彼女が俺に惚れている③
法月知恵との邂逅の後、俺はいつものように特に寄り道することなく真っ直ぐと帰路についた。
家には誰もいなかったが、知らない内に見覚えのないドラムセットが廊下に置いてあり、また父が母の怒りの種を増やしたのだとわかった。
自分の部屋に入ると、ブレザーをハンガーにかけ、他の服は着替えることもせずそのまま二段ベッドの下へと身体を投げ出した。
長い、長い一週間だった。これほどまでに長い一週間は生まれて初めてだろう。
数学の補講に呼び出されてから、たった七日しか経っていないとは思えない。
あの日、俺に届けられた手紙。
そこには真摯な想いが綴られていて、いまやその差出人が誰かもわかっている。
だが俺の心内は灰色に燻り、喜色に晴れ渡ることはない。
理由は簡単だ。ラブレターの手紙の差出人に大きな問題があったのだ。
西尾響。彼女こそが俺に手紙を書いた人物であることはすでに確定している。
筋金入りの西尾ファンであった法月による筆跡鑑定。
それに加え、法月から教えて貰った西尾のメールアドレスに連絡を入れたところ、本人から肯定を意味するメッセージも返ってきている。
“その手紙を書いたのはたしかにあたしで間違いない
詳しい話は明日の朝七時あの教室で”
西尾響にはすでに恋人がいる。
しかし彼女は俺にラブレターを書いたとあっさり認めた。
サンコーの中で噂になっているくらいだ。彼女に恋人がいるのも本当なのだろう。
「つまり、タチの悪いイタズラだったってことか……?」
この長い長い一週間の果てに手に入れた解答は、あまりに虚しく空っぽなものだった。
西尾に対し怒りはもはや生まれてこない。
なぜ?
思い浮かぶのはそんな疑問だけだ。
俺へとこのようなからかいの手紙を送る理由がわからない。
短い間だったが、俺は西尾響という一人の人間に好意的な印象を抱いていた。
少し自分勝手なきらいもあったが、それ以上に人間的に愉快な、信用のおける相手だと思っていた。
恋人にはなれなくとも、良い友人になれると思っていたのだ。
しかし、全ては嘘だった。
裏切られた、と僅かに感じなくもないが、西尾からすれば最初から俺は愚かな道化でしかなかった。
きっとこれは裏切りですらない。
ただの冗談。そう、ちょっとした冗談だったのだろう。
「……どしたの、兄貴。何かあった?」
その時、ベッドに寝転がる俺の頭の上に、ひょこっと心配そうな表情をした顔が飛び出してきた。
どうやら妹の小楠が帰って来ていたようだ。
「何もないさ。いたって平常運転だ」
「いや、どこがよ。メチャクチャ落ち込んでるじゃん。ここ最近はなんかずっとご機嫌だったのに」
他人から見ると、今の俺は落ち込んでいるように見えるらしい。もちろん実際はそんなことはない。ああまったく落ち込んでなどいないさ。
さらにここ最近の俺はご機嫌だったと言う。なんとも間抜けな奴だ。
おそらく自分に誰かしらが好意を抱いていると、惚れていると幸せにも勘違いしていのだろう。
「……もしかして、フラれた?」
「まあ、そんなところだ」
「ふ、ふーん、そっか。そうなんだ」
やけに疲れていた俺は小楠に適当な返事をする。
告白されたのは俺の方のはずなのに、フラれたとはこれまたずいぶん滑稽な話だ。
だがそれも俺に相応しいような気がした。
「でも、高校生の恋愛なんてそんなもんだよ。ほ、ほら、皆、簡単に付き合ったり、別れたりさ。そんな高校生の間に出会った女の人が、人生の全てじゃないじゃん? だからそこまで、深刻に考えなくてもいいと思うよ」
「ああ、そうだな」
小楠は必死で俺を慰めてくれる。普段は俺に若干厳しめの彼女がここまで世話を焼いてくれるとは、どれだけ情けない顔を今の俺はしているの逆に気になるくらいだった。
