<第十一章>錯綜する思い
<第十一章>錯綜する思い
白居邸三階、実験室。
安形、キツネ、本田、曽根の四人は左右から迫り来る狂人の群れを必死に薙ぎ払っていた。
もっともキツネだけは笑顔で余裕たっぷりの様子だったが。
「切りがないっすよ!? どうします?」
廊下の道を曽根と共に塞ぐように立ち、背後の安形と背中を合わせながら、本田は頼るようにキツネに助けを求めた。
「クスクス、倒して進むしか無いだろ? このままだと白居さんが殺されるかもしれない。鋭の目的は白居さんの殺害ということになっているからな」
「倒すって――これ以上は捌き切れませんよ! あんたと違って俺は天才でも、英才教育を受けたわけでもないんだ」
「……――ふう、仕様がないな、安形さん」
キツネはワザとらしく溜息を吐くと、真横で次々に狂人を殴り飛ばし気絶させている部下の名前を呼んだ。
「はぁ、はぁ、何だ、今手一杯なんだけど!?」
「バキッ」と一体の狂人の顎をアッパーカットで打ち上げながら、安形は息も絶え絶えに答える。黒柄ナイフを使わないのはミミズに感染してしまった被害者のことを気遣っているからなのだろう。
「特攻してくれ」
「は?」
「いや、だから突っ込んでくれ」
「何言っているんだ――?」
「あ、心配ないぞ? お前の犠牲は無駄にしない。必ず俺たちで鋭を捕まえるから」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「早く行けって」
キツネは何の前触れもなく安形の背を蹴った。それも思いっきり。
「ぐはぁっ!?」
つんのめるように前方の狂人たちの真っ只中へと足を踏み出す。
――ま、まずい!
安形は咄嗟に前足に力を込めると、キツネに蹴られた勢いのまま数時間前のデパートでの行進同様、タックルを繰り出した。猛牛のようなその一撃に、一番近くに居た狂人が吹き飛ばされる。
前傾姿勢になっているためこのままでは倒れてしまう。安形は仕方がなしに片足を前に進め、自然とさらに狂人たちの中に踏み込む羽目になってしまった。
「おお、やる気満々だな」
何を勘違いしたのかその様子を見て嬉しそうに微笑むキツネ。安形は内心涙を飲みながら馬鹿のように必死にタックルを続けた。
「狂人たちの包囲が割れた! 曽根、行くぞ」
安形の特攻によって一時的に狂人たちの輪が開いたことを見計り、本田が走り出した。だが、安形が動きを止めたためすぐに止まらざる終えなくなった。
「もう無理っ!」
数度の狂人たちとの激突で勢いを失ったらしく、安形が悔しそうに歯を噛み締めた。その目の前には実験用の計測機器を振り上げている一体の狂人が居る。安形が傷を負うのを覚悟しそれを素手で防ごうとした瞬間、突然真後ろから無数の黒い影か飛来し、目の前の狂人を貫いた。
「最近は近距離戦が多かったからな……これを使うのは久しぶりだ」
キツネは崩れ落ちた狂人の体に刺さっているものと同様の小型ナイフを構え、先ほどの特攻によって体勢を崩された狂人たちに向って躊躇なくそれを連投する。しかも自分の背ろから襲いかかってくる狂人たちをかわしながらとその動きは神業に近い。
安形、曽根、本田の三人はキツネの援護によって何とか実験室の出口へとたどり着く事が出来た。ここは先ほど上がってきた非常用階段がある扉とは廊下を挟んで逆の位置に存在し、資料室へと続いている。
「キツネ――!」
無事に扉を開け資料室へと入り込むと、安形はキツネを振り返った。キツネはまだナイフを投げ続けている。
こちらに来るように促そうとしたのだが、扉に向って先ほど退けた狂人たちの生き残りが迫ってきたため本田が安形を無視し、強引に扉を閉め鍵を掛けた。
