2-17 変化②
「……ようこそ。グラットワード侯爵様。ご案内させていただきますのでどうぞこちらへ」
「あぁ。……」
屋敷の扉を叩いた直後。
バロンは応対してくれた若い執事から、物腰は丁寧なものの歓迎されていないような空気を感じた。
まるで値踏みされているような、怪しまれているような視線を送られたのだ。
(社交嫌いの変わり者が何の用なのだと思われているのだろうな)
あまり人付き合いをしない、夜会にも出てこない社交嫌いとして知られているバロン。
執事の年齢からしてバロンと付き合いのあった頃は勤めていなかったろうから、きっと彼の主がバロンと繋がりがあるとも思っていなかったのだろう。
さらに応接室に案内されるまでの間に廊下ですれ違い、頭を下げる使用人達からも、声には出さない不信感が見えるような気がした。
―――が、はたと思い立ち、バロンはこっそりと自嘲のため息を吐く。
(いや、気のせいか……。そうだ。気のせいなんだ。別に失礼なことを言われてもいないし、されてもいないんだ)
間違いなく、対応はいたって丁寧だった。
言葉遣いも、礼儀も申し分なく、客人を迎える家の使用人の対応として何も問題はないもの。
それなのに歓迎されていないと感じてしまったのは、バロン自身が自分はここで異質な人間だと、自分で自分をそう思い込んでしまっているからだ。
兎になる呪いをかけられている自分自身を卑下していて、誰からのどんな視線さえ必要以上に気にしてしまう。
バロンはそんな自分に、マリエールに出会ってから初めて気づかされた。
今まではただ呪いを憎めばいいだけだったのに、マリエールが全然気にしないものだから。呪いを憎むという感情に違和感を覚えるようになってしまったのだ。
「グラットワード侯爵様。こちらで少々お待ちいただけますでしょうか」
「あぁ。ありがとう」
己のネガティブ思考を反省しながら、バロンは案内された部屋の中をゆっくりと見まわした。
懐かしさに、つい青い目を細めてしまう。
(変わらないな)
壁も柱も柔らかな白で統一され、所どころに観葉植物や花が飾られている応接室。
豪奢や華やかさとは一線をかく、優美で穏やかな気分になる心地のいい場所だ。
いつだって朗らかに笑っているレオナルドと似通った雰囲気な気がしたここも、子供の頃に何度か遊び場として使った思い出がある。
しかし昔を思い出して少しして、ノックの音が聞こえたと同時に肩が揺れた。
緊張しながら振り返ると、ドアを開けて入室してきたレオナルド。
「バロン。待たせたか」
「いや」
「……久しいな」
握手を交わし、見つめ合うと、目の前の薄い茶髪を撫でつけた男は、爽やかにかつおっとりと笑った。
笑うと垂れ目気味の目元がさらに下がり、口端にくっきりと笑窪が浮かぶ。
(この顔も、懐かしい)
この親しみやすい笑顔がバロンも好きだった。
愛想の良くないバロンは、彼のようにニコニコと笑うことも出来なくて、子供のときも可愛くない子として大人たちに捉えられてしまいがちだった。
だから同年代の者たちも遠巻きにしてきたのだが、彼だけは他の人と変わらなく接してくれたのだ。
そしてバロンの何をそんなに気に入ったのかは分からないが、知り合ってから離れるまでの間、ずいぶん親しく、一番の友とも言っていいほどに頻繁に会い、長い時間を過ごした。
(たしか、トラスト領で怪我の手当てをしてくれた女の子が初恋だとかいう話もしたような気がするな……)
今その彼女が嫁になっていると知れば、どんな顔をするだろうか。
しかし変わらない笑顔に、大人の精悍さが加わったレオナルドは、応接椅子に腰かけながら少し陰りを帯びた表情になって口を開いた。
「その。ええっと、あぁ……そういえば最近結婚したんだってな。おめでとう」
「あぁ、ありがとう」
「近いうちに祝いの品を送らせてくれ。遅くなって悪いんだが」
「いや。気にしないでくれ。レオナルドの結婚の時も、私から特に何も出来なかったし」
互いの近況は人伝えに、うわさ程度に聞く程度。
結婚ほどの大きなことは耳にはいるけれど、他に何があったかなんて全く分からない。
時間と同じく距離のある会話はぎこちなく、お互いに視線も合わなくて空気がぎくしゃくとしていた。
たどたどしすぎる会話のなかでは、初恋の君を娶った話など出来るような流れはなかった。
あっというまに、あたりさわりのない話題もつき。
「…………ええと」
「……」
沈黙が、広がる。
目の前のレオナルドの視線は彷徨い、困っているふうに眉もさがっていた。
しかししばらくの静寂の後。
ポツリと、レオナルドの口から台詞が漏れた。
「バロン……どうして、来たんだ」
いままでずっとお互いに避けてきたのに、突然乗り込んで来たことを不思議に思わないはずがない。
一体、どうして、今。
そんな疑問がいくつも彼の中に渦巻いているのが見える気がした。
もともとその話をするためにここに来たのだ。
バロンはその問いに、正直に答えた。
「……妻に、尻を叩かれて。気まずくなった友人と、仲直りしてこいと」
