2-14 侯爵の過去①
ガーネットの泊る宿から帰宅したマリエールは、昼食を終え、バロンに時間を作って貰っていた。
「――という事で、未完成な薬を渡してしまってごめんなさい。とガーネットも反省していたので、出来る事なら許してあげて欲しいのですが……本当に申し訳ありません」
人払いした温かなサンルームで花々に囲まれた中、深く頭を下げる。
マリエールと離れたことへの寂しさから、傍に居るバロンへやきもちを妬いてしてしまった悪戯のような行為。
それが結果的にとても彼を傷つけることになってしまった。
近いうちにガーネット本人もきちんと謝りにくるということだったけれど、紹介したマリエールも責任がないとはいえない。
だから、と謝罪するマリエールに、バロンは眉を寄せてひとつため息を吐く。
「顔をあげてくれ。確かにいつも兎に代わる時間にも人間でいられた。効果はあったんだ」
完全に朝まで効くわけではないが、数時間伸びただけでも何かしら使いようはある。
そう言うバロンに、顔を上げたマリエールは眉を下げつつ口端を上げた。
(これ以上謝っても、バロン様を困らせるだけね)
今だってバロンは眉を寄せて一見怒っているような表情をしているが、怒っているというより弱っているという心境だろう。
「バロン様。ありがとうございます」
「……いや」
(本当に、優しい人……)
つり目で強面で、話すのもぶっきら棒な感じなので冷たく見られがちだけど、実際はこんなに優しい。
とてもとても彼を傷つけたのに、本当にいっさい責められないのだ。
ガーネットがどれほど呪術や魔術に知識があるのか、バロンの呪いを解けるのかどうか。きちんと確認をしてからバロン本人と会わせるべきだったのに。
『魔女』というだけで、きっと何かしら知っているはずだと思い込んでしまったマリエールの落ち度だ。
マリエールの視線の先―――サンルームの向こう側には深々と雪が降り積もっている。
「……雪、しばらく止みそうにありませんね」
「あぁ」
「…………」
静かな、二人きりの空間で向かい合っている。
そんな状況に気が付けば、マリエールの口からぽろりと言葉が零れ落ちてしまった。
「……バロン様は本当に、ご自分の代でグラットワードを終わらせるつもりなのですか」
何の脈絡もなく発せられた話に、バロンの表情が固まった。
マリエールはわずかに瞼を伏せておなかの前で合わせた手に力を込めた。
(こんな話をする予定はなかったのに、つい)
でも、もう口に出してしまったから逃げないことにする。
ずっと詳細を聞きたくて聞けなかったこと。
彼も核心に触れずにあやふやなままにしていたこと。
触れればこの結婚しているのかしていないのかさえ微妙などっちつかずな関係が変わってしまうと分かっていたから、怖くて口にしなかったことを。
マリエールは顔をあげ、真っ直ぐにバロンを見据えた。
緊張を解こうと小さく深呼吸をしてから、口を開く。
「バロン様は、養子さえ迎えず、親類筋に本家当主の座を渡すでもなく、本当に名前も、グラットワード家がもつもの全ても終わらせるのですか。あの時、私が怪我をしたときに話してくださったときのまま、貴方の考えは変わっていないのですか?」
家名だけでなく、自分をも捨てるつもりなのか。とはあまりにも怖くて言葉にできなかった。でも言わなくてもマリエールのことが含まれていることくらい、賢い彼ならわかるはず。
バロンは僅かに目を伏せて、マリエールの視線から逃げるみたいに横を向いてしまう。
それでも見つめ待ち続ければ、間を開けてボソボソと、言いずらそうに、乗り気で無いと明らかにわかる態度で彼は話す。
「領地は別に、新しい主に代わるだけだ。他の者も、新しく持ち主が変わるだけで何も問題は起きない」
「親戚筋の方々がお許しになると?」
「その時までになんとかする。というか、その時にはマリーはもう居ない予定だから、関係ないだろう」
「っ!」
マリエールはぎゅうっと唇を引き結んだ。
泣きそうだった。
やっぱり、彼は今もずっとマリエールとの永遠を信じていないのだ。
マリエールを本当の意味で妻にしてくれる気なんてないのだ。
(私は、一緒にいたいのに)
温かい人がたくさんいる、温かなこの家が大好きだと思うようになった。
だから、それを壊そうという彼の考えに賛同が出来なかった。
「ば、バロン様がどう思おうと、私はあなたの妻でありたいです!!」
「それは駄目だ!!!」
一度大きくなったバロンの声。
でも、とたんに勢いを失い小さくなる。
「マリエールは……子供が……好きだろう。俺とでは、作れない」
「っ……」
「暖かくて子供の笑い声の響く家に憧れがあるはずだ」
「な、どうしてそれ」
バロンが「いらない」とはっきりと言ったものだから、マリエールは「欲しい」と言えなかったのに。
言ってなかったのに、こっそりと夢見ていた未来を知っていた。
驚くマリエールに、彼は気まずそうに視線をそらした。
「子供の頃、お母様みたいになりたいと言っていた」
「……覚えてません」
確かにままごとが好きな子どもだったような気がするが、そんな発言まで記憶していなかった。
でもバロンは、何となしに口にした子供の台詞をずっと覚えていたらしい。
しかも当然のようにそれが続いているとも思っているらしい。
子どものころの憧れなんて変わって当然なのに。
いや、実際にマリエールの憧れは自分の母親のままなのだが。
でも子供だけが幸せの全てではないとも、もう知っている年齢だ。
「そ、そんなの別に、居ない夫婦だってたくさんいますし。貴方と別れる理由にはなりませ」
「君を愛してる」
脈絡なく突然の告白に、マリエールの、橙色の瞳が見開かれた。
「だから、この呪いを背負わせたくない。マリーには優しくて何の心配もない夫の元で、そんな幸せで明るい場所に君に居て欲しい。呪われた家に何て、とどまって欲しくはない」
その台詞に、ぎゅうっと手のひらを握り込む。
引き結んだ唇が戦慄いた。
悲しくて、しかしそれ以上に腹がたって仕方がなかった。
あまりにも自分勝手すぎると思った。
マリエールはもう妻であるはずなのに、何一つこちらの声を聞き入れてはくれないのだ。
マリエールにバロンの受けている『呪い』を何一つ背負わせてくれようともしない。
バロンに呪いを解く方法を一緒に探そうとも言っていたけれど、それはマリエール側の要望。
きっと一緒に探すつもりは、彼にはないのだろう。
現にまた、今も彼はマリエールを突き放そうとしている。
「だからマリエール。俺とは、もう」
(また……)
前と同じ、『別れよう』という台詞がくるのだと、簡単に予想できた。
マリエールが夜会で怪我をして帰って来た時と同じ言葉。
(もう絶対、聞きたくないわっ)
橙色の眦がきらりと光り。
―――パン!