「お、おいまだキツネが――!」
「相手は悪魔じゃないんだし、あいつなら大丈夫だろ。化物並みの強さだからな。……それより鋭を探すぞ。お前、こっちの見方でいいんだよな?」
こっちとは勿論黒服側のことだ。
「――……ああ」
「よし、じゃあ手分けして探すぜ。いいか、見つけたら殺す気でかかれ。何がなんでもあの蛇野郎を捕まえるんだ」
返事を待たず颯爽と二人はその場を離れた。白居の身を心配しているのか、任務失敗の咎が恐ろしいのか。恐らくは後者だろうが。
「……俺も二人を探さないと……」
鋭が呼び込んだ狂人はこの三階に居たものだけではないはずだ。佐久間と愛の身が心配になり、安形は脇目も振らず駆け出した。
「ん?」
振り子人間から逃げ、非常階段を使って一階に下りてきた武田は、廊下に出たところで床に倒れている一人の男を見つけた。
警察特殊部隊の服とカジュアルなジャケットを足して二で割ったような、普通は中々無い服装――黒服を纏った男、黒村鉄心だ。
その腹部には自身の物であろう黒柄ナイフか深々と刺さり、微かに赤い花を服の上に咲かせていた。
「あんたはた確か……」
――安形と鋭を追っていた男。
武田が狂人化しているのかどうか不安げに見つめていると、黒村はゆっくりとこちらを向いた。
「――…………デパートに居た生存者か」
荒い息遣いで言葉を吐く。
「まさかこれだけ狂人が襲来しているのにまだ生き残っていたとはな。生存力の高い奴だ」
「狂人が襲来? 何の話だ?」
「ふん、まだ遭遇すらしていないのか……本当に運がいい。おい、お前、頼みを……聞いてくれるか?」
「……頼み?」
「俺はこの通りまともに動けない状態だ。もう、長くない。……変わりにやって欲しいことがある」
そこで黒村は僅かに血を吐く。
「悪いけど俺は自分の事で精一杯なんだ。あんたに構うことなんか出来ない。他を当たってくれ。二階にいい感じの偽善者が二人ほど居るぜ」
武田は瀕死の黒村を前にしても冷静に自分の利を取った。そのことを理解した黒村はこの前に居る男が限りなく自分たちに近い存在であると見抜いた。
「ふ、勿論タダでとは言わねぇよ。お前……この夢遊町から脱出して生きていく当てはあるのか? いや……その前にここから脱出出来る自信があるのか?」
「何が言いたいんだよ?」
「今俺が言ったことを全て叶えてやる。お前が協力するのならな。――まあ、社会的に死を迎えることにはなるが」
これは事実上黒村からの黒服へのスカウトだった。脱出とその後の生活を保障する代わりに自分の頼みを聞き、黒服の仕事をしてくれ。簡単に言えばそういう意味だ。
「あんたらの仲間になれってことか?」
「どう捉えてもいい。イエスか、ノーかだけ答えろ。俺が意識を保っていられる時間には限りがある」
武田は黙り込んだ。
この案に乗れば脱出も生活も保障されるらしい。勿論都合よく利用され捨てられる可能性も無きにしも非ずだが、男の口調からだと本気で提案しているようだ。自力でこの町を脱出するのは今では困難を極める。即座に了承しても良かったのだが、『生きる』ことを最大の目標としている武田にとって、仕事で常に命の危険を伴うらしき黒服への参入は一考を必要とした。
その考えを読んだのか、黒村は血の滲んだ口で甘い言葉を囁く。
「心配するな。脱出後は事務職に着くことも医務職に着く事も出来る。何処に配属するかはお前の自由だ」
別にこれは嘘ではない。確かに黒服に入ったメンバーは自分の立ち位置を選ぶ事が出来る。もっとも殆どのメンバーは最初から専門の部署を目指して訓練を受けたり、スカウトされているため、暗黙の了解でそれ以外の部署を選ぶ事は無いのだが。それに使えない人間ならば直ぐに実験材料として処分される。黒村としては武田のその後など正直どうでもいい。今、この場でやらなければならないことを成し遂げることさえ出来ればそれで十分なのだ。
