Happiness
―――みなさんを助けたい。
その一心で私は空の向こうの神様にお願いしました。
狭くて青いあの空には願いを叶えてくれる神様がいたのです。
その神様は言いました。「助けたいのなら、あなたは私と一緒に
この狭い空の下の泉を守らなければなりません。」と。
私は言いました。「それでも構いません。みなさんが生きてくれさえすれば、それで……。」と。
神様はその一言に頷き、狭い空の下に生きる人々を助けてくれました。
でも、あと1歩――あと1歩のところで、私の愛するあの方は死んでしまいました。
私の腕の中で最後に紡ぎ出されたのは知らない女性の名前でした。
誰だったかは覚えていません。
あれから長い長い歳月が過ぎました。
私は一人でずっと泉を守り続けてきました。
みなさんを――あなたを助けたいがために私は神様にお願いをしたのに、
どうしてあなたは死んでしまったんでしょうか。
そんな思いが延々と廻り続けます。
あの方が死んでしまってから泣かなかった日は一日もありません。
毎夜毎夜、永遠の雨が泉へと降り注ぎます。
悲しくて、一人は寂しくて、それでも約束は私の老衰をも歪曲し、生き永らえます。
温もりのない闇を腕に抱き寄せ、泉に雨を滴らせます。
何年も何年も永遠に思われた約束に涙を滴らせました。
ある日、私は泉で水浴びをしていました。
濁りなく澄み切っている水は長年の努力の成果と言えます。
水面を見ると懐かしい空が見えます。
真っ赤に染まった紅葉と、青い空の彩りがとても綺麗でした。
その景色を一望しているとこで、私は殿方に出会ったのです。
愛したあの方にそっくりな―――。
殿方はその日から毎日泉に来るようになりました。
初めの1週間は共に挨拶で終わってしまいましたが、次の1週間は会話するまでに至りました。
話せば話すほどあの方に似ていました。
慎ましく微笑む姿や、丁寧な物言いまで。
その頃から私は殿方に好意を抱いていたんだと思います。
ある日、私と殿方で下町に行くことになりました。
あの日以来行ったことがなかったので楽しみではありました。
でも、少しだけ怖い気持ちもありました。
なぜなら、あれからもう長い歳月が経ているからです。
でも、そんな気持ちを抱いたことが馬鹿に思えるくらい楽しい時間となりました。
まず興味がそそられたのは、家屋が石でできていたことです。
その驚きは隠せるものではありませんでした。
殿方が言うには、それは『こんくりいと』というもので、でも私は
この時代の者ではないゆえに『紺栗糸』という文字が頭に浮かんできました。
恥ずかしながら違ったみたいです。
他には『けえき』というお菓子も頂きました。
白くて軟らかいそれは和菓子に匹敵するほどの美味でした。
季節が夏から秋へと移り変わろうとする頃、私は泉の水嵩が減っていることに気付きました。
水質は相変わらず綺麗だったのですが、明らかに量が減っていたのです。
約半分のところで、私は懐かしい声を聞きました。
「時は満ちました。今までこの泉を守っていただき、とても感謝しています。
しかしこの泉にも寿命が来ました。秋には枯渇しなくなるでしょう。
これであなたと交わした約束はなくなります。あなたを縛っていた永遠からも解放されることでしょう。」
私はその声の主が神様だということに聞き終えてからわかりました。
「それはつまり、どういうことなのですか」と問うと、
神様から「あなたの役目はもう少しで終わります。堰止めていた
時間は動きだし、本来の姿を取り戻すでしょう」と返ってきました。
そして初めて自分の体に纏わる呪い染みた事柄を理解できました。
本格的に秋になってきた頃、泉の水嵩は前よりももっと減って、底が見えるくらいまでになっていました。
秋風に揺らぐ水面を見つめていると、懐かしい思い出が浮かんできました。
あの方に出会い、そして死別―――
そしてまた出会い―――。
悲しいことも嬉しいことも大半はこの泉と共にありました。
私は毎日泉に来られる殿方が好きになり始めていました。
あの方に似ていなくとも結果は同じだったと思います。
