どこにでもある、小さくない話。
私の素直さが好きだと言った恋人は私の素直さが嫌いだと言って去っていった。
何かの本で、人は好きになった部分から嫌いになっていくと読んだことがある。好きという興味が湧くのはその人の持つ特徴にこそだろう。かなり個性的なバンドがいたとして、それを熱狂的に支持するファンもいれば、視界に映ることすら良しとしないほど頑なに拒否する者もいる。特徴とは、私たちがその対象を好きになる理由であり嫌いになる理由である。
そのジャッジが、一人の人間の中で変化した。その過程こそが知りたかったのに。元恋人は、マスクすら外さずに別れを口にした。真冬の空気を白く色付けた、吐息は私の口から出ていた。まるでその場に一人しかいなかったみたいに。
季節が変わる前に、仕事は辞めた。
仕事が苦痛だったわけではない。むしろ忙しさには助けられた。その間だけは余計なことを考えずに済んだ。
それでも、体が先にだめになった。得意だった早起きも、体がだるく起きられない日が続き、午後から出勤することもあった。食事もまともに取らないせいかすぐふらつき、会社から電車で家までのたった二駅でさえ、立ち続けることができなかった。周りの人たちはとにかく優しく労ってくれた。退職を申し出たときは、なにも辞める必要はないだろう、戻ってくる場所はいつでも用意しているから、休職してしっかり休んでみてはどうかと言ってくれた。それでも私はもう一度働く姿を想像出来なかった。一切の縁を切りたい衝動とは違う。ただ、疲れていた。先の約束を残していけるほど、“いま”に希望がなかった。
一人では生活がままならなくなって、しばらく実家に帰ることにした。母は何も言わずにいきなり現れた娘を見て、お煎餅を持つ手を口の前で止めたまま、どうしたの、と言った。ずいぶんと固そうなお煎餅が、母の丈夫さを物語っている。安心と不甲斐なさが入り混じり、痩せ細った私の中にいる抱きしめて貰いたい子どもが疼いた。
「会社、辞めちゃった。」
第一声が色んなことを飛び越えて、よりによってその部分だけを切り取ってしまった。丸い、大きな母の目がぱちぱちと動いて、
「辞めた?辞めたって、会社を?」
「だから、そうだって言ってるじゃん!」
こんなはずでは、こんなはずでは、心の中の栓がわーっと外れて、やっぱり、こんなはずではと思うほど与えられたものに対して自分がしてきた選択がもう取り返しのつかないものになっていることがわかって、また事が終わってから気付く自分が悔しくて、駄々をこねてる子どもみたいに、わんわん泣いた。
「とにかく何があったのか話しなさい。しばらく連絡がないからようやく愛乃も落ち着いたのかと思いきや、そんな痩せちゃって。会社も辞めるなんて、あんなやる気だったじゃない、笹野上の家だってもう家賃補助が出る家は空いてないって言われたのに、会社の近場がいいからって決めちゃって。今頃もう少しは貯金だって出来てたでしょう。どうするのよ、入ってくるお金はもうないのよ。」
私は何も言えなかった。うるさい、と心の中でだけ言った。心配してもらえるものと思っていたけれど、一度は家を出てそれなりに一人でやっていた身だ、いつまでも母の子どもであることは変わりないのだが、子どもも大人にはなるのだ。
黙ったまま自分の部屋に向かった。
ベッドに寝転んで泣いた。自分は何かもっと大きな出来事に直面して、怖くて逃げ出したいのだけど、果敢に立ち向かい、傷付いてもなお立ち上がって、試合には完全なる敗北なのだけど、それでも意味のある敗北を味わい背負って帰ってきた、そんな気になっていた。
