<第十章>最終手段
<第十章>最終手段
「な、何でお前がここにいるんだ!?」
口元を引きつらせて安形は驚愕した。キツネは終始笑みを浮かべたまま距離を潰してくる。
「安形さんが裏切り者の依頼なんかを受けるからだろ? まったく、受けるべきと受けないべき仕事の判断も出来ないのか?」
「……黒服メンバーが仕事を受けるのは、そのメンバーの任意に任されている。お前が呼ばれる理由なんてないはずだぞ」
「それは通常の任務の話だ。この場合は違う。今回の事件は黒服の存続にも関わってくる。――安形さん、お前がやった事は反逆罪に等しい」
「勝手なっ――」
「口答えはするな。僕は早く帰りたいんだ。それ以上何かを喋るなら容赦はしないぞ?」
「……っ……!」
安形は自分とキツネの実力差を嫌なほど知っている。何しろ相手は自分と截、翆を鍛えた本人なのだ。争っても勝てないことは目に見えていた。
安形が大人しくなったのを満足げに見ると、キツネは黒村に顔を向けた。
「さあ、行こう。あ、安形さんには後でお仕置きするから一緒に連れて行くぞ。文句はないな?」
黒村は黙って頷いた。
――くそ、キツネの前じゃ下手に動けない……どうすればいいんだ……!?
安形は必死に考えを巡らせたが、何の妙案も浮かばなかった。
鋭から頼まれたもう一つの仕事は白居邸内の鋭に関する全ての資料や施設を抹消する手伝いだった。
イグマ抑制剤で極限まで弱っていた鋭を見れば、黒服の面々は誰もが油断するだろう。それを上手く利用し、意識を保ったまま鋭が研究室や実験室に入るときに、安形が事前に渡されたイグマ活性剤を鋭に注射することで鋭の体を本調子に戻す。そして自分の協力を隠したまま鋭に全ての資料や実験施設を破壊させるという計画だった。少々胡散臭い面もあるがそれが鋭が一度白居邸を脱走し、ミミズたちをばら撒き、自分を呼んだ全ての目的となっている。
実験室脱走当初は感染者も少なく白居邸内の警備も厳重であり、何より強引に体を動かしたためとても破壊活動など出来る状態ではなかった。だから鋭は体の回復を待ち、狂人たちを増殖させ念入りな作戦を考えた。
普通に自分が白居邸を強行突破しても、防犯機能や黒服の実力者たちが立ちふさがる事は明らかなため、ワザと自分はここから離れようとしていると示し、黒服の一構成員である安形に依頼を送ったのだ。 安形と合流してからは逃げようとする素振りを見せつつ、白居学の暗殺をほのめかした。そうすれば白居邸内の戦力を削ぎ、感染者を増やす時間稼ぎにもなるし、運がよければ本当に白居を殺せる可能性も上る。そして何より自分の真の目的が資料や設備の破壊だということを隠し、相手に警戒を抱かせない状態での白居邸侵入を可能にさせる。つまり、白居の暗殺が目的だと黒服らが勘違いしていれば、破壊活動がかなり楽になるのだ。
だが、キツネが登場したことでそれは不可能になってしまった。
キツネの前でこっそり鋭にイグマ活性剤を打つなど見逃されるわけがないし、少しでも怪しい動きをすれば殺されてしまうだろう。安形は自分が截とは違い、キツネの気まぐれで黒服に入ったことをよく自覚している。元々超感覚者でもなんでもないのだ。自分程度の実力者なら黒服内には数多く存在するし、幾らでも補充は利く。
だから何も出来なかった。
「……諦めるな」
表情から考えを読んだのか、鋭は肩を組んだまま青白い顔で軽く安形の肩を叩いた。
安形は一体どこからその自信がくるのか理解に苦しんだが、鋭の事だから何か他にも考えがあるのだろうと信じ、取りあえず先ほどからこちらを睨んでいる曽根と本田に鋭の身柄を渡した。
大広間に足を踏み出し、血の臭いに顔をしかめながらも、南城は冷静に指示を出した。
「ここから数メートル進むと右に小さな階段があって、登っていくと二階に大きな両面扉がある。俺の仲間らが立て篭っているとしたらそこしかねえ。そこを目指すぞ」
「この臭いから考えるととてもお仲間が生きているとは思えないけどね……」
歩くたびにピチャピチャと何か生ぬるいものが足にまとまりつく。それが赤い色で無いことを祈りながら愛は苦笑いした。どうでもいいが、先ほどから腕を握り締めている佐久間の荒い息と、伝わってくる微振動が物凄く煩わしい。だが無理に振りほどけば絶対に佐久間が騒ぐことは予想が付くため、愛は我慢してそのままでいた。あとでぶん殴ってやろうと心に秘めながら。
壁に手を付きながら進んでいくと突然その壁が無くなった。どうやら階段までたどり着けたらしい。南城はほっとした。
「待て、何か聞こえる……!」
