3 冷たい夫の可愛いひみつ③
このまま、寂しい夫婦関係を続けていくのは嫌だから。
マリエールは自分から夫であるバロンに近づこうと、彼の執務室に向かうことを決めた。
「っ……よし」
決意に薄茶の瞳を輝かせたマリエールは、せっかく湧いたやる気を損なう前に行動しようと動きだす。
夜間着に厚手のカーディガンを羽織り、部屋を出た。
そして左右を交互に見渡した彼女だったが、暗闇の中で眉をさげた。
「えーと。たぶん、こっち……よね?」
屋敷の中は不慣れで、まだどこに何があるのかもあやふやなのだ。
とりあえず踏み出してみたものの、あっているかどうかも分からない。
(確か同じ二階の、南側の角部屋だった……気がするわ。たぶん南。うん)
角部屋なのは間違いない、はず。
でもコの字型に作られていて真ん中に庭がある形の屋敷には、二階といっても角部屋が八つもあるのだ。
しかも扉の形はみんな似たり寄ったり。
マリエールは自信がないながらも、記憶をたどって足を進めた。
暗い、知らない屋敷の静かな廊下は、想像していたよりも気味が悪く感じて怖かった。
風で窓枠がカタリと鳴る小さな音でさえも、やけに耳に残る。
「ええっと、執務室の隣にある休憩に使っている部屋のベッドで休むと言う事だったから、とりあえずさっきの執務室に行けばいいのね。……仕事をされているのだったら、何かお夜食を持って行くとか? でも好みも分からないし……そうだわ。何かいりますかって、聞いてみればいいのね」
心細さを振り払うため、何を話そうか、頭の中でシミレーションしながらマリエールは歩いた。
「それでいったん厨房に行って作ってもらって、……ここの屋敷の厨房って夜中でも人が居るものなのかしら……」
ぶつぶつ呟きながら暗い廊下をやり過ごし、なんとか執務室とプレートのかかった部屋に辿り着いた。
「……」
艶光する木製の戸の前に立ったマリエールは、緊張にきゅっと唇を引き結ぶ。
またあの冷たい言葉をかけられたらと思うと不安になるけれど、でも一度くらい頑張って声をかけてみようと意気込んだ。
深呼吸し呼吸を整えてもまだドキドキと脈を打ち続ける心臓を感じながら、気合いを入れてノックしようとした時。
『あぁ! 今夜も忌まわしい時間が来てしまう!!』
「っ!?」
扉の内側から苛立たしげな声が届いて、思わす手を止めた。
(何? バロン様の声よね。大声を出すタイプには見えなかったのに)
厚いドアに阻まれているけれど他に何の騒音も無い静まり返った夜中だったので、話の内容が聞き取れてしまった。
戸惑うマリエールの耳に、今度はバロンのものとは違う男の声が届いた。
『いいじゃないですか。もふもふふわふわでお可愛らしいですよ』
(この声は……確かバロン様の仕事の補佐をしてらっしゃる、テオね。昼間のパーティーでもバロン様の傍にずっと居た方)
どうやら室内には侯爵家当主のバロンと、その補佐役のテオの二人がいるらしい。
激昂しているようなバロンに反して、テオはとてもおっとりとした緩い口調だ。
マリエールが声をかけていいものかと悩んでいる間にも、彼らの会話は進んでいく。
『可愛いから嫌なんだろう!』
『まぁ、せめて鷹とか狼とか、恰好いいものだったらまた違ったかもしれませんからねぇ』
『そうだな。それだったらまだマシだった。なのに兎なんて! 兎なんてこの世から滅びてしまえばいいのだ!』
その切実さのこもった叫びに、マリエールは首を傾げた。
(バロン様、兎がお嫌いなのかしら)
こんなに取り乱すほど、あの小さくてつぶらな瞳が愛らしい生き物が嫌なのだろうか。
兎をここまで嫌うなんて珍しい。
不思議に思いつつ、仕事の話ではなさそうなので改めてノックしようとしたマリエールの耳に、またも台詞が滑り込んできた。
『このグラットワード侯爵家の血筋が、兎になる呪いを受けているなどありえない!』
「は?」
思わず間抜けな声を漏らしたマリエールの動きが、口を開けたまま止まった。
少したれ気味の薄茶色の目も、大きく見開かれる。
その瞳に浮かぶのは驚きというよりは困惑だ。
(のろ、い? 兎になる?)