レオナルドはきょとんとした後、一拍置いて、大きく噴き出した。
「ははははは! お前が尻に敷かれるとはな!」
「仕方ないだろう。あれにはどうしても敵わない。絶対勝てる気がしない」
「ふ……まぁ、うちも似たようなものだが」
「確か子供も出来てたか」
「あぁ、この間二人目が生まれた処だ」
「おめでとう」
「ありがとう」
笑いで緩んだ空気の空気と流れが途切れないまま、バロンはぽつりと告げた。
「私には、兎になる呪いがかかっている」
目の前の相手が、サッと顔色を青くした。
「のろ、い」
まさかこのタイミングで核心をついて来るとは思わなかったのだろう。
明らかな動揺の色が見えた。
こんな風に言わなくても、あの時のことをごまかして、またこれから友達に戻ることだってできるだろう。
さっきだってぎこちなくはあったが友人として会話が続いていた。
でもバロンは、彼からもう逃げたくはないのだ。
(レオナルドは、間違いなく一番の友だったから……)
小さく唾を飲み込んでから、彼の目を見る。
「……見せようか」
「い、いい……」
首を振って、視線を下げたレオナルドは、しかし一拍置いて顔を上げた。
「いや。……やっぱり見せてくれ」
頷いたバロンは、すぐに姿を変えた。
「っ……!」
大人の男一人の姿が消え、衣服が椅子の上にばさりと音を立てて落ちた。
更に机の上に落ちたのは、ふわふわで小さな黒い毛をした可愛らしい兎だ。
バロンは兎の青い目で、レオナルドをじいっと見上げた。
おそらく、昔彼がみた兎と同じ姿である身を、バロンは隠すことなくすべて晒した。
この姿では話すことも出来ない。
だからバロンは、ただ真っ直ぐにレオナルドを見上げて待つ。
「本当に……兎に…」
少しして、口元を覆ったレオナルドは掠れた声を喉の奥からこぼす。
ただ驚いているだけなのか、怯えられているのかは、バロンには判断がつかなかった。
「この兎が……バロン、なんだな」
バロンは返事の代わりに、小さくジャンプして足を踏み鳴らした。
大きく息を飲む音が、長い耳に届いた。
「バロン―――あの時、君は僕にとっての一番の友達だった」
あの時は、という表現に兎の鼻がひくひくと動く。
「でもあんなことが起こって、僕は逃げて、君を傷つけて……でも、あの頃は本当に驚くばかりで受け入れられなくて、そのまま音信不通になることで逃げた」
レオナルドの膝の上で握られた手に、ぎゅうっと力が入る。
ふわふわの兎に触れる様子はない。
「僕はずっと、見ないふりをしていたんだ。思い出さないふりも、していた。だから君を避け続けた。現実をみることが怖くて、全部なかったこととして逃げた。十年間も、ずっとだ……きっとすごく傷つけたんだと思う」
ぴくぴくと動き、ピンと立った兎の耳がレオナルドの音をバロンにしっかりと届けた。
小さな小さな兎から青い顔色をしたレオナルドは目を反らさない。
「僕……ちゃんと、見るから。もう見間違いだ。嘘だ。なかったことだなんて思わない。でも、でも……悪い。まさか呪いとか思ってなかったし、色々……まだ受け止めきれなくて……。少し、だけ……時間が欲しいんだ」
レオナルドは整えていた自分の髪をぐしゃぐちゃと掻き交ぜる。
穏やかな性格の彼にしては珍しく、小さく唸り声も聴こえた。
混乱しているのだろう。
「…………」
「すまない……バロン……」
バロンは覚悟をしてここに来たけれど。
レオナルドからすれば突然にずっと避け続けていたことを突き付けられた。
呪いなんていう、普通に生きていれば聞くことさえないようなことを知らされた。
心の準備もできていなければ、受け入れられずに動揺し続けていて当たり前だろう。
レオナルドは眉を寄せ僅かに瞼を伏せ、そして。
「バロン。今度は俺から会いにいくよ。だから待っていてくれ。頼む……」
ソファに座る小さな黒兎に、深々と頭を下げるのだった。
* * * *
グラットワード家にバロンの乗った馬車が戻ると同時に、マリエールは慌てた様子で玄関から飛び出してきた。
「おかえりなさいませ、バロン様」
「あぁ。帰った」
「……頑張りましたね」
結果も何も聞かないまま、ただふんわりと笑顔を浮かべ迎えてくれる。
ねぎらいの込められた言葉に、バロンは口元だけを少し緩ませた。
しかし内心は複雑なものだった。
……誉めて貰えて嬉しいはずなのに、彼女の言葉はやはり『母親』か『姉』のようで。
自分にくれる気遣いのすべてが、胸にチクチクと小さな針を繰り返し突き刺すような痛みを生じさせるのだった。
「帰り道で、ケーキをいくつか買ってきた。その……マリエールの好きなものかは分からないんだが」
「まぁ。お土産ですか? この袋、ロッシェリーナのものですね。大好きです。有り難うございます」
「そうか、良かった」
こうして浮かべてくれる笑顔さえも、もしかすると政略結婚した相手だからというだけでくれるものなのか。
結婚した以上、家族として仲良くするのは当たり前のことだからという理由だけなのか。
少しでも自分の恋する想いが届いているのかが、バロンには分からなかった。