私は確かにあの方ではなく、殿方が好きだったのですから。
―――だからこそ決心しなければなりませんでした。
同じ思いを殿方に強いたくなかったから。
「殿方にお別れを言わないと――」と、皺々になり始めた指先を見て決心しなければなりませんでした。
次の日、朝早くに殿方が泉に来られました。
そして私に話掛けてきました。
「下町に『………』しにいかないか?」
顔を赤らめ、恥ずかしげに言う殿方に私は疑念を抱きつつ、「はい」と一言返事をしました。
下町に何をしに行くのか、古人の私にはわからない言葉だった故に理解できませんでした。
……甘え、だったんでしょうか。
私はその『何か』を尋ねることなく、好機として頷いてしまったのです。
私の同意に目を見開き喜びを隠しきれていない殿方は、時間を忘れたかのように止っていました。
胸に秘めた私の気持ちもいと知らずに、殿方は右手を差し出してきました。
「…………」
私は言葉を失いました。
朝日に煌めく草原全てを俯瞰できる、そんな贅沢な場所に着いたのです。
そんな絶景を前に出でくる言葉などあるはずがありませんでした。
「……綺麗だろ」
程なく、真横から声がしました。
私はそれでやっと自我を取り戻し、言うべき言葉を見つけました。
「はい、とても……」
その時はそれで十分だったのです。
私たちは雲が地平線へと消え行くまで、昔と変わらない景色を見つめていました。
「伝えたいことがある」
景色を眺めながら私に目をくれることなく、殿方はそう言葉を紡ぎ出しました。
「奇遇ですね。私もあなたに伝えなければならないことがあります」
私がそう決意を言葉にすると、殿方は当然のように先を譲ってくれました。
―――あなたのことが嫌いです。
私はそう言わなければなりませんでした。
でないと殿方にあの苦痛にも似た切なさを強いることになるからです。
でも―――
殿方のことを心の底から愛していた私には『嫌い』とたった一言が言えませんでした。
『嫌い』―――そう考えるだけであって、出てくるのは汚い嗚咽ばかり。
―――それと、滝のように流れ落ちる涙。
やっと口に出てきたのは本当の気持ち――心の奥底から湧き出でてくる純粋な気持ち。
好きだから―――好きだから―――。
「一人にしないで」
大好きなあなたに頼りたくなってしまったのです。
殿方と初めて下町へ行った日、私はあるものを見てしまいました。
たくさん数字が並べられてあるそれは『かれんだあ』という現代の暦で、古人の私でも理解できるものでした。
故に自分に纏わった呪いに初めて私怨を抱きました。
2000年―――
私がいた時代からもう100年ばかり経ていたのです。
一切老衰しない私自身の体を見つめます。
「これが…約束」
確かにそう、私は言葉を零しました。
100年―――
短いようでとてつもなく長い――そんなことは私が一番身をもって知っています。
私はその長い長い歳月をたった一人で生き続けたのです。
泉の守人として、神様との約束を守るために身を徹し続けたのです。
……その辛辣は並大抵のものではありませんでした。
孤独に身を裂かれ、心も裂かれ、すでに枯れ果てた瞳からは一滴の雨も降らず。
それでもあの方の死を悔やみ、嘆き、身を切るように血の涙を泉に滴らせました。
……そんな苦痛を――辛辣を耐えることなどできるはずがありません。
ずっと一人だったのですから…
ずっと一人で寂しかったのですから…
―――あなたに初めてお会いしたことを忘れられるはずがありません。
心に決めた思いを圧壊し、純粋な気持ちが湧き出でます。
「一人にしないで…」
何回も何回も言い――
「一人は嫌です…」
目の前に佇む殿方の胸に飛び込みました。
「もう一人は嫌なのです…」
汚わらしく純粋な気持ちを胸にいっぱい秘め――
「私とずっと一緒にいてくれませんか」
私は私自身をありのままに伝えました。
風が草原を駆け抜けます。
緑の匂い、町の匂い――いろんな匂いが風と一緒に運ばれてきました。
「そんなの当たり前だ」
唐突に殿方は言いました。
「え?」
風が吹くことと変わらないくらい自然に運ばれてきた言葉に私は情けない声を漏らします。
