2-16 変化①
呪われた兎になるところを見られて以降、ずっと仲違いしたままのかつての友人、レオナルド・オール。
オール伯爵家の跡取りである彼に、バロンは家を訪ねてもいいかとの伺いの手紙を送った。
何度も書き直して、何度も見直したその手紙。
どんな反応が返ってくるのか想像さえつかなくて、胃が痛くなるほどの緊張の中で出したそれは、なんとたったの半日後には承諾の返事が届いてしまった。
返って来たレオナルド側からの手紙には、日時がいくつか提示されていた。
文章自体はいたって事務的な、ありきたりな時候の挨拶から始まるもの。
友人へあてたものにしては、ずいぶん硬い文体だった。
バロンが出した手紙も非常に硬い文体なっていたので、合わせてくれたのかもしれない。
半日という返事の速さに戸惑いつつ、それでもこのやる気と勢いのあるうちにと、バロンは自分の予定と照らし合わせて会う日時を決めたのだった。
そしてやって来た、約束の日。
昼過ぎに外出用のロングコートを羽織ったバロンは、玄関でマリエールに見送られていた。
「今日も外は雪です。とても寒いですから、これを」
そう言って背伸びして、ストールを首にかけてくれながら彼女は心配そうに眉をさげてくる。
じいっと見上げてくる橙色の瞳は何かもの言いたげだ。
「どうした?」
「やっぱり私、着いて行きましょうか。お話しのフォロー役になれるのではないかと思うのです」
「……。君はまるで、保護者のようなことを言うのだな」
「そうでしょうか」
友人に会うだけなのに妻に付き添ってもらうのは、シチュエーション的に少し違和感があった。
だからまるで保護者のようだとつい出てしまったのだが、すぐに否定されなかったことに、バロンの胸の奥はチクリと痛む。
(ぼんやりと感じてはいたが。マリエールはいつも、私にたいして母親のような態度ではないか?)
いつも優しくしてくれるマリエールの心配は、しかし『恋』する相手にするたぐいのものではない気がした。
小さくて可愛い兎とそう変わらないものとして見られているのだろうと、察してしまった。
それでも、彼女が本当に自分を心配してくれているのは本当だから。
こんな不安そうな顔をさせたままではいたくなかった。
バロンはただ単純に、てらいなく笑って欲しかった。
だからまだ手袋をはめる前の素手をマリエールの白い頬に伸ばす。
「あ、の。バロン様?」
「……大丈夫だ」
バロンが人間の姿のままで自分から彼女に触れることは今までほとんどなかった。
ふわふわの毛におおわれた手で触るのとは違う、直接肌と肌が触れ合う感触。
それは柔らかくて滑らかな肌だった。
バロンはそのまま頬から唇をそっと、指でたどっていく。
ここが柔らかく綻んで、笑みを形どってくれることをただただ願って。
「――心配しなくていい。一人で行ってくる。君は私を信じてのんびりとお茶でもして待っていてくれ。……マリー」
バロンは背を少し屈めると、吸い寄せられるかのようにマリエールの頬にキスをした。
香水をつけているのかそれともポプリでも持っているのか、鼻にかすかに甘い香りが届いた。
「……。っ……」
「……? マリエール?」
「ちょ、……」
ほんの一瞬触れていた頬から唇を離して顔を上げると、なぜか大きく目を見開いている。
「っ……あ、の。ば、ろん、さま」
驚いた顔のまま、マリエールは一歩後ろへ下がってしまった。
距離があいたことで頬へ触れていたバロンの手からも彼女が離れていく。
行き場を失ったバロンの手が、空をきる。
(そうか……)
……拒絶されたのだと理解し、バロンは手のひらを握りこんで降ろした。
指先から、ジンジンと鈍い痛みが広がってくるような感覚がした。
(触れるのは、嫌だったか)
頬へのキスなんて家族や親しい友人程度なら普通は幾らでもするもの。
しかしマリエールはそれを受け入れてはくれないということか。
(まぁ、私なんて面倒この上ない夫だしな)
マリエールが自分と家族になりたいと望んでくれていたことを知って、嬉しくて、近づけた気がして、調子にのって行動してしまった。
浅はかだった。
ついさっきまでドキドキと早鳴っていたバロンの心臓が、とたんにぎゅうっと引き絞られていく。