上に上がろうとした南城だったが、背後から武田に引っ張られ壁際に押し付けられた。その直後、階段の上から誰かが降りてくるような足音が聞こえた。
もし狂人や蛙人間ならば絶対に見つかるわけにはいかない。愛と佐久間もすぐに壁にへばり付き、息を潜めた。
「ヒタ」、「ヒタ」、っと明らかに靴の音ではない異質な足音が段々と近付いてくる。
『それ』は階段を降り切ると、のそっと広間に全身を現した。
広間の中央は窓から夕焼けの光が入り、僅かに明るくなっている。愛たちは中央まで進み目視出来るようになった『それ』の姿を見て、今日何度目になるか分からない冷や汗を流した。
どう表現すればいいのだろうか。
楕円形の頭にはピエロのような笑顔が張り付き、それが基本の表情らしく、ずっと維持されている。首は通常の三倍か四倍の長さに伸び、頭と一緒に常に右左に揺れ動いている。まるで振り子のような動きだ。体も人間とはかけ離れ、肌は全て鮫肌のようなもので覆われ茶色く濁り、腕も長く肘が胸側に屈折し、手の平は象の足ほどもあり鋭い爪が伸びている。大きな指が二本しかない足の太腿は極度の大股のように、間に円を描き、一種のハートマークを作っていた。
「何だあのボーリングのピンみたいな奴は……?」
ヒョコヒョコと左右に揺れている『それ』の頭を物珍しげに眺めながら、佐久間は身震いした。
「ど、どうやら一匹だけじゃないらしいな。見ろよ、さっきまでは気づかなかったがそこら中にいるぞ」
目が慣れたことで広間の中がよく見えるようになった武田が、部屋の奥や反対側の壁際を指指す。するとここまで会わずにこれたことが奇跡だとしか言えないほどの無数の振り子人間が広間中を徘徊していた。
「さ、幸いまだ気づかれてない。い、今のうちに階段を上がりましょう」
腰が抜けそうになるほどの恐怖を感じながら、愛が固まっている面々に呼びかけた。その言葉で我を取り戻した他の三人はこれまで以上に慎重になり、階段を上り始める。上から別の振り子人間が降りてくれば終わりなのだが、それは運良く起こらなかった。
二階に着いても振り子人間の姿はあった。廊下の先の通路を横切っていく姿が微かに佐久間の目に映る。
「早く隠れようぜぇ、両面扉ってどこだよ!」
目元を潤ませながら佐久間は必死に頭を動かした。すると階段のすぐ左に大きな茶色い両面扉が陣取っている姿が見える。
「ここか!」
一目散に走り扉のノブに手を回す。南城は「鍵を掛けているに決まってるだろ」と佐久間の肩を掴んだが、全く聞く耳を持たれない。だが予想に反し鍵はかかっていなかったらしく、佐久間は扉をあっさりと開け放った。
「助けっ……………………!?」
――閉めた。
何か変なものがいっぱい中に居た。
茶色いボーリングのピンみたいな、ついさっき見たような何かがうじゃうじゃ居た。
「何で閉めるのよ!」
愛がいつ襲われるか気が気でない様子で袖を引っ張ってきたが、絶対に開けるわけにはいかない。開けたら地獄を尋ねることになる。
「開けなさいって!」
ほっぺたを鷲掴みみされつねられたけど必死に我慢した。
「な、中にボーリングがぁあ!」
「はぁああ?」
「だ、だから中にピンっがぁぁぁあ……!」
「ああもうウザい!」
涙を浮かべて扉のノブにしがみ付く佐久間を押し飛ばし、愛は扉を開けた。
「一体何言って…………へ……?」
――閉めた。
もう、もの凄い速度で閉めた。光の速さで閉めた。
「ななななっ、何でここにもいんのよ!? どうなってんの!?」
一気に顔の血液を首の下に落下させながら南城を睨みつける。
南城は扉の向こう側の様子を見てはいなかったが、二人の反応から状況を理解した。
「そんなまさかっ、ここまで侵入してるなんて……」
ここは事件前によく白居候と食事や対談、仕事の交渉などをした会食場だ。自分の仲間たちもよくここでたむろし、設備や強度から考えてもここ以上の安全地帯は無い。そんな場所の中が化物だらけということはつまり仲間は全滅したことになる。
「他に隠れられる場所は無いのか?」
ショックを受けている間もなく、大声を出した佐久間と愛に黒いオラーを見せ付けながら、武田が聞いてきた。
「お、俺がこの屋敷の中を自由に移動できるのは一階と二階だけだ。ここはその中でももっとも頑丈で食料も蓄えられている部屋だった。ここが駄目ならもう隠れられる場所なんて……」
「くそ、散々えばっといてこんなオチかよ!」
佐久間が怒り心頭の様子で怒鳴る。
「大声を出すな!」
その声が余りに大きかったため、武田は咄嗟に佐久間の首へナイフを当てた。自分の首にちくりと痛みを感じた佐久間は思わず言葉を飲む。
――こ、こいつ……本気だ!!