「……分かった。それで頼みってなんだよ?」
現状では生き残るためにはこの案に乗るしかない。例え男の言っていることが事実でなくとも話を聞くだけなら損はないし、その仕事の内容によっては本当に請け負ってもいい。武田はずる賢く頭を回転させながら黒村の頼みを聞いた。
「安形と……他の生存者たちを殺せ。あいつらは鋭と手を組んでいる可能性がある」
イグマ抑制剤で動きを封じた感染者が短時間で動き出すことなど在り得ない。これまでのことから考えると鋭の復活にはほぼ間違いなく安形か関係しているはずだ。復活直後の鋭を取り逃がしたキツネもかなり怪しいのだが、武田にキツネを倒させることは酷な話である。僅かでも鋭の仲間を削ぎ、白居学に対する脅威を減らすために黒村は彼らを殺すことを選んだ。例え証拠も何も無くても関係ない。もし本当は安形たちが白だとしてもそんな事はどうでもいい。怪しいければ潰す。それが黒服の、白居の安全に繋がるのだから。
「あいつらを……殺すのか」
「何だ? 一時的とはいえ、一緒に行動していた人間を傷つけるのは抵抗があるか? それとも自分の身の安全よりも仲間が大切か?」
黒村は直感的に武田が鋭に協力していないと見抜いていたが、相手を焚きつけるためにワザとそう言った。
「まさか、俺は心から好きだった恋人を殺した男だぞ? ――……いいぜ、殺ってやる。それで俺の安全は保障されるんだな?」
「ああ、こいつを持って行け。白居候か、黒服の人間に見せれば信用するはずだ。それに……もし信用しなくてもそれを持っているということは俺を殺して手に入れた実力者だとも考えられる。きっと素直にお前は黒服へ入れるさ。勿論、その場合は他の生存者らを殺したっていう事実がある上での話だがな」
黒村は複雑そうな表情を浮かべながら自分の腹部に刺さっている黒柄ナイフを指差した。
「もう腕に力が入らない。お前が……抜いてくれ」
最後にそう言うと目を瞑り血の気の無い青白い顔を天井へ向ける。
「何でそこまでその黒服とかいう組織に尽くすんだ?」
黒村の腹に刺さったままの黒柄ナイフを握り、不思議そうに武田は尋ねた。崇高な理想でも、信念でもあるのかと思ったのだが、帰ってきた言葉はいたく単純なものだった。
「家族が……人質に取られているんだ。俺がヘマをすればあいつらが悲惨な目に合う。お前が仕事を手伝うことで俺の失敗の影響が少なくなるんだよ。運良く鋭を倒してくれたらもっと良いんだけどな」
「……そうか」
武田は一気にナイフを引き抜いた。途端に無数の血液が飛び出し両腕と黒村の腹部を濡らす。
――あばよ、晴香、啓二。
内臓を引きずりナイフが抜かれる痛みに意識が飛びかける。
黒村は事切れる直前に武田の声を聞いた。
「俺にはもう誰も居ない。俺を縛ることなんて不可能だ」
それはどこか自嘲のような、悲しい響きを含んだ言葉だった。
武田がしばらくその場にたたずんでいると、何時の間に来ていたのか南城が背後から声をかけてきた。
「殺したのか?」
「……介錯をしただけだよ。南城、あんた俺の後を追ってきたのか?」
自分はもう南城や佐久間たちに何の価値も意味も見出してはいない。あの時その意思表示はしっかりとしたはず。武田は何故南城がこうして自分を追ってきたのか分からなかった。
「まあな。あの騒音二人組みと居るよりは、お前と一緒に居た方が生き残れる可能性は高い。武田ぁ、俺はお前のことが気に入ってんだ。俺の部下にならねぇか?」
