4-32 太陽に照らされて
剣の勇者の立ち去った部屋の中で、ツヴァルグ王国の元国王エリックは静かに息を吐く。
改めて自分の手を見る。
少し皺のある、どこにでも居るごく普通の人間の手だった。
「人に戻れた」という感慨を手の中で握りしめる。
10年前の魔族との戦争で人間が敗北し、自分をはじめ妻と娘も見せしめの為に家畜の姿へと変えられた。
そういう結果は覚悟していた。
いや、最悪殺される事を考えれば、むしろ最悪の結果ではなかったと言ってもいい。
しかし……しかし、それでも、この10年は絶望のどん底だった。
いつ終わるとも知れない地獄のような日々。
自分は良い。
敗北する事も覚悟したうえで戦争に踏み切る事に賛成をした1人だ。だが、その巻き添えで子豚と鶏に変えられた2人には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
――― 王族なのだから
その一言で耐えるには、家畜の姿はあまりにも過酷だ。
特に、年頃の娘であったレティシアにはどれ程の苦しい生活だったかは想像に容易い。
自分達に心配をかけないように口にも顔にも出さなかったが、きっと内心は心が壊れかねない程の痛みを感じていたのではないだろうか?
そう思うと、王として……それ以上に父として情けなく思う。
終わらない絶望。
その象徴である、この国を支配する魔王バジェット=L・ウェイル・ユラー。
近づくだけで敵を殺し、遠距離からの攻撃の全ては、金属のような体の異常な防御力で阻まれる。
絶対に倒すことが出来ない化け物。
しかし、その魔王を倒さない限りこの絶望の日々は終わらない。
つまり、この絶望は終わる事はない……という事だ。
そう思っていた。
未来は無いのだと。
10年前の敗北で、人類の歴史は終わったのだと。
そんな、“停滞”と言う名の絶望の毎日が続いた頃―――唐突に、終わりの日が来た。
――― 剣の勇者
唯一、神の与えたもうた神器を振るう事の出来る人間。
そして、魔王に対抗できる人類の切り札。
隣国の魔王アドレアスを倒したと噂される2人の勇者の片割れ。
風のようにフラッと現れ、娘の体を人に戻した正体不明の黄金の鎧を纏う騎士。
自分たちにかけられていた呪いを解き、終いには魔王バジェットを既に倒してきたという。
馬鹿馬鹿しい話だった。
剣の勇者に味方がいるような様子はない。
であれば、たった1人であの無敵の怪物を倒したという事になる。
そんな事が有り得るのか?
そんな事を出来る人間が存在するのか?
信じられない話だった。
だが―――「もし、本当なら!」と言う期待もある。
そして、その小さな小さな期待と希望を証明するかのように、勇者に渡された王冠。
生命の王冠。
かつてツヴァルグ王国の王位を示して居た至宝。
忘れもしない。
戦争の敗北から2日後、「城を明け渡せ」と玉座の間で言い放った魔王バジェットが、皆の目の前でグシャリとこの王冠を握り潰し、「おめでとう人間諸君。これから君達は魔族に奉仕する家畜だ」と言い放ったあの瞬間を。
壊れた王冠がその後どうなったのかは分からなかったが、それは絶望を象徴する物であり、取り戻したいと思うような物でもなかった。
どれ程腕の良い細工師でも、あれだけ酷い壊され方をすれば元通りにするのは不可能だ。であれば、1から溶かして作り直すしかない。しかし、生命の王冠を作れるだけの腕を持つ者なんてこの国の中には残っていないし、居たとしても魔族がそれを許す筈もない。
それなのに、今、生命の王冠は元通りの姿で戻ってきた。いや、元通りどころか、金属のくすみや小さな傷も無くなって新品その物の姿になっていた。
「お父様、王冠が戻って嬉しいんです?」
娘の問いかけに思考の中を漂っていた意識が現実に戻る。
「うむ、そうだな? 嬉しい事は間違いないが、ふむ……今代の剣の勇者は、もしかしたら勇者の歴史の中でも最強かもしれんな?」
「そうなんですか? 剣の勇者様が優れた方なのは私にも分かりますが……」
10年前の戦争の前に、先代の勇者全員と会った事があるが、その中に魔王と一騎打ちで勝てる程の強者は居なかった。だが、それでも目の前に立てば、全員が素人でも分かるほどの強い気配……言ってしまえばオーラのような物を纏っていた。
