1-29 処刑の日
海底から、ゆっくりと泡が浮き上がって行くように、意識が夢の世界から現実に向かって浮き上がる。
ふわふわとした意識の浮遊感が、再び眠りの海へと俺を攫っていこうとする。その心地いい浮遊感に身を任せれば、甘美な夢の世界が再び俺を出迎えてくれる事だろう。
しかし、俺はその浮遊感を振り払った。
いつもなら、二度寝三度寝上等なのだが、今日だけはダメだ。
目を覚ますと、そこはいつもの寝床。
“いつもの寝床”とは言っても、決して俺が住んで居たアパートの302号室ではない。薄暗い裏路地にある、小さな小さな猫達の広場。
改めて自分の手を眺める。
たんぽぽの綿毛のような茶色い毛に包まれた手。
誰が、どう見ても猫の手。
ここは異世界で………俺は猫で………いや、なんかシミジミ考えると、意味分からんな。なんで異世界で猫なの? 「元の世界で猫」とか「異世界で人間」とかじゃダメだったの?
ま、そんな事愚痴っても何も変わんねえか。
深い息を吐いて、空を見上げる。
雲1つなく、太陽だけが真っ青な巨大スクリーンを独り占めしていた。
処刑をするには、随分と晴れやかな日だこと……。
今日は、ユーリさんの処刑の日。
お祭り前のような高揚感と、試験前のような緊張感が心の中で絡みあって、言葉に出来ない何かを掻き立てる。
さあ、今日は忙しいぞ。気合い入れて行くべ!
昼の鐘が鳴るまで、残り3時間ってところかな?
昨日の夜から、魔族の方々が近所迷惑を考えずに処刑台を設置しているから、「処刑を急遽取りやめます」なんて展開はないだろう。
となれば、コッチもそれ用の準備をしておかなければならない。……つっても、猫の体じゃそこまでの準備なんてないけどな?
とりあえず―――町をぶらついて、人間達の反応を見る。
俺は今日、正面切って魔族に喧嘩を売る。
成功しても、失敗しても、後の歴史には「愚か者」と語り継がれたり、書かれたりする事だろう。
まあ、そんなもん知った事じゃねーけどな。だって、俺ただの猫だし。
町の人間達の処刑への反応は薄い……と言うか、魔族への恐怖心に頭を押さえられて、悲しいとか、怒りとか、そう言う感情を表に出せなくなっているように見える。
この調子だと、ユーリさんを助ける為の“貢物”を誰も用意しないだろう。
町の住人は、誰もこの処刑騒ぎの裏にある荷の盗難事件は知らない。だが、魔族達が「何かしらを持って来させようとしている」と言う意思だけは感じとっている。そして、その“何かしら”を持って行った人間が無事では済まない……と言う事も。
だからこそ、町の人間達は処刑を受け入れる。
たとえ処刑されるのが知り合いだろうが、身内だろうが、恋人だろうが。
……ってか、そもそも処刑されるのがユーリさんだって皆知らないんじゃないか? だって広場ではただ侵入者って呼ばれてたし。
まあ、ユーリさんだと知っていたからと言って、行動に変化があったかどうかは流石に知らんけども。
何にしても、援軍は期待できそうにない。元々1人……いや、1匹でやるつもりだったから別になんの支障もないけど。
町をグルっと一回りしたら、そのまま魔族屋敷に向かう。
ゆっくり回って居たつもりはないが、猫の足だとどうしても軽く回っただけでも2時間近く経過していた。
処刑まで残り、約1時間……。
正面門の前の広場には、昨日の夕方には無かった処刑台が用意され、数人の魔族が張り付いて見張っている。
処刑始まる前に、何か仕掛けでも出来ないかと思ったんだけど……流石にそこまで阿呆じゃないか……。
そもそも、人が集まり始めていて下手な事出来ないしな?