「は、冗談だろ?」
「冗談なんかじゃねぇよ。お前の機転や考え方は役に立つ。なあ、俺はこの夢遊町以外にも色々と伝手や仲間が居るんだ。脱出後は幹部として迎えてやるよ。どうだ?」
猫なで声で聞く南城。若くて美しい女性が出すならともかく、アフロの中年オヤジが出しているため不気味でしかない。
『論外だ』と武田は思った。
例え黒村から黒服への勧誘を受ける前だとしてもこんな提案には乗らなかっただろう。まず第一にこちらにメリットが何も無い。脱出させてくれるわけでも、それに繋がる足をくれるわけでも、安全な場所を知っているわけでもない。南城自身はお得な提案だと思っているらしい幹部への勧誘にしたって、武田からすれば迷惑な話だ。何で折角脱出したのにわざわざそんな裏の、しかも不安定な組織に入らなければならないのか。逆に大金を積まれても入るのは御免だ。
がここでそのまま自分の考えを伝えるのは宜しくない。武田は南城の提案を受け取るような素振りを見せつつ、そっと黒柄ナイフを握った右腕を背に隠した。
無数の感染者が追って来る。
ボーリングのピンのような体型をした化物が頭と首を左右に規則正しく揺らし、追って来る。
満面の笑顔を振りまきながら。
その光景は正直気持ち悪すぎた。
愛は廊下を一直線に突き進みながら、なるべく後ろを見ないように徹した。佐久間も同様に真っすぐ前だけを見ている。
「あ、姉御ぉ――俺、も、もう息が……」
「頑張ってよっ、追いつかれちゃうでしょ!」
ぜえぜえと過呼吸しながら足を止めかけた佐久間の手を握り締め、愛は尚も必死に走り続けた。これまで朝からずっとこの町の中を逃げてきたため体力は限界に近かったのだが、当然止まる事など出来ない。それは死と直結している。
「一階はさっきの感じだと、あの振り子人間たちが居るから逃げられない。上に行くしか無いわね」
「でもそれってますます追い詰められるんじゃ――?」
「しょうがないでしょ、他に行き場が無いんだから。最悪、隣の家に飛び移ってやるわ」
「この屋敷の隣って一階までしかなかったけど……」
「う、煩い! とにかく上に行くの!」
呆れるような佐久間の目から視線をそらし、愛は階段を探した。
今二人が居る場所は先ほど武田と別れた廊下から幾つかの扉を抜けた先にある別の廊下だ。二人は追ってくる振り子人間を振り切っても、すぐにまた別の振り子人間に遭遇してしまうという因果を繰り返し、何とかここまで逃げ続けていた。
「在った!」
曲がり角を曲がった途端、目の前に三階への階段が飛び込んできた。あれを上れば三階へ行く事が出来る。愛は嬉しそうに、佐久間の腕をより一層強い力で引っ張った。
「ん? ちょとスットップ姉御! ま、前見ろぉ」
「何よ?」
佐久間が階段の方を指差して何やら顔を青ざめたため、愛は怪訝そうに顔の向きを変えた。
「な!?」
斜め下、一階から無数の狂人たちが競うように階段を駆け上がって来ていた。それもかなりの数だ。
「どうやって中に!?」
裏口はしっかりと鍵を掛けたし、正面扉もちゃんと塞がれていた。中に狂人が入ることなど出来るはずが無い。
「あの傷、きっとガラスを突き破って来たんだ、さっき見た感じだとここの一階のガラスは普通の家庭で使われるものと同じみたいだったし」
「ぁぁぅぅぅぁあああっ!」
狂人たちはとうとう階段を上り切り、廊下にその身を乗り出した。
「と、とにかく逃げるぞ!」
先ほどとは逆に佐久間が愛を引っ張り来た道を戻り出す。だが、その逃避行はすぐに終わりを迎えた。正面から笑顔の振り子人間たちが走って来たのだ。
「こっちもかぁああ!?」
――もう駄目だ!
