序 黄金の勇者は猫と踊る
100年ほど昔の話―――人の世界に魔族が現れた。
あまりにも唐突に、まるで始めから存在していたかのように、不自然なまでに自然に魔族は降り立った。
どこぞの異世界から出て来たのか、はたまた何らかの超自然的な力によって突然産み落とされたのか、それは誰にも…魔族達にすら分からない。なぜなら、魔族達には記憶がない。
魔族達が持って居たのは、真っ白な記憶と、力の赴くまま暴れたい破壊衝動、弱者を踏み潰そうする支配欲、そして戦闘と食事と情交の先にある体を熱くする欲求。
魔族達はその衝動に、その欲求に逆らわなかった。
そして、世界中で蹂躙が始まった―――…
人間達も無抵抗だった訳ではない。
鎧を纏い、剣を持ち、火を掲げ人間達は魔族達と戦った。
しかし、あまりにも魔族は強かった。肉体能力も人では比較にならない程圧倒的であったが、それ以上に人間を苦しめたのが魔族の使う“魔法”。自然を操る驚異の力に、なすすべなく人間の戦士達は倒れて行った。
魔族が現れてから3年ほどは人間達も小さな抵抗を続けていたが、その間に魔族達の中でも大きな変化があった。
魔族の中で特に強い力を示した13人を王として、魔族達が組織となって行動を始めたのである。
数の利で辛うじて抵抗出来ていた人間達は、13人の“魔王”の手によって蹂躙されようとしていた。
しかし、そんな時ふらりと人間達の中にも現れたのである。
魔族と戦うだけの大きな力を持った“勇者”が。
そこから約80年間、勇者と魔王の長い長い戦いが続いた。
魔王が倒されれば新しい才ある魔族が台頭して次の魔王となり、勇者が倒されればその意思を継いだ次の勇者が剣を握る。
何度も何度も、何度も何度も殺し殺される戦いの果て―――巨大な戦争が起こった。
魔族軍は、13人の魔王のうち8人もの魔王が参戦した。
一方人間軍は、始まりの勇者の意思を継いだ10人の勇者が最前線に立った。その身に纏う鎧や武器は、いつの間にか勇者の手に引き継がれるようになっていた神の武具。
3日3晩、朝も夜もなく殺し合いが続けられ、そして
人間は敗北し、世界は名実ともに魔族達の物となった―――…。
勇者の持っていた神の武具の大半は魔族達に奪われ、勇者の名前は忌むべき物となり、町は魔族に支配され、人間は奴隷へと堕ちた。
それが、丁度10年前の話。
* * *
魔族の支配する、とある町。
魔族達の住まう城のような巨大な屋敷の前の巨大な円形広場。そこに、町中の人間が集められていた。いや、人間だけでなく魔族達も全員集合していた。
広場を埋め尽くす人の群れ、その中心にあるのは―――処刑台。
「よく見ておけ人間どもッ!! これが、我等魔族に歯向かう人間の末路だ!!」
台座に首と手を固定されているのは、薄汚れた金色の髪の少女。
町の人間は彼女をよく知っていた。
魔族に支配され、誰もが下を向く町の中で元気に走り回って皆を元気にしていた少女だった。
その、野に咲く花のような笑顔と、透き通るような金色の髪でコロッといかれてしまった男はかなり多い。
しかし、今の彼女の顔は……体は、酷い姿だった。
顔はこれ以上腫れる場所がないほど歪められ、美しかった髪は血と埃と糞尿に塗れ、体中に裂傷や刺傷、火傷に打撲痕、それに噛みつかれたような牙の痕もいくつか見え、どの傷からも止め処なく血が溢れて流れ続けている。
そんな少女の髪を無造作に掴み、処刑台の周りに居る人間達にその顔を見せる。
「どうした? 助けにこんのか?」
挑発するように全身毛むくじゃらの狼男が言う。
人間達が処刑台に近付けないように立って居た魔族達の見下した視線が、人の群れの中を泳ぐ。
誰も動かない。……いや、動けない。
助けようと行動を起こせば、その瞬間に殺される。
抗議の声をあげただけでも、おそらく次の瞬間には肉片にされるだろう。
人間達は、体の―――心の奥底まで魔族の恐怖を刻み込まれて居た。
だから、動かない。
だから、動けない。
人間達の中には、処刑台の少女を助けたいと願う者もいる。だが、刻まれた恐怖心が指先すら動く事を許さない。
魔族達もそんな事情を理解している。
笑う。嘲笑う。何も出来ない弱者を。家畜の様に自分達に飼われる事しか出来ない無能を。下等な人間に生まれた不幸を。
笑う。笑う―――
「はぁっははははは! 残念だったな? お前を助けてくれる人間は誰も居ないぞ?」
処刑台の少女の髪から手を放し、楽しさに任せてその腫れあがった頬を張る。
少女の瞳が怒りと悔しさで涙を流す。
「バカが。人間風情が我等に逆らうからだ!」
他の魔族達も、同意するように蔑みの目を向ける。
「聞け人間共ッ!!! 魔族に逆らう愚か者が現れた報いは貴様等の命で払え!!」
一瞬の静寂。
狼男が何を言ったのかが理解出来なかった。
だが、次の瞬間には理解が追い付き、そして「死ね!」と言われた事に気付いて阿鼻叫喚の騒ぎになる。
逃げ出そうとした者達が魔法による拘束で地面に縛り付けられ、苦し紛れに魔族に戦いを挑んだ者は首を落とされて死んだ。
処刑台の少女が始めて口を開く。
「や…めて……! み、んな……は……かん……けい、な…い…!」
「連帯責任と言う奴だ。だが心配するな、全員は殺さん。家畜を全部殺すような事になれば、魔王様にお叱りを受けてしまうからな!」
狼男は、チョイチョイっと指で隣の魔族を呼ぶ。
呼ばれた魔族はその意図にすぐ気付き、手に持って居た斧を手渡す。
斧の刃が、曇天から射す微かな光を反射し、処刑台の少女の顔を鋭く照らす。
「なぁーに、お前は他人の心配をする必要はない」
楽しそうに笑いながら、動けない少女の首に向かって斧を振り上げる。
処刑台に上がった時から少女には覚悟があった。しかし、それでも死を目の前にすると心が揺らぐ。
頭の中で両親や仲間の顔が浮かぶ。
だから、少しだけ思ってしまう。
――― 誰か、助けて…!!
