が立っている。

「あれ? お前たち、町の生存者か。クスクス、まだ生きてたのか。ソムヌスが居るのに凄いな」

 その男は心の底から凍りつくような冷たい瞳をこちらに向け、作ったような笑みを浮かべた。

 相手が黒服を着ていることから愛と佐久間は咄嗟に階段の上まで飛びのいた。先ほど武田が自分たちを殺そうとした理由を思い出したからだ。しかし、下がった理由はそれだけではなかった。男の視線はこれまで二人が見たこともないほどの恐怖を心に侵入させたのだ。憎しみ、怒り、絶望、苦痛、狂気、様々な負の感情が入り混じったようなあまりに複雑なその視線は、とてもまともな人間のものとは思えなかった。

「おいおい、人の顔を見て逃げるなんて酷いな。僕は顔立ちは整った方のはずなんだけど」

 肩をすくめる男。

「な、何だお前? あの鋭を追っている連中の仲間か!?」

 相手が人間であるにも関わらず、佐久間は怯えた声でそう聞いた。

「ああ、黒村らのことか? ただの同僚だよ。と言っても僕の仕事はもう終わってるからあいつらとは何の関係もないけどな。まあ、今の僕はただの傍観者ってところだ」

「傍観者?」

 愛が不審者を見るような目を男に向ける。男はその視線を受け流しながら、日常会話を行うような調子で次のような言葉を言い放った。

「でもまあ、一応白居さんの私邸内でもあるし、目の前に侵入者がいたら流石に駆除しないと駄目か。――悪いな、お前ら。面倒くさいけど死ね」

 『殺す』でも、『死んでもらう』でもなく『死ね』。それはまるで決定事項を示すかのような言い方だった。

「えっ……!?」

 何の前触れも無かった。愛が気がついたときにはもう遅かった。男が喋り終わると同時にいきなり激痛が走り、腹部に短いナイフが刺さっていた。

「愛!?」

 思わず名前を叫びながら、佐久間は愛の体を後ろから支える。傷は深くは無いものの、愛の服からは既に血が滲み出していた。

「あれ、階段の所為で狙いが外れたか? 仕方ないな」

 男は緩やかな癖毛を揺らしながら再びナイフを手に持つ。

 ――こいつヤバすぎる!

「姉御、上だ!」

 佐久間は大きく肩で息をしている愛の腰を抱くと、一目散に屋上目掛けて走り出した。

「クスクス、そっちに行くのか? やめた方がいいと思うけどな」

 男のそんな呟きも耳に入らない。

 自由な方の、傷だらけの左腕でドアを開け放ち、倒れ込むように屋上に躍り出る。と、同時に目の前で大きな爆発が起こった。


 ――カッ!


 オレンジ色の光が辺り一面を覆い、一瞬目の機能を全て奪う。

「うわあっ!?」

「きゃああ!?」

 直後に爆風が体を押し、二人はその勢いに吹き飛ばされないように必死に地面にしがみ付いた。

 風が止み、視界と聴覚がある程度戻った頃、屋根に囲まれたこの屋上の中心から一度聞いたことのある声が聞こえた。

「へ、これなら流石に鋭も生きちゃいないだろ」

 本田は風に飛ばされた黒柄ナイフを拾うと、燃えて半分が吹き飛んだガスタンクと、その中心で倒れている黒い影を見下しそう呟いた。

「ああ、お前らっ!」

 黙ってればいいものを、不必要なほどの大声で佐久間が叫ぶ。本田と曽根はその声で佐久間と愛が屋上に来ていたことを知った。

「何だ、あのときの生存者か。まだ生きてたとはな。随分運がいいみたいだ。他の奴は全員死んだのか?」

 一仕事終えたあとの大工のような雰囲気で、本田は二人に話しかけた。

「鋭が死んだってどういうことだ! お前ら鋭に何をした!?」

「見ての通り、爆発を食らわせてやったんだよ。っていうかお前、あいつの正体をデパートで教えてやっただろ? 何でまだあんな化物のことを心配する?」

「煩い! お前らよくも鋭を殺したな!」

「化物を殺すのが仕事なんだぜ? ふざけたこと言ってると人間だろうとお前も殺すからな」

 ギロリと佐久間を睨む本田。その時愛が腹部の痛みに濁った声を漏らした。

「……うっ……――」

「あ、姉御――!」

 見るとにじみ出ている血の量が増えている。爆風から身を守った時にナイフがさらに深く刺さってしまったようだ。

「……どうやら、完全に無事ってわけじゃないらしいな」

 本田は二人の様子を見て何の同情も見せず、そう冷静に言った。

「へえ、黒村が居ないのに鋭を倒したのか。お前ら思っていたよりもやるじゃないか」

 不意に、屋上の扉からキツネが現れた。勿論先ほど愛を刺したのもこの男だ。

「あんた今まで何処に居たんだ? あんたが居ればもっと早く終わってたのに……」

 その姿を見て曽根が怪しむように溜息を吐く。

「僕の仕事は白居さんを守ることだけだからな。お前らどうなろうと、鋭が死のうとそんなことはどうでもいい。ま、結果として勝ったんだから良かったじゃないか。でもお前たちの任務内容は鋭の『捕獲』じゃなかったか?」

「『出来れば』捕獲さ。大体、リーダーの黒村さんが死んだ時点で捕獲は無理なんだ。殺さないとこっちがやられてた」

「そうか。そっちがそれでいいなら僕は何も言わない。関係無いことだからな」

 キツネはクスクスと笑う。

 ――このままここに居たら殺される! 後ろはこのヤバいニコニコ野郎に塞がれてるし、前には二人の黒服がいる。どうすればいいんだ? 安形さん、まだ振り子人間と戦っているのか? 無事だったら来てくれ、助けてくれ!