昔、陸上競技に明け暮れていた選手時代、これが最後だと分かって臨んだ大事なレースで負けた。この部屋に飾られている数々の賞状やトロフィーの中で、あの試合の栄光だけがなかった。今でもあの悔しさは覚えている。あのトラックを離れて、学生を卒業し、就職、家を出て、気が付いたときには大人が完成されていた。自立とまでは烏滸がましいかもしれない、それでも人生はもうままごとではなかった。
恋は突然やってきた。私でも知らない私の中にある扉がノックされた。この扉を開けたらどうなるのだろう。不安よりもワクワクが体じゅうに滲み渡るのを感じた。
家族でも友人でもないたった一人のまるきり知らないところで、まるきり知らない人生を歩んできた人、他人だったのにこれからは特別を分け与えていく存在、知らないことばかりのあの人を知りながら、私だけが知ってるあの人を積み重ねていく日々、恋の始まりを思うと、今でも胸が高鳴る。
あの感覚と同時に、込み上げる、これは恋の残酷さなのだろうか。
最後に会ったあの人はもう空っぽの器だった。好きが通い合った、胸の奥がじんわりと温かくなる、あの感覚。それがもうこの人の中にはかけらも残っていないのだと分かった。あの笑顔もあの言葉たちも、全部ちゃんと特別だった。紛れもなく私は愛されていた。彼の愛がなくなって、彼の愛を知った。
次にこの器に笑顔を吹き込むのは誰なのだろう。私ではないことだけが確かだ。喉の奥が、胸の真が、ぎゅっとする。消化不良の、まるでえぐるような痛み。私の思考はいつもここでストップする。この先には進めないし、もう進む必要がなかった。
天井を見上げる。骨ばった手を伸ばす。手と手をさする。ああ、失恋はこんなにも人を弱らせるのか。世の中にありふれている失恋ソング、歌詞を書いた人々は皆、こんなにも辛い気持ちを味わってきたのだろうか。それを聞く皆も、もうとっくに、こんな気持ちを知っていたのだろうか。
たかが失恋。でも、それが何より辛かった。
母が持ってきてくれたお茶は、麦茶だった。ベッドから起き上がり、飲みなさい、と差し出されたグラスを手に取った。小さい頃は麦茶のこの香ばしい香りが苦手だった。夕食後に母がやかんでお湯を沸かしているときは、たいてい新しい麦茶を淹れるときだった。また作っている、母の後ろ姿を見ながら私はげんなりしていた。母がペットボトルで緑茶を買うようになったのはいつからだろう。夕食後の台所から漂う、あの香ばしい香りが消えたのはいつからだろう。
グラスに口を付ける。ごくり、と音がする。懐かしい匂い、鼻の奥がつん、とした。
「おかあさん。ごめん。」
「何で謝るのよ。昔から何でも自分で勝手に決めちゃって。私に報告するのなんて、全部そのあとなんだから。もう決めたから、なんて言われたって、こっちはちょっと待ってって感じよ。もうどこから聞けばいいのか、付いて行くのにいっぱいいっぱいよ。未だにそうなんだから。いつまで親をびっくりさせれば気が済むの。」
「うん、ごめん。」
笑いたいような、泣きたいような、そんな気持ちになった。
ポツリ、ポツリと浮かんでくる言葉を繋いだ。
「仕事はね、好きだったの、ほんとうに、がんばりたいって、思ったの、ほんとうに。」
「うん。」
「仕事じゃなくてね、その、」
「人間関係?何か、そんなガツガツしてる人とかいなさそうな、そんな感じだったじゃない、何て言うのか、割とみんなマイペースにやってるって感じの。違ったの?」
「いや、みんないい人だった、優しいし。…違う、そうじゃなくて。」
「付き合ってる人が、いて。」
「…なに、その人と上手くいってなくて?」
「ん…」
喉の奥が熱く、クッと締め付けられる感じ、ああ、ダメだ、言えないや。しーんとしているこの空間、今こうしてここに居ることが、非日常的な気がする、歯車が噛み合ってない気がする、子どもみたいなバカな考えで、日常を手放してしまった気がする、急に、課長や先輩たちの顔が浮かんだ、何か言いかけていなかっただろうか、いつも何か言いたそうな顔をしていなかっただろうか、心配している顔は困った顔じゃなかっただろうか、何も、私の悲しみは、通用していなかったんじゃないか、それに気付かない私の愚かさに、ただ、合わせて…