「あ、そ、そうだ。今日は母さん遅くなるって。だから出前とか頼んでいいらしいよ! うち、もうお金預かってるし。ど、どうする? 特別におにぃが何食べるか選んでいいよ!」
小楠はなぜか今にも泣き出しそうな表情でそう躍起に言葉をかけてくれる。
昔の癖で俺のことをおにぃと呼んでしまっているが、その事にも気づいていないほどだ。
優しい妹だ。こんな出来そこないの兄を慕ってくれるなんて。小楠にもそのうち彼氏ができるのだろうか。いや、俺が知らないだけでもうすでにいるかもしれないな。
「ありがとう小楠。気にかけてくれて。小楠に惚れられる奴が羨ましいよ。これほど可愛くて優しい女の子はそうはいない」
「は、はあっ!? い、いきなり何言っちゃってんのっ!? マジキモイんですけど! もしかして慰められてるとか思っちゃってますぅ!? 違うからね! マジそんなんじゃないから!」
「そう照れるなって」
「照れてねーし! 馬鹿じゃん!? マジ馬鹿! これだからサンコーは!」
「顔真っ赤だぞ」
「代謝! うちは代謝がいいの! ば、ばーか! ばーかばーか!」
素直に感謝の言葉を伝えただけなのに、小楠はむきになって喚いている。
感情表現が実に豊かだ。それも彼女の数ある長所の一つだろう。
「ピザがいい」
「は? なにが……ああ、夕飯ね。わかった。うちもそれでいい」
「悪いな」
「べつに。うちもピザ食べたかったし」
俺が出前にとるメニューを指定すると、小楠もそれを受け入れてくれる。
まだ耳まで赤くしてそっぽを向いているが、もう怒っていないようだ。
「ピザはうまいからな……メロンパンなんかよりもよっぽど」
出前の注文を小楠に任せると、俺は瞳を閉じる。
少しだけ、眠りたかった。
一分でも、一日でも、一週間でもいいから、とにかく一度眠りたかったのだ。
空気澄み渡る朝。
とっくにシーフードピザを消化し終わった腹を揺らしながら、俺はサンコーの校門をくぐる。
耳を傾けると朝練でもしているのか、体育館の方から床にボールをつくような音が聞こえてきた。
時刻は六時四十五分。昇降口には誰もいない。
放課後とはまた違った静謐さが広がる早朝の学校は新鮮に思える。
階段を一段、一段飛ばさずに昇り、まずは二年A組の教室へ向かう。
今更になって西尾との待ち合わせに行くのが億劫になったわけではない。先に通学鞄を置きに行こうと思っただけだ。
いつもより幅広に見える廊下の真ん中を歩き、慣れた手つきで扉を開く。
この教室の隣りにはもう、西尾がすでに来ていたりするのだろうか。
「あら、おはよう島田くん。あなたもシー・アム・レジェンドごっこをしに来たの?」
すると予想外にも、まだ誰もいないと思っていた二年A組の教室には先客がいた。
白蓮のような清廉な少女が、あろうことか教壇の上に登って立っていたのだ。
変なところで礼儀正しく、内履きはきちんと脱いでいる。
「……お、おはよう。有栖川さん」
「ええ、おはよう。島田くん。あ、そうね。あなたは男の人だからヒー・アム・レジェンドになるのかしら」
教壇の上から二度目の挨拶を返してくれるのは、有栖川アスミで間違いなかった。
しーあむれじぇんどだの、ひーあむれじぇんどの意味はさっぱりわからないが、きっと気にしても無駄だろう。
「いつもこんな朝早くに学校に来ているのか?」
「いつもではないわ。時々ね」
いつにもまして神秘的な有栖川は深い海を想起させる碧眼で俺を上から見つめている。
携えられた微笑は、どこか寂しそうにも見えた。
「こうやって早い時間帯に登校すると、教室に誰もいないでしょう? 普段なら沢山の人がいる場所で、自分の視界に人がいないと、まるで私以外の皆が世界からいなくなってしまったような気持ちになる。私だけが取り残されて、私だけ一人ぼっち。そういうのが私、好きなのよ」