武田から伝わってくる殺気は明らかにただの脅しではない。これ以上自分が騒げば本気で殺そうとしていることをひしひしと感じた。
武田の一喝も虚しく、扉の向こう側や階段の下が急に騒がしくなった。やはり大声でこちらに気がついたらしい。
「くそ、生き残れる可能性があったから俺はここまで来たんだ! よくもこんな目に追い込んでくれたな」
「着いて来たのはあんたの勝手じゃない!」
憎憎しげに自分たちの顔を見下す武田の八つ当たりに、愛はかっとなった。
「煩い! 安全地帯が無くなった以上、お前らと協力する筋合いは無い。――ここでお別れだな」
突然武田は佐久間の体を階段目掛けて蹴り飛ばした。唾液を吐き出しながら佐久間は階段の手すりに背を打ち付ける。
「っ何するのよ!?」
「精々奴らから時間を稼いでくれ」
愛の怒号を何吹く風とさらりとかわし、武田は走り出した。呆然とする一同を他所にその後姿はどんどん離れ、廊下の影に消えた。
「あの糞ガキめ――! 走るぞ、さっきの奴等が来る!」
武田に囮に使われたことに気づき、怒りで顔を真っ赤にしながら南城が叫んだ。愛は急いでふらふらと揺れている佐久間の襟元を引っ張り立たせる。
手すりから下を覗くと、丁度三体の振り子人間が駆け上ってきているところだった。
「きゃぁっ、来たぁぁあっ!」
真横の両面扉も盛大に開き、同じ化物が溢れて皆一様に笑顔で頭を左右に振り迫ってくる。
あまりの気味の悪さに、愛と佐久間は絶叫しながら走り出した。南城は先に逃げたのか既に消えている。
――これならまだ狂人に追われる方がマシだった!
幾ら後悔しようとももう遅い。
無事に脱出できるかなんてもう二の次だ。「生きたい」、今はその一言に尽きる。
愛は目じりに涙を浮かべながら足を動かし続けた。
「何か下が煩いですね」
本田は目にかかった自分の跳ねまくっている髪を手で退かすと、怪しむように二階を見下した。しかし非常階段の真っ只中であるため勿論階段の腹しか見えない。
「ふん、大方生き残ってここに駆け込んできた奴等が騒いでいるんだろう。総括のことだ、鋭の武器である感染者が邸内に出たか、鋭がここに向っていると知った時点で何かしらの生物兵器をこの敷地内にばら撒いたのかもな」
黒村が事実を言い当てる。
「非常階段を通って正解だったぜ。もし一般階段を上っていれば今頃俺たちも一緒に叫んでいたはずだ」
「なるほど、さすが黒村さん。伊達に長い間黒服で働いているわけじゃないんですね。俺のキャリアを舐めんじゃねぇってな。――あ、三階に着きましたよ」
本田は黒村に賛辞の言葉を送りながら非常用扉を開けた。
白居邸は水憐島や紀行園などのレジャー施設とは違って一般市民が中に入ることはない。邸内に来る人間は殆どが黒服の関係者か、白居が個人的に関係を持っている人間だ。そのため通常は地下にある事が多い実験室や研究室も三階という高い位置にあり、自由に研究者たちに利用されている。だからこうして扉を開けるとすぐに真っ白な廊下が目に入り、その左右にはガラス張りの実験室が幾つも連なっている光景が見えた。
「セキュリティーガードは解除されているんだろうな?」
黒村は非常出口と廊下の間にある特殊強化ガラス張りの扉とその横の壁に付いてている機器をしかめ面で眺めた。
「電話で聞いたけど狂人に管理室を襲撃された影響で素通り出来るらしいぞ。普通に取っ手を引けば開くはずだ」
本田が何か言おうとしたが、その前にキツネが笑顔で答えた。
すると今までずっと黙っていた曽根が扉に近付き、無造作にガラス張りの扉を開けた。
「……開きました」
生まれつきなのだろうがむすっとした表情で振り向く。
「よし、研究室はすぐそこだ。科学者どもは白居総括といっしょに地下に避難しているらしいから、俺が直接護衛をしながら連れて来る。本田、曽根、お前らはキツネと一緒に鋭と安形の監視を頼んだぞ」
「――了解」
曽根と本田は既に任務達成に等しい状況にも関わらず、全く油断する気配を見せることなく真剣な顔つきで頷いた。
黒村が消えると同時に、安形はキツネの目を見はかりながら、本田に拘束されている鋭に視線を向けた。だが鋭はじっと黙想をするように瞼を硬く閉ざしている。
――このままだと本当に終わりなんだがな。どうする気なんだ? やっぱり俺をまだ頼っているのか……?