二人は自然と抱き合うように身を伏せしゃがみこんだ。
すぐに身に降りかかるであろう苦痛を予想し、恐怖に体を震わせる。振り子人間の足音が、狂人の鳴き声が迫ってくる。瞼を硬く閉じ、最後の瞬間に備えた。
だが次の瞬間、何故か狂人と振り子人間たちは激しい殺し合いを始めた。
「あぅうぁああぅううああああっ!」
「チャァアアアァァッ!」
お互いに威嚇の雄叫びを上げ、相手の肉を引き継ぎリ、喉を切り裂く。その動きには何の躊躇もない。
「――どうなってんの!?」
佐久間と抱き合いながら愛が心底不思議そうに呟いた。
「愛さん、佐久間――!」
突如どこからか安形の声が聞こえた。
振り向くと、三階から駆け下りてくる筋肉隆々の男の姿が見える。
「早く逃げるんだ!」
安形は狂人と振り子人間の騒乱の中に飛び込み、二人の前まで来ると、その肩を掴んで立ち上がらせた。
「安形さん、これは一体――?」
すぐに走り出した安形を追いながら、愛が混乱した目を向ける。
「鋭が狂人を呼び寄せたんだ。もうこの邸宅中に徘徊している」
「な、何であいつがそんなことするんだよ?」
鋭と友情を育み、一緒に脱出することを願っていた佐久間は、安形の言葉が信じられなかった。
「複雑な事情があるんだ。後で詳しく話すから今はとにかく走れ」
「何だよ複雑な事情って……」
納得がいかないように下を向く佐久間。その様子を見た安形は胸を痛めた。
鋭は自分たちの命よりも復讐を取った。ただそれだけだ。黒服に籍を置いている安形にとって、それはすぐに受け入れる事ができた事実だったが、一般人の、しかも鋭と友情を結んでいた佐久間がその事を知れば大きなショックを受けることは目に見えている。だから安形はあえて説明をしなかった。
「ところで何であいつら同士討ち始めてるの?」
三階への廊下の前まで来ると、愛が一旦背後の二種類の化物たちの争いを指差して尋ねた。
「――……狂人は鋭に自分たち以外の全ての生き物を抹殺しろと命令されている。対してあの振り子みたいな茶色の化物は純粋に本能に従ってるだけだろうな」
「本能?」
「さっきの蛙人間もそうだけど、イグマ細胞の保有者は安定した細胞を求めて純粋な人間や動物を襲うっていう特性がある。狂人はただ体を乗っ取られただけの『人間』。比率的にはイグマ細胞の割合は一割もない。振り子人間たちにとって狂人はきっと人間と変わらないんだろう」
「ってことはどっち道私たちにとっても危険なのね」
僅かな望みを期待した愛はその事実にがっかりした。
「っまずい、何体か追って来たぞ!」
こちらに三人のご馳走が居る事に気づいたらしき三体の振り子人間が、物凄い速さで接近していた。安形たちは慌てて階段を駆け上りだす。
その時、ほぼ同時に一階から別の振り子人間に追われた武田が現れた。また狂人を殺したのか腕周りの服の色がさらに赤くなっている。
「あ、この野郎っ!」
階段の上を一緒に駆け上がる武田に佐久間がガンを飛ばしたが、全く相手にされなかった。
「安形、あんたも無事だったのか」
「ああ、まあなんとかな。南城はどうしたんだ? お前と一緒に先に逃げたって聞いたんだけど」
「さあな、気がついたら居なくなってたよ」
「……そうか」
安形は少しだけ悲しそうに眉を歪めた。
三階に上がるとすぐ目の前に資料室があり、安形たちはそこに飛び込むと素早く鍵を掛けた。ここは実験室と直列に繋がっており、つい先ほど安形と本田たちがキツネを囮に逃げ込んだ場所だ。中は資料室と言うだけあって、まるで部屋を囲むように無数の本棚が立ち並んでいた。
「はぁ、はぁ、これでひとまずは大丈夫だろう」
息を整えながら安形は本棚の前に置いてある椅子に座り込む。
「ドンドン」っと扉が激しく叩かれた。振り子人間たちが追いついたらしい。
「ここも長持ちしそうにないな……そっちの扉から逃げられそうか?」
実験室の方を眺めて佐久間が呟いた。
安形は静かになっている実験室の中が気になり、椅子から立ち上がると扉に耳を当てた。
「……物音はしないな。ついさっきここで俺の組織の人間が一人残ったはずなんだけど……」
ゆっくりと鍵を開ける。
「おい、何するんだ?」
安形の行動が理解出来ず、怒りの表情を浮かべながら武田が身を構えた。
「大丈夫だ。誰も居ない」
慎重に部屋の中を見渡しながら安形が呟く。緊張した表情を浮かべていた一同は溜息を吐き、体の力を抜いた。
――キツネはやっぱりもう居ないか。
ひょっとしたらキツネがまだここに居るのではと一瞬思った安形は、がっかりとも、安心とも区別のつかない複雑な感情を抱いた。