あったわよ、と言った、母の声、一瞬何のことか分からなかった。
「上田君て覚えてる?私が一番長く付き合った人、あの人にね、お母さん振られて、そんでガリガリになったのよ、一年くらい生理来ない時期があったって話したでしょう、あれ、あのときよ。」
「え、あの、豆腐しか食べなくて30キロ代になったってとき?」
「そう。豆腐しか食べれなかったのよ、おばあちゃんが木綿豆腐潰して出汁で茹でてくれたの、あのとき。それを夜食べるだけだったの。会社辞めてさ、一年くらいお好み焼き屋でまたバイトして、アメリカ行ったのはそのあとよ、そんで行きの飛行機で生理来たの、未だに覚えてるわ、何で今?!って。気圧ね、あれは。体ってやっぱすごいって思ったわ、ちゃんと色んなものに影響受けてるんだって。」
満員電車でうっとして、北風に吹かれながら歩いて、デスクで電話を取って、かろうじて声を出して。断片的なシーンが次々と思い出された。助けられていたと思っていたそれらが、1つずつ体に繋げられた鉛のようになっていて、私は気付かず、日々体の中の何か大事なものをすり減らす取り引きを、日常的にしていた。弱っているというのに、体重ももう前ほどなかったのに、失恋の痛みを忘れるために、私はそんな取り引きをしていたのだ。有限だから、体は。ちゃんとダメになったんだ。
母が続けて話す。
「あったわよ。私にも。失恋して、もう奈落の底まで落ちた時代が。ほんと、若かったわあ。もうね、失恋より辛いことなんてね、この年まで生きてるといいいっぱいあるのよ。」
い、に力を込めながら、母は真っ直ぐに私を見て言った。少し間があって、私はぱっと目をそらした。落とした視線に映る、正座をしている母の、膝の上に置かれた手がぎゅっと握られていて、なぜか叱られているみたいな気持ち、鼓動が早くなった。
「上田君はね、私のこと振って、そのあとすぐ彼女作ってさ、あれは二股かけられてたのねきっと、そんでその女と結婚して、私はもう辛いとか悲しいショックより、だんだんもう自分が惨めに思えてきて…でもね、お父さんと結婚して少し経ってから…そうね、上田君とは別れて結構経ってたなあ…7年くらい?お姉ちゃんが幼稚園入った頃だからそうね、それくらい経ってたのね、ある日急に上田君から電話が来て。」
「え、急に、どうして。」
「実家よ、私の実家にかかってきて、おばあちゃんが知らせてくれたの。そのときね、初めておばあちゃん言ったわ。あんな男、今更響子に何よって。上田君と別れたときさあ、私おばあちゃんには何も言わなかったんだけど、おばあちゃんも私に何も聞いてこなかったし。だけどやっぱ、おかしかったもん、私。おばあちゃん、分かってたんだなって。ふふ、いつもおしとやかで口数も少ないおばあちゃんだったけど。あんな男って、おばあちゃん上田君のことそんな風に。もう、何か笑っちゃったわ。」
母は優しい目をしていた。そして少しの悲しみを纏って、冷たく言い放った。
「子どもが出来なかったんだって。」
「え、」
「あのあとすぐ結婚した奥さんとの間に。色んな不妊治療も試したけど、どれもダメだったんだって。そしてそれを私に相談しようとしてきたのよ、おばあちゃんが電話を切ったあと、私の連絡先を聞こうとして幸子や茜にも連絡したみたいなの。」
「…まって、どういうこと。なに、それ…」
「私も何でそんなこと私に相談してくるのよ、頭おかしいんじゃないの、って思った。上田君と別れたあと生理止まったくらい痩せたし、お医者さんにも貧血で運ばれたとき言われたわ、あなたの歳で生理が止まったままだと、子宮がこのまま萎縮して固まって、子どもが産めなくなる危険性があるって。そのときは子どもだとか実感湧かなくて、ああ私女の幸せには縁がないのねって…そんなこと思ってたかなあ。」