しかし―――今代の剣の勇者は逆だ。
目の前に立たれても、そこに人間が立っているのだと感覚が認識しない。
まるで、鎧だけが歩いているかのようだった。
それに、剣の勇者は1人だ。
過去の勇者達は、むしろ単独行動を嫌うきらいがあった。しかしそれも当たり前の事で、勇者が死んだとしても、魔王のように確実に次が生まれてくれる訳ではないし、生まれたとしても戦場に立てるようになるまでどれだけの時間がかかるか分かった物ではないからだ。
それなのに―――剣の勇者は1人で魔王を討ちに行き、それを成功させた。
隣国の魔王アドレアスを一緒に倒したと言う杖の勇者が一緒に居るかもしれないとも思ったが、あの抜け目ない魔王バジェットが勇者2人が国の中に入るのに気づかない訳がない。そして、もし勇者2人が居たのなら、この町に参謀を寄越し、町を襲わせる部隊を捻出している余裕なんてないだろう。
つまり、剣の勇者は1人だったからこそ魔王に動向を気付かれず、城に居た魔王を討ち取れたのだ。
いや、そもそも普通の精神なら、1人で魔王の居城に行く事なんて思いつきもしないだろうし、思いついても実行しようなんて思う訳がない。
異質―――。
今代の剣の勇者は何もかもが異質だ。
だが―――だからこそ強い。
今までに魔王を討とうと向かって行き、敗れていったどの勇者よりも。
「そう言えば、剣の勇者様はどうして自身の偉業を黙っているようにと?」
剣の勇者は、去り際に言った。
正確には言ったのはレティシアの連れている子猫らしいが、猫の言葉は【神の門の塔】の力を持つ娘にしか分からないので、実際に聞いた訳ではないが……。
『自分がこの国に居た事は秘密にして欲しい。魔王ガ……バジェットはこの国の騎士達が討ち取ったと言う事にしておいて下さい』
そんな事を言った理由は分かる。
―――この国の為だ。
城仕えだった者達の忠誠心は高い。
しかし、国民の全員が全員そうな訳ではない。
むしろ、家畜の醜い姿になり、魔王の支配を許している王族に憤慨している者は多い。
それを解消し、この国の立て直しを早く終わらせる為。
ツヴァルグ王国は農業に力を入れている国だ。
その甲斐あって、東の大陸の国の大半は、この国から何かしら食べ物を輸入していた。
魔王によって国が支配されてからも、周りの国との関係はそれ程変わっていない。
では、これからはどうか?
もし勇者の手で次々に国を取り戻したとしよう。そうなった時、どこの国も魔族に好き勝手されてボロボロだ。下手すれば、まともに食料の供給が出来ていない所だってあるだろう。
国単位の話でなくても、何かあれば食料問題はどこにでもついて回る問題だ。
そうなった時の為のこの国だ。
潤沢な食糧を持って、需要を多少は引き受ける事が出来る。
だからこその早急な立て直し。
剣の勇者は、目先の名声や褒美なんて見ていない。
先の先―――人間が魔族から世界を取り戻した時の事しか見ていない。
そして、剣の勇者には、確たるその未来が見えていて、実際にそれを実現させるだけの力がある。
降って湧いた、あまりにも大きな……大き過ぎる、目が眩みそうになる程の希望。
今日も目が覚めた時は「絶望の1日が始まるのか……」と暗澹たる思いで居たものだが、気付けばこうして家族共々人の姿に戻り、希望を胸に笑っている。
「絶望が濃くなれば、そこに光を齎す希望もまた大きくなる……か」
10年。
10年だ。
10年の月日を待った。
いつ終わるともしれない絶望の日々に10年間家族と、尽くしてくれる家臣達と耐えた。それが、今報われた。
「お父様?」
「いや、なに。そう言えば、剣の勇者にはもう1つ呼び名があった事を思い出してな?」
絶望と言う名の闇に閉ざされた夜を終わらせ、希望と言う名の光で世界を照らす者。
その手に握る、神の与えた剣の名に因んだ呼び名。
「“太陽を呼ぶ者”とな」
「あはっ、それは良い呼び名ですね! とてもあの方にピッタリです!」
「そうね。丁度鎧の色も黄金―――太陽の色ですもの」
「なるほど、確かに」
そう言って、10年ぶりに声を出して家族は笑い合った。