部屋の中の景観は先ほどとは打って変わっていた。無数の狂人たちの死体が床や壁の上に無造作に連なり、高価で貴重な無数の実験機器は戦いに巻き込まれたのか、狂人に破壊されたのか全てガラクタ同然の状態になっていた。これではもう二度と使用することは出来ないだろう。
「そこの階段から逃げられそうじゃね?」
佐久間が奥の非常階段を見て若干表情を和らげた。だが安形はこの階段を利用することを否定した。
「あそこの階段は一階に繋がってるだけだ。今や夢遊町中が狂人で埋め尽くされているんだぞ? この白居邸から出るのは危険でしかない」
「ここも十分危険だろ」
「勿論それは分かってる。だがこんな状態の町中を逃げ切る自信なんて俺にはないんだ。事態を解決するには方法は一つしかない」
安形は悔しそうに顔を歪めた。
その表情から安形の考えを悟ったのか、暗い顔で愛が呟く。
「……鋭を殺すのね」
「――……もう鋭の目的は殆ど達成された。これだけの大騒ぎを起こしたんだ。イミュニティーにもディエス・イレにも黒服が独自の兵器を研究していた事は知れ渡っているだろう。騒ぎが治まればこの町も白居学も監視されるようになる。実験機器が完全な状態ならまだ運び込むことも出来ただろうが、この感じだと邸内の殆どの研究施設が破壊されたみたいだ。研究や機器の情報を他の組織に渡さないために、黒服はこの町に留まるしかなくなる。そうすれば自ずと研究内容も漏れ出し、黒服の立場は悪くなるはずだ」
「だったら殺す必要なんて無いんじゃないの?」
「勿論、俺だって話し合いで済むなら、鋭が狂人の解除を素直にやってくれるなら何もしないさ。だけど……あいつの正確からしてこれで終わるとも思えない。これ以上多くの人間を犠牲にすることになるのなら俺はあいつを止めなきゃならない」
愛と佐久間はうつむいた。
鋭はデパートで自分たちの命を救ってくれた。例えその危機の原因が鋭自身にあるとしても、あの時自分たちを助けようとした気持ちや思いに偽りはないはずだ。
鋭は精神異常者でも、殺人狂でも、己の欲望のままに生きるエゴリストでもない。黒服という組織の危険性を見抜き、その計画を止めるため、破る為に心を鬼にしてこの事件を引き起こした一、被害者。殺したくはない。しかし殺さなければならない。
その葛藤が二人に沈黙という行動を生ませた。
「そんなに悩むのなら何もしなければいいだろ?」
突然扉の鍵が閉まる音と共に武田の声が響いた。
「お、お前何してんだよ!?」
実験室の中にはまだ安形が一人だけ残っている。それを見た佐久間は怒鳴りかけたが、相手の懐から取り出された真っ黒なナイフを目撃した瞬間、口を閉じざる終えなかった。
「武田!? それは――黒柄ナイフか? 何でお前がそれを持っている」
安形は慌ててノブをガチャガチャと揺らし、ガラス窓から武田の顔を驚きに溢れる目で見つめた。
「何でって頼まれたんだよ。お前らを殺せってな」
「頼まれた? ――っ……黒村か! 何で俺たちを……」
「鋭の仲間かも知れないから念の為に消しとこうってことらしい。ま、今となってはこっちに協力してくれそうだったけど」
「話を聞いていたでしょ、安形さんを解放してよ!」
「無理だ。俺が黒服に信頼されるためにはお前らの死が必要だ。そう、『鋭の仲間』の死がな」
「こいつ――!」
佐久間が拳を握り締める。
「止めろよ。このナイフの切れ味は半端じゃないぜ? 南城なんかハムみたいにスパスパ切れた」
「な、南城を殺したのか?」
「ああ、俺の生存力をうまく利用しようとホモみたいに擦りよってきたからな。ウザったくて背中から一撃入れてやったよ。今頃は化物どものエサになってんじゃないか?」
「何でそんなに平気で人を殺せるのよ! あんた頭おかしいんじゃない!?」
武田は自分たちと同じただの一般人。ここの住民だったはずだ。いくらスラム街の中とはいえ、ここまで簡単に人を殺せるようになる理由が愛には分からなかった。
「愛さん、佐久間、鍵を開けるんだ――早く!」
このままでは目の前で二人が殺されてしまう。悲劇を恐れた安形は必死に扉に体当たりし、叫んだ。
「させるわけ無いだろ」
武田はナイフを引き、自分の顔の横に構える。ここは部屋の隅、しかも鍵の閉じた開かない扉の目の前だ。佐久間と愛がナイフをかわす隙間など無い。武田が本気で二人を殺そうとしているのならば、数分もかからず二人とも死んでしまうだろう。
――くそっ、どうすれば……――!!?