殿方は振り向いて、私にこう言いました。
「だって『デート』ってそういうものだろ?」
温かくて優しい笑顔。
「好きな人と一緒にいたい、一緒にどこかへ行きたい、連れて行きたい
――だから俺はお前を誘ったんだ」
そっと手を握られます。
「つまり…?」
私が殿方をまじまじと見つめると殿方は恥ずかしそうに照れ、こう言いました。
「俺、なんかで良かったらずっと一緒にいてやるよ…」
私は何の躊躇もなく「はい…」と答えました。
雨なんかじゃない本当の涙を私はやっと零すことができたのです。
でも―――
私にはまだやらなければならないことがありました。
嫌われてしまっても構わないから、私は私に纏わる事柄を説明しなければなりません。
泉が枯渇し、身体に変化が来たすこと、それに伴う近未来化された死別のこと。
一人の辛さを知っていた私は今度こそ決意しました。
葉は紅葉し、泉の周りは赤一色に染め上がり、景色にも変化が見られるようになりました。
その日も私は泉を守ることに勤しみました。
減水傾向にあった泉はもう水溜り程度しかありませんでした。
点々と底は罅割れており、枯渇も間もないと窺えます。
「―――っ!?」
途端、身が軋むような痛みに襲われました。
ギシギシと骨が歪んでいくのが手をとるようにわかります。
指先から除々に老衰し皺々になっていきます。
絹のような私の黒髪にも僅かに変化が見られました。
「もう…時間はないのですね……」
これが神様の言う、刻の運命だったのでしょうか。
堰止められていた時間は何倍もの速度で私の身体を蝕んでいきました。
私は殿方を泉にお招きしました。
もう残された時間も僅少なため、一刻の猶予も許せなかったのです。
毎日来られていた殿方も今回ばかりは少し焦り気味に見えました。
「伝えなければいけないことって何だ?」
来て早々、殿方は詰問してきました。
「はい―――」
私はゆっくりと間を取り、殿方を真正面に見据えて言いました。
「私に纏わる物事全てを―――」
初めて『今の私』を目にし、殿方は固唾を飲み干すかのように喉を鳴らしました。
狭い空のこの大地にはナヅチという神様がいました。
その大地には私たち人間も共生していました。
世は戦乱が絶えることなく、人は死に、大地に血潮が染み入ります。
そんな愚行が神様の逆鱗に触れてしまったのです。
人は何故互いに殺し合うのだろうか―――
ならば一思いに蹂躙してみせよう―――と
突如にして、地割れんとばかりの震動と地響きが聞こえてきました。
狭い空の下に生きる人々は我を失ったかのように逃げ惑います。
一人、また一人と大地の口腔に嚥下されていきました。
「もうやめてえっ!」
私はそう叫びました。
「やめて、ください…!」
きっと届くはずない。
私がそう項垂れているときに声がしました。
「―――何故助ける必要があるのですか。
互いに殺し合う――そんな彼奴等を何故あなたは助けようとするのですか」
私はありのままに「この村――この狭い空の下の民々が好きだからです」と答えました。
すでにこの時には兄は死に、共に生活をしていた仲間たちも死んでいました。
互いを殺しあった愚行を容認できるわけありませんが、それでも私は彼らのことが好きでした。
瞳を閉じれば数々の思い出が浮かんでくるからです。
「あなたみたいな純粋な気持ちを持った人がもっと増えれば世も変わるのでしょうね…」
神様が悄然とした態度でそう言いました。
「――助けたいのなら、あなたは私と一緒にこの狭い空の下の泉を守らなければなりません」
私は言いました。「それでも構いません。みなさんが生きてくれさえすれば、それで……」と。
「――その約束が今もこの身にあるのです」
昔話を終えた私は今の自分を偽り、殿方に話掛けました。
「私がこうして老衰なしで生き永らえていたのは、その約束によるものなのです」
真実だけを殿方に伝えます。
「でも、その約束ももうすぐで意味がなくなります」
と、私は泉を指差しました。
「対象の泉が枯渇し、私の役目も終わるからです」
そして、もう一度殿方を見つめなおし