もし鋭が、安形が何とかイグマ活性剤を自分に打つことを期待しているならば、残念ながらそれはとても叶いそうにはない。
キツネは車から降りたときからずっと眠そうにしているが、ああ見えて一度も安形を視界の外に出しては居ない。絶えず自分の見える位置に起き、さりげなく監視しているのだ。安形はまるで自分がガラス張りの部屋の中に閉じ込められているような気分を味わっていた。部屋の外には無数のキツネがニコニコ顔でクスクス笑いながら自分を見ている――そんな超絶不快な感覚。
瞬きの一つすら察知されていそうで、とてもじゃないが注射を打つことなんか出来そうにはなかった。
「どうした、安形さん。さっきからそわそわして……何か気になることでもあるのか?」
「……いや、総括の私設研究所である白居邸ですら、これほどのバイオハザードが起きると機能しなくなるんだな、と思うと何だか心配になってな」
「クスクス、それは当然だ。どんなに厳重な施設だろうと、セキュリティーの高い屋敷だろうと物量攻撃には耐えられない。この夢遊町の住民の殆どが感染者となったんだ。一ヶ月前の二大事件の結果を考えれば職員の多くが地下に避難できている分マシだと思うけど?」
「マシね……被害者の数で言えば圧倒的にこの町の方が多いけどな」
「何かを成し遂げるには何かを犠牲にすることが必要だ。鋭を捕まえるための生贄と考えればこの町の住民の命なんて易いものさ。少なくとも白居学にはな」
――物量攻撃……犠牲…………。
キツネの言葉から鋭は自分の頭の中で何かが花開くのを感じた。本田の腕の中で瞑想を続けたまま策を練ると、答えはすぐに出た。間もなく黒村が研究者たちを引き連れて戻ってくる。時間は無い。奴等がここに到着すれば、自分のこれまでの努力は全て水の泡だ。現状を打破する方法はたった一つだけだった。だがこの方法は安形やここに逃げ込んだ愛と佐久間まで巻き添えにしてしまう。
『何かを成し遂げるには何かを犠牲にすることが必要だ』
キツネの言葉が脳内を駆け巡る。
――そうだ、俺はこの黒服の、白居の計画を阻止するために全てを犠牲にしてきた。個人の命よりも、多数の命、町ひとつの命よりも国の命だ。……安形たちには悪いが、全ては未来のためなんだ。俺の体の技術を利用した『あの計画』が成就すれば、もうこの国は終わる。……――やるしか、ない。
鋭はキッと目を見開くと、何かを決心したような強い眼差しで顔を上げた。その動きに気づき、安形は横目で鋭に視線を移す。鋭は安形の瞳を見つめると、立ったまま声を出さずに口元を動かした。
『注射を打て』
――え、この状態でどうやって!?
