カナリヤ
不調律な雨音が暗い木の壁に染み込んでいく。不規則に高低さまざまな音が流れ込み光を置き去りにして音だけが存在しているこの部屋に一羽のカナリヤとおぼしき声が微かに響いた。次第に声は耳障りな程に不調律な雨音に秩序を与えたかと思わせる甘美なハーモニーとなり歌が空間を満たした。やがて光が差しこみぼんやりと写し出された部屋の中心―大きな木椅子の上―に歌声の主がその姿を顕にした。声はカナリヤそのものだったがその体には比にならない美しさがあった。10月の稲穂のような黄金色の体躯に1月の雪のように真白な嘴を携えたその姿は、女神のそれと同等、あるいはそれ以上の輝きを放っていた。
僕は彼女―既に歌声に魅せられた僕にはそれが女神にしか見えなくなっていた―に近づきたくて、その声を全身に染み込ませたくて部屋の中へ進んだ。次第に増す光、歌声もいよいよフィナーレを思わせる盛り上がりを見せた。また一歩、彼女の躰は眩しすぎて眼を開けることすらかなわなくなった。その分鋭敏になった聴覚が余すことなく音を拾う。風の音、雨音、木椅子の軋む音、彼女の呼吸、そして歌声。
既に僕の聴覚は僕のものではなくなったのかもしれない。それは僕の意思を無視して無邪気に音を求めているのだろうか。また一歩。聴覚に続き視覚もまた僕のものではなくなったようだ。無邪気に彼女を追い眼を離すこともかなわない。しかし不思議と感覚を「奪われた」とは思わなかった。それぞれがそれぞれの意思のもと彼女を求めているのだ。
彼女の歌は不思議だ。五感を制御出来なくなり普通ならば戸惑い、あるいは不条理に対する怒りを抱いていただろう。しかし今の僕にはこの理解しがたい状態を当たり前に受け入れることが出来た。五感がもとから独立した生物であったのだと、そしてそれを「僕」という自我が無理矢理結びつけて僕を名乗っていたに過ぎないと。だからこそ彼女の歌は僕―この場合は僕を構成している五感を指す―にとって救済であった。その躰に近づく程に味覚、触覚、嗅覚を順に救われていった。最後に残った「僕」が彼女に近づく。
「僕」は底知れない欲を持っていた。僕の本質であり、同時にひた隠しにしてきたもっとも強くもっとも弱い存在、それが「僕」だった。「僕」は彼女すらも欲した。その身を覆う全てが救われても尚求めた。雨が止み、彼女は静かにノクターンを奏で始めた。そして「僕」は彼女を…食べた。その躰を食べた。残酷に、それでいて血の一滴も滴らせることはなく。僕に止めることは出来なかった、止めようと思うことさえもなかった。僕は「僕」なのだ。
「僕」は食べ終えた。歌声は途絶え光は消えた。「僕」は一人になった。彼女は「僕」の欲する全てを持っていた。
だから「僕」は「僕」自身を食べ始めた。己の一部となりながらも僅かに残る彼女を全て残らず欲しかった。
「僕」が消えていく。
「僕」が「僕」を完全に食べ終えた時何もかもが消えた。「僕」も僕も彼女も光も闇も世界も。
(Fin)