見咎められないように通り過ぎ、屋敷を囲む壁沿いに横に回る。
距離的にはギリギリここからなら届くかな?
何しに来たかっつうと、昨日屋敷に置いて来てしまったオリハルコン装備一式を回収しに来たのだ。
え? 人に見られたら騒ぎになるんじゃないかって?
むしろ、その方が都合が良いんです。
屋敷で勝手に騒いでくれれば、その分処刑の方に目が向かなくなるからな? 処刑場に乱入しようとしている俺には願ってもない展開だ。
と言う訳で、オリハルコンの鎧の場所は……と。
【バードアイ】が使えないから、中の様子は分からない。しかし、1度でも収集箱に入れた物なら、近付けばボンヤリとだが場所は分かる。
オリハルコン装備があるのは、3階の部屋のどっかだな?
【仮想体】を鎧の中にすんなり入り込ませる事が出来たって事は、誰かが着てた訳じゃなさそうだ。
移動してる様子もないし……どこかの部屋に飾られてたのかな? まあ、一応レアリティランクBの装備だし、戻って来たから大事にされてるのか。
まあ、それでもまた盗むんですけどね。
盗むつっても、外に出ている鎧一式を着ている仮想体ごと収集箱に放り込むだけの簡単な作業ですが。
とか考えてる間に回収完了。
屋敷の方は………静かだな? 騒ぎが起こってる様子はない。もしかして、近くに誰も居なかったのかな?
ま、いいや。これだけ目立つ鎧だし、そのうち誰か消えてる事に気付くだろう。
さてさて、広場に皆集まって来てるみたいだし、俺も移動するか。……っても、どこに行くかな?
出来れば、広場を見渡せる場所が良い。一応逆探知警戒して【バードアイ】を使わずに済むようにしたいからな。
そうなると、やっぱり高い場所が良いか? 人の家の屋根に上るのは猫の特権ですしね。
トテトテと歩いて、手頃な場所を探す。
広場に集まった人々は、皆どこか不安そうにしている。
しかし、それを口にする事はない。
言った途端に、広場を見張っている魔族が飛んで来て何をされるか分かった物ではない。
人と魔族の間には、絶対的で抗う事の出来ない上下関係がある。魔族が主人で、人は奴隷。
……うーん……俺の勝手な私見だが、主人と奴隷っつうよりは、苛めっ子と苛められっ子のような関係な気がする。苛めっ子は相手を虐げる事に夢中で、苛められっ子は圧倒的な力の前に従うしかない。ただ、苛められてる方は、決して現状を呑み込んで居る訳ではなく、「今に見てろよ!」と心の中で闘志を燃やしている……みたいな感じ。
まあ、闘志を燃やしたところで、実際に苛めっ子に殴りかかれるかどうかはまったく別の話だけども。
広場に面した2階建。
処刑台のほぼ正面。
うん、いいんじゃない?
人に見られないように裏に回り、隣の家の壁を使って、三角飛びの要領でヒョイヒョイッとジャンプして屋根まで上がる。
当然だが、屋根の高さまで上がれば、周囲には誰も居ない。
――― 昼の鐘まで、残り40分
静かだった人々の間に、波のように喧騒が広がって行く。
何事かと思ったら、魔族屋敷の門が開いていた。
そして……屋敷から連れて来られるユーリさん……。
申し訳程度に着せられたぼろ切れのような服。その隙間から見える体は昨日見た時よりも更に傷が増え、全身ボロボロで、色んな体液で濡れた姿はまるで―――打ち捨てられた雑巾のようで……悔しさや怒りが混ざって、なんだか泣きたい気分になった。
広場の人間達も同じようで、目を背けたり顔を覆ったり、中には泣きだしてしまっている人すらいる。
ボロボロの姿でも、見知った人間は魔族に連れられているのがユーリさんだと気付いたようで、「信じられない」と言う顔と「やっぱりか…」と言う顔の人達。
そして、処刑が始まる―――……