有栖川の言う“そういうの”、の意味がいまいちよくわからなかったが、とりあえず曖昧に相槌を売っておいた。
ただ孤独になりたいと彼女が思っていることは、ほんの少しだけ意外だった。
「有栖川さん、一つ訊いてもいいか?」
「あら、島田くん。なにかしら?」
そして俺は僅かに残された疑問を胸に、どうしてもというほどではないが確かめておきたいことを訊ねる。
一週間ほど前も似たような問答をしたことがある気がするが、その時はどんなことを訊ねたのか覚えていない。
「君が去年まで俺に惚れていたというのは本当か?」
「……ええ、本当よ」
「なら、その後、俺に興味を失ってしまったというのも?」
「……ええ、それも本当よ」
思い切って訊いてみれば、守屋の言っていたことはどれも真実だったようだ。
一週間ほど前も、先に一つと言いつつ、二つ質問を重ねたような気がするが、その時の記憶はやはり煤けてしまっていた。
「それはなぜだ? できれば教えて欲しい。なぜ俺に惚れて、そしてなぜ俺から興味を失ってしまったのか」
「……島田くんはね、“ギロ”だったの。私にとってのギロがあなただった」
「なるほど」
全然なるほどとは思っていないが、とりあえず適当に頷いておく。
有栖川の話が突然飛躍することがあるのはすでに知っていたので驚きはない。
彼女はアホだが馬鹿ではない。きっと彼女なりの意味がその言葉には秘められている。
「実は私、昔から誰にも見えていないものが好きだった。私はいつもすぐ皆に見つかってしまうから、誰にも見つからず、いつも一人ぼっちな人に憧れていた」
「……ああ、なるほど」
今度のなるほどは、本当にわかった上でのなるほどだった。
特別調子の良い今日の脳味噌は、有栖川の言いたいことを正しく理解する。
普通の女子なら、クラスで一番目立つような人気者の男子を好きになる。少なくともそういった傾向がある。
しかし、有栖川は違った。誰よりも目立ち、本人の意志問わず常にクラスで一番の人気者であり続けた彼女の価値観は、奇妙な反発を生んでしまったのだ。
そう、反発。つまりは彼女のベクトルは反対を向いてしまった。
クラスで一番の人気者ではなく、クラスで一番の日陰者を好きなるような性格になってしまったのだ。
有栖川にしか見えていないような存在、それこそがまさに俺だったというわけだろう。
「ギロも同じよ。皆が使わないから、私が使ってる。私が奏でなければ、誰もギロの音を知ってあげられない。だから私はギロを弾くの」
傲慢だな、とは思わなかった。
皆が好きだから、好きになり、皆が嫌いだから、嫌いになる。
皆が好きだから、嫌になり、皆が嫌うから、好きになる。
どちらが良いとか、そういうものではない。
皆が自分ばかり見るから、自分は皆が見ないものを見る。
それが有栖川アスミという人間で、俺はそれを美しい在り方だと思った。
「じゃあ島田くん、私からも一つ訊いていいかしら?」
「ああ、構わないぞ」
教壇にすくっと立ち、有栖川は指を一本立てる。
そしてクスッと笑い、俺に優しく問い掛けた。
「もしかしてあなたは今日、何か約束があって早く学校に来たんじゃないかしら?」
「ぬわぁっ!? しまった!」
俺は慌てて教室の壁に取り付けられた時計盤を見る。ちょうど七時になるところだった。
有栖川は指を一本立てたのではなく、時刻を指でさし示していたのだと遅れて知った俺は、鞄を自席に放り投げる。
「君の言う通りだ。俺はちょっと行ってくる」
「ええ、いってらしゃい」
にこやかに手を振る有栖川を置いて、俺は二年A組の教室を飛び出した。
実際は約束の空き教室はすぐ隣りなので、遅刻ということにはギリギリならないはずだった。
だが廊下に出た時、ふと思う。
有栖川は俺が誰にも見えていないから惚れたと言った。
では、なぜ俺から興味を失った?