鈍い音が、サンルームに響いた。
同時にマリエールの手のひらに、じんじんとした痛みが広がっていく。
目の前のバロンの頬は赤く染まりつつあった。
(初めて、人をぶった)
手のひらだけでなく、心臓まで絞られるほどに痛かった。
何か嫌なことがあっても、喧嘩をしても、絶対に手をあげてはいけないと教えられてきた。
とても悪いことをしたと思うのに、でも、これくらいされて当然だとバロンに思ってもいる。
「っ、ふ……ぅ」
「ま、まりー」
瞳の中が、潤んでいくのが分かった。
いますぐにでも泣きそうになりながら、震える声で口を開く。
「私を捨てるつもりなのは分かってました」
「…………捨てるとかいうつもりでは。でも、もうこれ以上の迷惑はかけられないから終わらせ、」
――パンッ!
二度目のビンタに、バロンはくらりと頭を揺らす。
「痛い……」
「私はもっと痛いです!」
マリエールの瞳から、ついに耐え切れずにポロリと一粒涙が落ちた。
「っ……! 頼むから、泣かないでくれ」
そんなふうに悲しそうに頼まれたって、泣きたくて泣いているわけじゃないのだ。
マリエールは小さくしゃくりあげて、息を整えようとするけど失敗した。
ほろほろと落ち続ける涙をどうしても止められない。
でも泣くだけでは困らせるだけだから、掠れ震える声でマリエールは必死に口を動かし伝えようとした。
「―――どうして。ずっと考えを変えてくださらないのですか。私の言葉を、全部跳ねのけてしまうのですか。少しくらい、耳を傾けて、考えてくれたっていいのに。ど、どうして、結婚しているのに、夫婦なのに、―――私と家族になろうとしてくださらないの?」
「い、言っているだろう、私みたいな存在を後に作るわけには……」
「私だって言ってます! 私はあなたの妻なのだと! ずっと一緒にいたいと! ずっと夫婦でいたいと!」
「え?」
緊迫していた場面のはずなのに、バロンがきょとんと眼を丸くして呆けたような顔になった。
「え?」
今までに見たことが無いくらい、驚き呆けているバロンの顔にマリエールもつい釣られて、小首をかしげて橙色の目を瞬いた。
「……え?」
「え?」
「………え?」
少しの混乱の間を置いて、バロンは信じがたいものを見るような目をしながら、おそるおそる言う。
「き、聞いてない! 私と一緒にいたいなんて聞いてない! 夫婦になりたいなんて聞いてない!」
「……あ、あれ? でも、何年かかっても一緒に呪いを解くために頑張りましょうって言って……」
「それは、家族じゃなくなっても協力してくれるつもりなのだという意味だと思って。優しいなと、嬉しくはあったが……」
「……あれ?」
(言ってなかったかしら?)
バロンと家族でいたいこと。
きちんと、夫婦になりたいこと。
手を繋いでキスをして、話しをして、もっともっと距離を近づけたかったこと。
よくよく考えてみると、確かにマリエールは一度だってバロンに直接、伝えていなかったかもしれない。
(うっかりしてたわ……)
マリエールは気まずさを感じつつ、おそるそるバロンを見上げた。
「マリエールは、私と居たかったのか……。私と……」
本気で驚いたように、呆けたようにつぶやくバロンの姿に、何だか恥ずかしくなってしまう。
耳元が熱くてどうしようもなく、さらに落ち着かなくて視線を迷わせていたマリエールは、しかしこの際だから聞きたいことはもうひとつ聞いてしまおうと口をひらく。
ずっと気になっていたのだ。
「あの……バロン様はどうして、呪いをそんなに疎んでらっしゃるのでしょう」
「え?」
「話に聞く限り、先代はとても明るく呪いを受け入れてらっしゃったようです。その子であるバロン様がどうしてそんなに嫌がるのかなと。何かきっかけでも……と思ったのです」
バロンの顔がきゅっと強張った。
やはり何か理由があって、呪いを嫌だと思う出来事が過去にあったのだろう。
マリエールは顔を上げる。
「バロン様のこと、教えてください。私はあなたと本当の夫婦になりたいのです。貴方のことを、知りたいのです」
彼にとって話したくない、誰にも知られたくないことであっても。
マリエールは『妻』だから、知りたかった。
つらい事や悲しいことを、分けて欲しかった。