優しく甘やかしてはくれるのに、触れることを許してもらえない関係を突き付けられてしまった。
そんなバロンのズンと沈んだ内心を分かっているのかいないのか、マリエールはいつもより少しぎこちない仕草で頭を下げた。
一歩分の距離をあけたままでだ。
「い。いってらっしゃいませ旦那様」
「あぁ」
見送るマリエールに眉を寄せつつ頷いた様子は、明らかに機嫌を損ねたと分かるものだったろう。
そんな心の狭い男のような態度をとってしまう自分に、バロンはまた気分を落とした。
* * * *
「バロン様はもうお出かけになられましたか」
「え、えぇ」
バロンを見送って自室に戻ったマリエールは、そこで迎えてくれたヴィセへの返事も上手くできないまま、力なくソファに座り込んだ。
「…………」
「マリエール様?」
「……」
怪訝に首を傾げるヴィセへの、返事をする余裕がなかった。
(か、顔が、熱い……)
マリエールは唇をわななかせ、そのまま思わず両手で頬を包み、俯いてしまう。
恥ずかしくて、ぎゅうっと力をこめて小さく縮こまっていないと、なんだか意味不明なことを叫び出してしまいそうだ。
それくらい、マリエールは狼狽していた。
「は、初めてだったの」
「え?」
「……」
小さくなりながら思わず呟いたが、耳をそばだててくれるヴィセに続きを話すことは出来なかった。
「キスが……」と言うのは恥ずかったし、何よりヴィセは自分たちが普通に夫婦として夜を共にしていると思い込んでくれている。
キスなんて毎夜のようにしているのだときっと彼女は信じている。
マリエールは何も言えないまま、ひどく熱く感じる口の横を指の先で撫でた。
ひどく熱くて、火照っているように感じる。
(親愛のキスなのだともちろん分かっているわ。でも、バロン様との初めてのキスは、今までしてきた家族や友人とのキスとは全然違ったの……)
何が違うのかはよく分からない。
でも一瞬触れただけなのに、しかも唇ではなくて頬なのに、たまらなく恥ずかしくて熱くてなぜかとんでもなく混乱してしまって、彼にまともな反応を返すことも出来なかった。
それに耳元で囁いた彼の声も表情もどこまでも頼もしくて。
マリエールの助け何てまるで必要のない、しっかりとした大人のものだった。
可愛いふわふわの兎ではない――自分に真っ直ぐに恋をしてくれている年上の異性なのだと、はっきりと突きつけられた気がした。
「あの、マリエール様。大丈夫ですか?」
「え、えぇ……ごめんなさい……平気よ。その、ヴィセ、冷たい飲み物をお願い出来るかしら」
「かしこまりました。すぐにご用意してまいりますね」
ヴィセが出て行った部屋で、マリエールは両頬を押さえたままぶんぶんと首を大きく振る。
早くこの恥ずかしさを振り払って消してしまいたかった。
こんな気持ち、これ以上は耐えられない。
なのにどうにかしようと思えば思う程、恥ずかしくてどうしていいか分からなくてマリエールはどんどん混乱してしまう。
マリエールはもう半分泣きそうな気分で一人唸り声をあげた。
「うー…わ、わぁ―――…っ、なに、これ。……今日のバロン様、なんだか……」
掠れる声を吐き出しながら、マリエールは眉を下げた。
がたいは大きくても中身は可愛い兎とそう変わらない、手のかかる、面倒を見なければならない子みたいなものだった。
夫という立場だから彼と仲良くなりたいと思っていた。
家族として近づきたいと、それだけだったのだ。
でも、自分に触れる手も、表情も、纏う空気も、男だった―――。
(臆病で可愛らしい兎の印象が強くて忘れてたかも。バロン様はちゃんと、大人の男の人なのだったわ)
触れる直前、真っ直ぐに強く向けられた瞳が強くて、射られるかと思った。
心臓にドスンと、何かが突き刺さる音さえ聞こえた気がした。
(お友達のところに行くだけなのに「ついて行きましょうか」なんて、出しゃばりすぎだわ)
大人の男同志話にいくのに、保護者のように付き添うなんて。
バロンが困ったような顔をしていた理由にやっと思い当たって余計に恥ずかしくなった。
「うー……、ほんとうに心臓が……」
熱が冷めなくて、息さえ苦しくなってくる。
それでもマリエールはどうにかヴィセが戻ってくる前に冷まそうと、必死に手で顔を仰ぎ、深呼吸を繰り返すのだった。