「でもお母さんには子どもが3人も産まれたんだね。しかも、みんな、こんな大人になって。」
私は笑った。母も笑っていた。太ももの上に置かれた手はいつのまにかハの字に、優しく添えられていた。少し背中を丸めながらはあーっと笑みを含めた息を吐く。
いつもの、私の知っている母がそこにいた。
そんな過去があったなんて知らなかった。身も心も枯れて、毎日に希望も意味もない、限りなく無に近い思考でただ生きるような、私が知っている、その世界を。無に近い感覚を。そしてその世界は怖い。あらゆるものが色を失って、あらゆるものから魂が抜けて、どこにも何も宿っていない不気味な世界。そして渇いた喉を潤したいように、息継ぎをしたいように、ふいに正常がやってくる、そのときの、永遠にここから抜け出せないのではと気付く、絶望感。あのおそろしい、おそろしい、あの、恐怖を、私は知っている。
「上田君のことは、結局どうなったか分からない。でもその騒動で幸子や茜とまた連絡取るようになってね、二人ともそれぞれ大変だったみたい、子どもが出来てもさ、それはそれで本当に大変なのよ、そりゃ嬉しいことだってたっくさんあるのよ、子育てしてさ、子どもだけじゃなくて親だって成長するのよ。それに子どもはもう自分の分身みたいなものだからさ、子どもがいじめられたり、傷つく姿を見ればね、親だって同じように傷つくのよ。…まあ、子ども出来なかった人たちの悩みだって、計り知れないんだろうけどね…。」
「何か、お母さんの話聞いてると、結婚しても夫婦になっても、今がどんなに幸せでも、子どもが出来なかったりさ、この先何があるのか分からないものなんだって思うよ。」
「うん。世の中に絶対ってことはないのよ。私このまま上田君と絶対結婚すると思ってたけど、あるとき急に振られて、絶対もう上田君みたいに付き合える人はいないって思ったし、お父さんのことだって一回振ってるじゃない、絶対この人はないなって思ったけど、まあそうも言ってられなくてまさかまさかの結婚までしたのよ。絶対、絶対って、当たり前にこうなるだろうって、当たり前のように思ってることもね、本当に何があるのか分からないものなのよ。」
「うん…。それでも、まだ、やっぱり…。」
一緒に居られたら良かった。出来るならずっと。大好きな人との別れはやっぱり辛い。乗り越えて強くなれるだとか、そんな言葉だけの言葉なんて本当にいらなかった。強くならなくていいし、何も別れたことに意味を見出さなくてよかった。大好きな人と一緒に居られる、それは幸せなこと。強くならなくたって、あのまま彼と居た私で、優しく日常に触れていられたらどんなに良かっただろうか。日常は十分すぎるくらい愛おしく過ぎていったに違いない。もう叶えられない幸せだなあ、そう思うたびに胸が痺れて、体が、私という人間が、この世界に居場所なんてなかったみたいに思えて、やけに軽くなり過ぎた孤独に打ちひしがれる。ひどく、私の今はどこに続いているのか分からなくなった。
母がテーブルに手をついて立ち上がりながら、まああなたもそういう歳になったっていうことね、こんな話が出来るくらいに、と言う。私に向けられた、呆れているけどどこか嬉しそうな笑顔。そしてちょっとの悲しみを含めて。それも、温かかった。母が出て行ったあとの一人の部屋で、
まるきり一人ではないような気がして、安心したのか気付いたら私は眠っていた。だけど、彼の夢を見て、また、泣いた。目が覚める瞬間の、その度に体が無理矢理彼から引き剥がされるような感覚が一番苦しかったから、私はやっぱり眠るのも怖くなった。