非常用階段を降りて資料室の正面入口へ回っても、結局向こうも鍵を掛けられている以上、何も変わらない。安形に出来るのはただこの分厚い扉を攻撃することだけだった。
「ん? どうやら騒ぎすぎたようだな。安形、そこの非常用階段の扉に鍵が無かったことを後悔しとけ」
「何?」
足音にいち早く気づいた武田がそういうと、安形の背後にある非常用階段への扉が激しく開け放たれた。間を置かずに三体の振り子人間が一気になだれ込んでくる。
「三体も!? あれじゃいくら安形さんでも――」
「愛さん、お前は自分の身を心配するんだな」
扉の向こう側で起きた安形の大ピンチを心配し、視線を自分から反らした愛に向って武田は躊躇なくナイフを突き出した。
「見つけたぜ」
既に太陽は沈み、月の光だけが明かりとなった白居邸の屋上。三つ在る屋根の間で柵に囲まれた二百平方メートルほどの広い場所。その中心に立っている乞食姿の男に向って、本田が冷ややかな笑みを浮かべた。
「何で俺がここに居ると分かった?」
屋上の入口から出てきた二人の黒服メンバーを一瞥し、鋭は静かにその紫の瞳を細めた。
「かなりの数の狂人たちを呼び込んだみたいだったからな。お前ならきっと俺たちの処理は奴らに任せて、安全な場所に隠れていると思ったんだよ。鼠みたいにってな。――案の定、一番地下から遠いここに居やがったか」
「終わりだ、鋭。どうやって抑制剤の効果を無効化したのかは知らないが、黒服から逃れることなど出来はしない。大人しく身を差し出せ」
珍しく曽根が威圧的な声を出す。
「お前らに俺を捕まえることが出来ると思っているのか?」
「出来るさ、昼には遅れをとったが、今度はあの時のようにはいかない。きっともうすぐ黒村さんもここに来る。三人でお前をとっちめてやるぜ」
本田は黒柄ナイフの切っ先を鋭に向けた。
「黒村か――確かにあいつの実力は高かった。だけど……」
鋭はもったいぶるように口を開く。
「あいつはもう俺が殺したよ」
そう言って右手に持った漆黒の布切れを空高く掲げた。血に塗れた、黒村の服の一部を。
「なっ――……!」
言葉だけならまだしも、鋭が掲げた布切れは確かに黒服だった。対刃、対衝撃に特化しているナグルファルの制服。
その証拠に布の端から鋼色の繊維が飛び出し、風に揺らされている。
「この野郎……!」
本田と曽根にとって黒村の生死などどうでもいい。逆に早く死んで、その分の報酬が自分たちに回ることを願っていたほどだ。
だが、それはあくまで昼間までの話だった。キツネや白居学が出てきたことで、言われなくても自分たちの報酬がかなりの高額になった事が分かった。それはもはや仲間の死によって得られる分配などどうでもいいほどの量だと。
だから鋭という強敵を前にした今、黒村の存在は必要だった。大きかった。
「三人だと勝てるんだったな。じゃあ二人だとどうなんだ?」
そう言うと、鋭は一気に床を蹴った。
真っ直ぐに――真っ直ぐに黒服の二人を目指して。