その答えを聞きそびれた俺は、自分で推理してみる。
誰にも見えていないから好きになった、つまり有栖川以外の誰かが俺を見つけたから好きではなくなった?
ならば、有栖川以外の俺を見つけた人物とはいったい誰の事で、いったいどうやって彼女はその事に気づいたのか――、
「よお、やっぱりお前は時間通り来るな、島田」
――考え事は、空き教室に足を踏み入れた瞬間に途絶える。
一週間と一日前、数学の補講が行われた教室。
そこで俺はある一通の手紙を受け取り、その手紙を書いた人物は先客としてすぐ目の前にいた。
「……改めて、確認するぞ。お前がこの手紙を書いたんだな」
「ああ、そうだよ。間違いねぇ」
朝日が反射して煌めく金髪。適度に着崩された制服。
不敵に笑う西尾響は、俺が取り出した手紙を一瞥すると、全てを認めた。
まるで悪びれる様子もなく、俺を真っ直ぐと見据えている。
「どうしてだ。どうしてこんな悪戯を俺にした? お前は俺に惚れていない。そもそも恋人だっているんだろう?」
だから俺も負けじと西尾から視線を逸らさない。
理由を知りたかった。
本当に彼女が俺に嘘を吐く必要があったのか、その理由があったのかを。
「悪戯? 違うね。その手紙は本物だよ。お前に惚れている奴はたしかにいる。手紙を“書いた”のはたしかにあたしだが、“差出人”はあたしじゃない」
しかし西尾の方はあっさり視線を俺から外し、空き教室の後方へと移す。
大きな黒の瞳は心底おかしそうにどこかを見つめているが、その視線の先には誰もいない。
「なんだと? どういう意味だ?」
「そのまんまの意味だっつの。あたしはただの代筆だよ。なんでも文字を書くのが苦手らしくてな。それで頼まれたんだ」
「代筆だと!? な、なら、お前に代筆を頼んだ奴はいったい誰なんだ!?」
「そんなの決まってるだろ。補講の時もお前の一番近くにいたあいつだよ」
西尾はいまだに俺をからかっているのか、意味のわからないことをペラペラと喋る。
自分はただの代筆。真犯人は別にいて、その人物に頼まれただけだと言う。
しかもその人物は補講の時も、俺のすぐ傍にいた?
俺の席は廊下側の後方。一番近いと言うと、有栖川になるが、彼女ではないことはそれこそ数分前に確認し直したばかりだ。
「適当なことを言うな! 本当のことを話すんだ西尾!」
「あたしは嘘なんて一つも言ってないぜ。今も、そんでもって、これまでもな。そんなに疑うなら、本人に直接訊いてみればいい。今日だってすぐそこにいるしな」
「すぐそこにいる……?」
それでも自らの主張を崩さない西尾はニヤリと笑う。
俺は慌てて空き教室を見渡すが、俺と西尾以外の姿は見えない。
やはり俺を馬鹿にしているだけなのだと、いよいよ俺は腹を立て始めてきたが――、
「ほら、出てこいよ。ササ、お前の愛しのシャーロッくんが呼んでるぜ?」
――西尾がふいに放った一言が、俺の思考を停止させる。
ササ、シャーロッくん、そのどちらも俺にとっては馴染みのある呼称だったが、そのどちらも西尾の口から出ることはありえないはずの言葉。
そして視界の隅で蠢く、小さな小さな影。
西尾が教室の後方をずっと見つめていたことに意味があったのだと遅れて知った俺は、昨日までの一週間全てがひっくり返ってしまうような衝撃に圧倒されていた。
「おはよう、シャーロッくん。どうしたんだい? ずいぶんと驚いた顔をしているけれど」
音もなくゆっくりと開かれていく“清掃用具入れのロッカー”、その中から姿を現す一人の少女。
その小学生かと見紛うほどに小柄な女子生徒の名を俺はよく知っている。
「チャチャ、なのか?」
「そうさ。つまりはそういうこと。僕が君に惚れている」
――守屋茶々。
助手役でも、探偵役でもなく、真犯人役として彼女は俺の前に姿を現したのだった。