彼の言っている台詞の内容に、理解が追い付かない。
『まぁまぁ。バロン様。そんなに兎を嫌わなくても』
『ふんっ! 嫌いだ! 大嫌いだ! 兎などこの世に存在しなければよかったのに! そうすれば、先々代の当主が庭に迷い込んできた兎を捕まえて丸焼きにして夕飯のおかずとして食ってしまうことにもならなかった!』
『先々代のご当主も、その兎が魔女の飼い兎だなんて想像もしてらっしゃらなかったでしょうしねぇ』
『そうだ! 兎さえこの世に存在していなければ、飼い兎を喰われた魔女の怒りによって、夜になるたびに代々の当主が兎になる呪いをかけられてしまうなんてこともなかった!!!』
(ええっと……お二人は何を、言ってらっしゃるのかしら)
――――暗い屋敷の廊下で立ちほうけるマリエールは、扉の向こう側から聞こえる会話の内容に困惑しっぱなしだ。
(先々代のグラットワード家当主が魔女の飼い兎を夕飯のおかずとして食べてしまって、怒った魔女によって兎になる呪いをかけられた……なんて、そんな馬鹿なこと……)
でも、バロンの声は怒りに満ちていて、対応しているテオも冗談で言っている様子はない。
マリエールの頭の中にはクエッションマークが増えていくばかりだ。
『あんな情けない姿、絶対に誰にも知られるわけにはいかない』
『奥方……マリエール様にもですか?』
自分の名前が出たことに、マリエールはどきりとした。
『当たり前だ。父上は母上に話していたがな、私はこんな姿を誰にだろうと晒すつもりはない! この屋敷内で知っているのは、子どものころから我が家に仕えているお前と、一番の古株である庭師のジイだけだ。これ以上広めてたまるものか!』
決意に満ちた夫の声を聞きながら、マリエールはぽつりと呟く。
「……バロン様、本当に、何を言ってらっしゃるのかしら」
ただただ、困惑した。
「兎になる呪い? ……呪い?」
マリエールは皺を寄せた眉間を指で押さえた。頭痛さえしてきた。
「人間が兎になるなんてありえるはずがないわ。魔女なんて……薬草学が得意な人が、たまに自分のことをそう名乗っているだけでしょう? 呪いって……えぇ?」
あり得ない。
魔法も魔術も絵物語の中の、想像の世界の話のはずだ。
そんな非現実的なことが実際に起こるはずが無い。
しかし彼らは真剣に、魔女の呪いだと話している。
(もしかして私、何か変な宗教を信仰しているお宅に嫁いでしまったのかしら)
つい心配になってしまう。
『……何にせよ、魔の力の高まる夜だけに効果の現れる呪いで不幸中の幸いでした。昼間まで兎になられては、領地の管理さえかないませんでしたから』
『なにが不幸中の幸いだ! 不幸しかないだろう、つっ! ……ううううっ……!!』
――――ガタンッ!
唸り声をバロンがあげた直後に、何か大きな物音が聞こえて、マリエールは肩を跳ね上げた。
(一体、部屋の中で何が起こってるの……?)
はらはらしながらも何も出来ずにいると、しばらくの静寂のあと。
ひどくゆったりとしたテオの声が響いた。
『おやおや……。今夜も兎になる時間がきてしまいましたか』
(う、兎になったの!?!?)
まさか本当に、この扉の向こう側には兎になったバロンがいるのだろうか。
(見たい! ……気もするけれど。でもバロン様は隠したがっているのよね)
もし、この扉を今ノックすれば、一体どういう反応が向こうから返ってくるのか。
マリエールは無意識にごくりと喉をならしていた。
隠したがっている彼の為にこのまま何も聞かなかったふりをして、部屋に帰って寝てしまうべきだろうか。
それとも――――と、悩み苦悩してしばらく。
マリエールの佇んでいた暗い廊下に、光が差した。
「え?」
思わず顔を上げると、目の前の扉が少しだけ開いていて、その隙間から男の顔がこちらを向いている。
(薄紫色の、目)
バロンの側近で仕事の補佐をしているテオだ。
一つに纏めた長い白銀の髪が特徴な、ひどく色香のある切れ長な彼の瞳とばっちり視線と視線が噛み合ってしまった。
「…………」
「……………」
しばらく無言で見つめ合っていると、額に冷や汗がにじんでくる。
盗み聞きしようとしたわけでは無いけれど、明らかに盗み聞きだ。
しかも内容は意味不明なくらいに信じがたいものだったが、この侯爵家にとってとても重要な秘密らしい。
(聞いたことが知られれば、間違いなく叱られるわ)
身を固くしたマリエールだったが、目の前のテオはおっとりとほほ笑んだ。
そして背中がぞくりとするほどの色のある声で、言う。
「おや。マリエール様、いかがされましたか?」
「え……? ええっと……」
マリエールは慌てながらも、はっと我に返る。
人目にさらされたことで自分の姿を思い出した。ネグリジェにカーディガンを羽織っただけの恰好なのだ。
(バロン様だけだと思っていたから、ついこのままで……!)
慌てて開いたままだったカーディガンの左右を手で引き寄せ押さえた。
旦那様という立場以外の男に見せるべき姿ではなかったと、実際に見られてしまってから自覚した。
恥ずかしさに顔を赤らめながら、おずおずと彼を見上げる。
「あの。だっ、バロン様にお休みのご挨拶をと……思い…まして……」
「そうですか。しかしとてもとても残念なことに、旦那様はただいま席をはずしておりまして。
「え」
(でも……ついさっきまで声がしていたのに?)
目を瞬き呆けるマリエールに、テオはほほ笑んだ。
「ほら、いらっしゃらないでしょう?」
なぜか、これ見よがしに大きく扉が全開された。
ここまで思い切り開かれて覗き込まないわけにもいかず、マリエールは部屋の中に視線を向けた。
(うーん。バロン様は、本当に見当たらないわ)
たしかに、見渡した室内にバロンの姿はなかった。
仕事をする為だけの部屋は大きな家具は机と本棚くらいしかなく、机の下に潜り込むくらいしか隠れる方法はないだろう。
(部屋に入らないと、机の下までは確認できないけれど……あら?)
机の上には、端に花瓶が乗せられていた。
小さく控えめな花の飾られたその花瓶に目をやったマリエールは、違和感に気づいてしまい、思わずそこに目を凝らしてしまう。
執務机の上に飾られた花瓶の向こう側から、小さな黒い尻尾が、はみ出していたのだ。