「あともう少しでこの身に100年の刻を刻むことになります」
私は両手を胸にあて、こう言いました。
「それでもあなたは私のことを愛してくれますか」
「―――っ!?」
身を裂くような痛みが駆け抜けました。
「いた、い……っ」
とうとう枯渇による身体の急激な老衰が始まったのです。
骨が軋み、歪み、100年の刻がこの身に流れていきます。
「…………」
殿方は言葉を失い、呆然と立ち竦んでいます。
当然のことなのです。
私は今から偽りの仮面を脱ぎ去り、本来の姿に戻ろうとしているのですから。
「いた……あ、い」
ギシギシと老化していきます。
痛くていたくて耐えることなどできそうにない苦痛。
―――それ以上の痛みには我慢できませんでした。
「……しにたくないっ」
「やだっ……せっかくあなたと一緒にいられると思ったのに」
「どうしてっ…どうしてですかっ…」
老化による痛みよりも私には耐えられない苦痛がありました。
あなたに嫌われ、また一人になるであろう未来には――。
「ひとりは嫌なんです…」
「またひとりはいやなんです…」
嗚咽は弱音として、汚い懇願を渇望しました。
どんどん殿方の背が大きくなっていきます。
私はどんどん小さくなっていきます。
―――ああ、やっぱり届かないのですね。
一つ……また一つ、私は涙を滴らせました。
当然のことです。
これから老婆に成り果てようとする女に好意を抱くことなどないのです。
でも―――
私は幸せでした。
たった数日でしたが、あなたと一緒にいられたこと。
このご身分でも――
100年分の恋ができました。
そっと、温かい何かに包まれました。
数回しか感じたことがないその感触は数回でも、たった一回でも忘れることのない感触。
「俺はお前のことを愛している」
「お前のことが好きだ」
「どんなに姿形変わっても、俺はお前のことを離したりなんかしない」
私の両手を包み込んだのは紛れもない殿方の手でした。
とても大きくて所々骨が出張った手。
ゆっくりと躊躇いがちに握られたことから、殿方は責任でも飾りでもない純粋な思いだったのが窺えました。
「はい…」
私はたった一言、そう返事をしました。
「はい」
確かめるようにもう一度、私ははいと返事をしました。
腕の中にいる私を見て殿方は驚きの表情を隠しきれてませんでした。
すっかりと老婆に成り果てているであろう私を見ればそれもしょうがないことだと思います。
「…………」
殿方は何も言わずにただただ抱いてくれました。
綺麗でないことは私自身わかっていたから。
殿方は無言に私の全てを受け入れてくれたのだと思います。
「ありがとう」
自分の声とは思えない声でそう一言言いました。
殿方は少し照れた笑顔を浮かべ、躊躇いがちに私の冷たい手を握ってくれました。
一時は無理だと諦めていた恋は、逆境を乗り越えやっと実りました。
これからどんな苦境が来られようと私たちなら乗り越えられる、そう確信できました。
歳の差、生きた時代の違い、そんなものは関係なかったのです。
ただ好き――その純粋な気持ちがあればどんなことも些細なものとなるのです。
晴れた空、滲んだ夕闇の輝きの中、殿方となら生きていける、私はそう確信できました。
風が、吹いていました。
秋の終わりを告げる、鋭さを帯びた風でした。
「そろそろ戻ろうか。冷たい風は、身体に毒だよ」
「はい」
私たちの間を、再び風が吹き抜けました。
その風から私を庇うように、殿方は身体を寄せてきました。
「あ……」
触れ合う、私たちの手。
「ごめんなさい……」
私がそう言うと、殿方はそっと私の手を握りしめました。
銀色に輝く指輪を薬指にした手―――
背後から抱きしめるように私の手にそっと重ねられました。
「ありがとうございます」
全てに感謝の意を込めて――
「あなたに逢えて幸せでした」
狭い空の向こうに100年分の恋を謳い終わりました。 ――――FIN
(RUNE/Purelyの追憶から抜粋。
独自なりに改竄し、小説化したものです。私的に用いるだけのものであるため特に許可は得てません。
ご愛読感謝します。)