と安形は疑問の眼差しを返したが、鋭が答えるまでもなく理解する羽目になった。
突然幾つも窓ガラスが割れる音が聞こえた。
そしてその直後に無数の唸り声が屋敷中から響き渡る。そう、狂人たちの声だ。
「な、鋭! お前!?」
安形は鋭が狂人たちをこの屋敷へ呼んだことに気づき、大いに驚いた。
「こ、この野郎! この期に及んでまだそんな力がっ――」
本田は鋭を床に押し倒すと、曽根と顔を見合わせた。「どどどどっ」と地鳴りのような足音が聞こえてくる。
「ちくしょぉお、来るぞ!」
左右の扉が激しく開け放たれ、狂人たちが実験室に囲まれたこの廊下の中へ飛び込んで来た。
「ああぁぁぁああああっ!」
操られているだけだと迷っている暇は無い。殺さなければ殺されてしまう。本田と曽根の二人は必死にナイフを振った。
「何て真似を――愛や佐久間を殺す気なのか!?」
騒ぎに紛れて鋭の横に膝を着くと、安形はその首元を掴んだ。
「お前が俺に注射を打つまでの時間稼ぎだ! 早く活性剤を打て」
「――――……っくそ!」
今ならキツネも狂人たちに気を取られている。安形は怒りを感じながらも小型注射器を取り出し、鋭の腕に打ち込んだ。
「ぐっ!」
鋭は体中を駆け巡る刺激に小さな悲鳴を上げた。
「さあ、早く狂人たちを外に追い出せ!」
階下の生存者たちが心配でしょうがない安形は鋭を揺さぶりながら、血走った目で怒鳴る。だが鋭は立ち上がると同時に安形を突き飛ばした。
「悪いな安形、俺は狂人を呼ぶことは出来ても遠ざけることは出来ない」
「なっ!?」
「全ては白居の計画を止めるためだ。理解してくれ」
「鋭!」
安形は渾身の力を込めて殴りかかったが、瞳を紫色にした鋭はあっさりとそれをかわした。
「お前には本当に悪いと思ってる。もし……生きてまた会えたら必ず償いをする。――じゃあな」
「ま、待て!」
鋭を追おうとしたものの、直ぐに狂人たちに立ちふさがれ邪魔されてしまう。その間に鋭の姿は闇の中へ消えた。
「な、何で急に狂人たちが!?」
地下のシェルターから白居学の許可を取り、研究者たちと共に一階の廊下まで上った途端、黒村の目の前に無数の狂人がガラスを突き破って飛び込んできた。
研究者たちはそれぞれ野太い悲鳴を上げながら蟻の子が散るように逃げ惑う。
「おい、勝手に離れるんじゃねぇ!」
黒村が幾ら叫んでも、恐怖に支配された彼らの耳には届かない。すぐに皆白居邸の中へ散り散りになってしまった。
「くそ、腰抜けどもが!」
舌打ちしながら背後から肩に食いつこうとした一体の狂人の腕を掴み、引くと同時にその首の動脈を切り裂く。狂人は血のシャワーを黒村に浴びせながら床に体を墜落させた。
「鋭の仕業だな!?」
真っ赤に染まった顔で次々に狂人を捌きながら後退し、狂人が大量発生した原因に思いを馳せる。
するとその言葉を待っていたかのように狂人たちの奥から紫色の瞳を輝かせた鋭が現れた。
「科学者たちは逃げたのか……まあいい。どうせすぐに全滅する」
「お前……抑制剤の効果で動けなかったはずだ。その元気な姿はどういうことだ?」
「俺を甘く見すぎたな。仮にもお前の組織の最重要兵器なんだぞ。ただの抑制剤なんかでくたばってたまるか」
「……本田たちはどうした?」
「全員殺したって言ったらどうするんだ?」
鋭はニヤリと笑った。
「……本田はともかくキツネがお前を見逃すはずがねぇ。まさか、お前ら……」
黒村が全てを言い終わる前に鋭は床を蹴った。
壁の上を大地のように跳ね、一気に黒村の背後に降り立つ。
「ぐぉお!?」
真横の壁が爆発したように砕かれる。無意識のうちに屈まなければ黒村の首は根こそぎ吹き飛んでいたかもしれない。
ホッと一息つく間もなく鋭は続けざまに蹴りを繰り出してきた。そのどれもが一撃で壁を粉砕するような威力だ。黒村は一発、一発を避ける度に背筋に冷たいものが走るのを感じた。避けきれない攻撃は狂人を盾に使い何とか実を守るも、このままではいずれ追い詰められるのは明白だ。体中を汗でびっしょりにしながらも必死に反撃を試みた。
「この糞ガキめっ!」
鋭の拳が盾にした一体の狂人の胸を貫くと同時にその狂人の体をひねり、鋭の腕を固定しつつナイフを前方に走らせた。だが鋭はその攻撃をもう片方の腕で受け止め、鼻で笑いながら黒村の腹を蹴る。
「がぁっ!?」
黒村は勢いを殺しきれず見事に廊下の壁に背をめり込ませた。
「流石の黒服も一人だと大したことはないな」
余裕タップリの笑みを浮かべると床に落ちていた黒村のナイフを拾い、握り締める。
「――舐めるなぁあ!」
壁から体を起こし立ち上がると、黒村は身を低くして水面蹴りを放った。しかしその足は鋭に命中することはなく空を切った。天井すれすれまで飛び上がった鋭は黒村のナイフを逆手に持ち、重力に任せて振り下ろす。
「終わりだ」
紫色の瞳が静かに相手の最後を告げた。