この中に1人、俺に惚れている奴がいた
密室と言っても過言ではない閉鎖的な空間で、俺が愛の告白をしてからだいたいひと月ほどが経った。
平凡、というよりはやや程度の低い学生生活の中で唐突に行ったあまりに挑戦的過ぎる行為。
いまだにあの日の衝撃は冷めやらず、俺があんなことをしたのは本当に現実だったのか疑わしくなるほどだ。
「よし、まあ、これでいいだろう。二度とここに呼ばれないようにしろ」
そんな俺は今日も数学の補講に勤しんでいるところだったが、それもなんとか無事切り抜けることができた。
教壇には重い溜め息を吐く綾辻女史が立ち、俺の回答用紙を微妙な顔をして眺めている。
いつにもまして疲れている様子だ。そういえば結局、彼女の年齢はいくつなのだろう。三十路だったはずだが、詳しい話はいつ聞いても教えてくれない。少しだけ気になる。
「先生はおいくつなんですか?」
「お前は最近いよいよズケズケものを言うようになったな。そんなことを知ってどうする?」
「たしか三十路ですよね?」
「〇すぞ。誰が三十路だ。私はアラサーだと言ったことはあるが、三十路だと言ったことはない」
「え? そうなんですか?」
しかし意外な事実がここで明かされる。
なんと綾辻女史はアラサーではあるが、三十路ではないという。
たしかに今思えば、三十路とは三十歳そのものを指す言葉だ。俺が先生の年齢を正確に把握できていないということは、三十歳前後という情報のみが与えられているということ。
どうやら三十路とアラサーを何か混同して覚えてしまっていたらしい。
この言い方だと、綾辻女史はまだぎりぎり二十台なのだろうか。
「……二十九歳!」
「お前は本当にクソだな島田。私はもう戻るぞ」
結局綾辻女史は自らの年齢を明かすことなく、空き教室を出ていく。
がらんどうの教室に残されたのは俺一人で、今回の補講に呼び出された者は他にいなかった。
有栖川アスミは今頃、軽音楽部の部室でいつものように、彼女らしくギロを奏でていることだろう。それはここでは彼女にしかできないことだ。
西尾響は今頃、付き合って二ヵ月は経とうとしているのに、手すらまだ繋げていない初心な彼氏とデートにでも行っていることだろう。牡蠣が食べれる季節になるまでは、きっと彼女はメロンパンとハンバーガーで空腹を満たしているはずだ。
法月知恵は今頃、体育館で人懐っこい仮面を顔に張り付けて汗を流していることだろう。最近はいよいよ調子が上がって来て、ここらの地区では敵なしといった仕上がりらしい。裏ではどうか知らないが、一応表面上は楽しんでバスケットボールをしていると思う。
そんな三人と綾辻女史のいない空き教室はいつもより広く見え、俺は少しだけ寂しい気分にならなくもなかった。
廊下側後方の自席に戻り、鞄を手に取ると、ふいに清掃用具入れのロッカーが目に入り、俺はそれにしばし見入る。
「紗勒。早く一緒に帰ろう」
するといきなり俺の名を呼ぶ声がして、一瞬ロッカーの中から聞こえたのかと驚いたが、そんなことはない。
ただ教室の外から一人の少女が俺の名を呼んでいただけだった。
「ああ、今行くよ、チャチャ」
探偵役とは違う役柄に変わったと言って、俺をシャーロッくんと呼ばなくなった彼女に言葉を返しながら、俺も空き教室を後にする。
この中に1人、俺に惚れている奴がいた。
そう思うと清掃用具入れのロッカーにも何か愛しさを覚えなくもない。
しかし今の俺は、他の何よりも愛しい存在に呼ばれていたので、そんな感慨も程ほどに、他の皆と同じように空き教室を後にしたのだった。
これにて島田紗勒の事件惚は完結です! 最後まで読んで頂けた方には心から感謝を!