知らず体が震える。
数秒後に訪れず死が怖くて涙が流れる。
「ははっ、死を前にしてようやく人間の分を理解したらしいな? それで良いんだよ家畜! その我等を恐れる顔のまま死ねッ!!」
恐怖に耐えられず、少女は目の前の光景から逃避する為に目を閉じる。
――― 鮮血が飛び散る。
「……?」
少女は無事だった。
狼男の持つ斧は振り下ろされなかった……否、振り下ろす事が出来なかった。何故なら―――
「…な゛、に゛ぃ……っ!?」
狼男の首を白銀の刃が貫通していた。
汚れ1つ無い、刃渡り約1mの直剣。柄にはチューリップを2本結んだような装飾が施され、剣の纏うその美しさと神々しさは、明らかに普通の剣ではない事を証明している。
狼男は耐えられず口と首の傷から血を噴き出し、斧を落とした後、ヨロヨロと2歩歩いて倒れた。
「な、なんだ?」
突然の事態に魔族達の動きが止まる。
仲間がやられた事への憤怒はある。だが、それ以上に警戒が先に立った。腐っても魔族達は根っからの戦士だ。
処刑台の下に居た魔族の1人は見ていた。
広場に面した建物の屋上辺りから、狼男に向かって剣が放たれるのを。だが、警告を口にするよりも早く狼男は貫かれて居た。
仲間をやられた事は悔しいが、引き換えに敵の位置は分かっている。
「そこだ!!」
魔法によって生み出された火球が、剣の放たれた屋根に向かって飛ぶ。
着弾の直前―――黄金に輝く何かが屋根から飛んだ。
空中を駆けるように飛んだそれは、遅れて爆発した火球の爆風に押されながらクルリと一回転して体勢を整え、処刑台の上に居た魔族を蹴り落として着地した。
それは―――黄金であった。
金色の全身鎧。
頭の先から爪先まで金色。
戦場においては煌びやか過ぎる色。そして、目立ち過ぎる色。
だが、違う。それが目的だ。
この金色の鎧の主は、むしろ「自分を狙え」と雰囲気が言っている。
――― 他の人間を狙う余裕があるのなら、その剣を、魔法を自分1人に向けていろ!
そんな、敵を挑発するような堂々とした立ち姿。
肌の露出はまったくなく、鎧の上からでは性別も、人種も、年齢も、何も分からない。ピンと伸びた背筋と、油断の無い体運びだけが明らかに普通の人間ではない事を教えてくれる。
黒いラインの装飾の施された兜。目元のスリットの奥は暗く、瞳は見えずどこに視線を向けているのかすら分からないが、ゆっくりとした動きで兜が動き、処刑台の少女に向く。
そして数秒の観察。
少女の無事を確認したのか、無言のまま小さく頷くように兜が縦に動く。
「黄金の……騎士…?」
民衆の中で誰かが呟く。
絶望的な状況に現れたその姿は、まさしく正義の騎士だった。
だが、その呼び方には間違いがあった。
無言のまま、黄金の騎士は狼男の首に突き刺さって居た剣を引き抜く。
その剣は普通の剣では無い。
勇者の手に受け継がれて来た神器と呼ばれる武具のうちの1つ。そして、10年前の戦争の敗北によって人の手を離れていた幻の武器。
剣の名は≪旭日の剣≫。
またの呼び名を―――勇者の剣。
誰にでも持つ事が許される量産品の武器では無い。
その剣を持つ事が出来る者は、その資格を持つ者のみ。
つまり、金色の鎧の主は「騎士」ではなく―――
「黄金の……勇者…様…?」
処刑台の少女は、目の前に現れた希望に縋るように呟いた。
誰もが勇者の剣を握る“黄金の勇者”に目を奪われる。
だから、誰も気付かない。
壊れた屋根の上で、小さな子猫が広場を見下ろしている事なんて―――。