 先ほどから殆ど声を出さず次第に顔色が悪くなっていく愛の状態を不安げに見詰めながら、佐久間は心の中で悲鳴を上げた。

「さて、お前たちは活かしても邪魔になるだけだ。特に気を引く才能も何も無いし、一瞬で終わらせてやる」

 キツネが自身の黒柄ナイフを引き抜く。

 ――ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバいっ!? 

「た、頼む! 姉御だけでも助けてくれ! 俺たちはどうせただのホームレス、誰もまともに話しなんて聞かねえよ!」

「例えどんな人間だろうと黒服の情報を喉から手が出るほど欲しがってる連中は多くいる。お前がいくら命乞いをしようと、僕は意思を変えることはない。生かしてもこっちには損にしかならないからな」

  鈍いナイフの光が月明かりに照らされて光る。まるでそれ自体に命があるようだ。

 ――だ、誰か来てくれ! 助けてくれ! 誰か、誰か、安形さん――!

「鋭――!」

 キツネがナイフを振り下ろす、その瞬間だった。

 佐久間の鋭という叫びにあわせるように、周囲一体を吹き飛ばすような、地鳴りのような大きな雄叫びが屋上の上に爆発した。


「ヴォォォオオォォオオオッ!」


「何!?」

 思わず、曽根と本田が身構える。

 『それ』は今だ燃え続けているガスタンクの残骸の間から立ち上がった。全身を酷い火傷で覆われた『それ』は、こちらを睨みつけると徐々に姿を変えていく。

 最初は若い男の大きさで、次に大男へと、どんどん体の大きさを増やす。

「馬鹿な! 東郷でもあるまいし、あれだけのダメージを受けてまだ動けるのか!?」

 そんな曽根の疑問に答えるように、『それ』はタンクの残骸から体を出した。

 灰色のたてがみなびかせた般若のように歪んだ恐ろしい顔。ティラノサウルスのように前傾姿勢になった二メートル近い紫の巨体、その胸にはしっかりと三本のナイフの痕が残っており、皮膚のあちらこちらは爆発の影響で赤くただれていた。

「貴様らぁぁあああっ!」

 『それ』は太い、怪獣の鳴き声のような轟音で叫んだ。

「何故分からない! 何故、俺の邪魔をする!?」

「あ、あれは不味いな。暴走しかけている」

 鋭の姿を見て、溜息を吐くようにキツネが呟く。その言葉の通りに次第に鋭の声は人間とはかけ離れて言った。

「何故、なんだ! ぐっ……何故ぇ……――うっぅぅ……!?」

 ――俺がここまで言っているのに、ここまで犠牲を生み出したのに、なぜ誰もあいつの思うがまま動くんだ! 何故……。

「――……ヴォ、ォォォオオオオオォオオッ!」

「鋭!? どうしたんだ!?  鋭!」

 佐久間が鋭の異変に気がつき、泣きそうな顔で声を張り上げる。しかしその声が鋭に届くことは無かった。

「さ、くま……」

 愛が今にも鋭に向って走り出しそうな佐久間の腕を引いた。愛の青白い顔を見た佐久間は何とか我に帰る。

 ――そうだ! 俺は姉御を助けなきゃいけないんだ! このままここにいたら姉御は……!

「姉御――」

 背中に乗れ! そう、言おうとした時だった。

「オオオオォオオオオォ!!」

 涎を撒き散らし、体中からネルガル――ミミズを吐き出しながら、鋭が走り出した。

 一直線に、人が密集しているこの場所を目指して。





「……ォォォオオオオ……」

 恐ろしい声が聞こえ、安形は目を覚ました。飛び起きるように床から離れると、頭を振って痛む体を引きずりながら、壁に手を付き立ち上がる。

 ――くそ、気絶してたのか!? どれくらい経ったんだ? 今の大声は何だ……?

 再び天井の向こうから建物を震わせるような轟音が聞こえた。

「ヴォォォオオオオオ!」

「この声は……」

 ――鋭、か――!

 安形は床から黒柄ナイフを拾い握りしめると、まだふらつく体を酷使して資料室に繋がっている扉の前まで移動した。

「一階まで戻ってる暇は無いんだ、開けよ! 開いてくれ!」

 本能的に急がなければ取り返しのつかないことが起きるような気がすると感じる。安形は何度も渾身の蹴りを扉のノブに打ち込んだ。

「開け! 開け! 開け! 開け! 開けぇえ!」

 その内、「ガキッ」という音と共に、ノブが外れる。安形はそのノブがあった場所に手を突っ込むと、小型ナイフを上手く動かして扉の鍵を解除した。

 扉が開くと同時に弾き飛ばされる床上のノブ。

「愛、佐久間、鋭――!」

 安形は叫んだ。

 仲間の命を救うため、鋭の暴挙をくいとめるため、己のこの場所に居る意味、役割をこなすために。

 傷ついた体をフル稼働させ、最後の戦いへと足を踏み出した。











評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