2-10 エメラルドブルーの香水瓶③
舞台の演目は、ありきたりと言えばありきたりな。
しかし長年大勢の人を虜にもしてきた、とある国での姫と騎士の恋愛物語を描いた恋愛ものだった。
この原作となった小説が、最近女性の間で大人気なのだ。
もちろんマリエールも読んだ上で、見てみたいと思っていた。
――――主人公の姫には、隣国の王子という婚約者がいる。
それなのに彼女はいつも身を挺して自分を庇い守ってくれる、幼い頃から傍に居る幼馴染の騎士に心を惹かれてしまう。
国の為、民の為、涙ながらに自らの想いを胸の内に留めたまま嫁ごうと決め、密かに涙にくれるけなげな姫の姿に、女性はときめき吐息をつき。
また、騎士と隣国の王子が姫を取り合っての決闘の場のシーンは臨場感と迫力があり、その本格的な剣技に男性陣も夢中になっていく。
最後は互いの力を認め合った騎士と王子が無二の友人となり、騎士と姫も結ばれるのだ。
「ブラボー!!」
「素晴らしかった……!!」
「感動したわっ」
フィナーレを迎えた舞台上で頭を下げる役者たちに、観客席から割れんばかりの拍手が送られる。
もちろんマリエールもバロンも、惜しみなく手を叩いた。
叩き過ぎて手のひらが痛くなってしまうくらいだったが、でもそれくらい素晴らしい舞台だったのだ。
「――とっっっても良かったです……!!」
劇場内からひらけたロビーホールへと出たマリエールは、さっそく隣を歩くバロンに舞台のすばらしさを語っていた。
閉じた扇を持った手をきつく握りこんで、思わずぶんぶんと振りかぶりながら。
せっかく大人な女性を意識した格好をしているのに、夢中になる余りうっかり子供みたいに目を輝かせ、普段以上に興奮気味に、饒舌になってしまう。
「やっぱり国一番といわれる劇団ですね。みなさん演技力が半端ではないというか、本当に開始五分と経たずにストーリの中へと引きずり込まれてしまって。最後まであっという間でしたもの」
「あぁ、とても良かった」
「大筋は小説通りだったのですが、舞台オリジナルのシーンもあって楽しかったです」
「そうなのか」
「はい! あのシーンとあのシーンの間で実はこんな会話があったのだって初めて知れたようで、嬉しくなりました。それから衣装も素晴らしかったです。原作の文章の説明でこんな感じかなと、想像していた以上に舞台衣装は華やかで精巧で、とっても素敵でしたっ」
「確かに。いい衣装だった」
「ですよね。特に主人公が舞踏会で来ていたドレスが動くたびに美しく揺れて――」
恋愛がメインのストーリーであったため、やはり女性向けなのかマリエールの方が受けた感激は大きいようだった。
バロンはもっぱら聞き役となり、相槌をうっている。
もっとも元々彼は口下手であるので、どれだけ好みの舞台であってもマリエールほどに舌は回らないのだろうが。
やがて舞台の感想も一通り語り終えたが、見てみた劇場の入り口の方はまだまだ人でいっぱいだった。
ロマンチックな内容に合わせた夜のみの公演とあって普段以上に客も入っていたのかもしれない。
馬車の留め所もしばらくは混んでいることだろうと予測して、人がすくまでマリエールとバロンは少しの間ロビーホールに留まっておくことにした。
(あ)
廊下の端に立ち、ふと壁にかかっている時計を見上げたマリエールは笑いを貰した。
少し背伸びして、彼の服の裾を引く。
気づいて身をかがめてくれたバロンの耳元に口を近づけた。
「バロン様、いつも兎になってしまう時間、とっくに過ぎてますね」
「……あぁ。本当だ」
言葉は短いが、時計に視線を向けつつ嚙みしめるように頷き目元を緩めた彼は、確かに喜んでいるようだった。
一緒にいる人が嬉しいと、もちろんマリエールまで嬉しくなってくる。
「ガーネットの薬、効いたようでよかったです」
「マリエールのおかげでもある。私だけでは魔女と会うなんて出来なかった」
マリエールとバロンは、顔を見合わせて頷いた。
せっかくの夜のお出かけだ。
貴重な薬なので気軽には使えず、今後こういう機会が持てるかは分からない。
出来るならばもう少し遅くまで夜の外出を楽しみたい。
その考えはバロンも同じだったらしく、この後どこに行こうかという流れに自然となった。
「今の時間で空いている店はあるだろうか」
「一件知っています。というか、テオが今日のために調べてくれたようで。夜から朝方までの営業時間の、お酒の美味しい店なのですって」
「ほう。それは楽しみだが……マリエールはそんなに飲まないだろう?」
そう言ってくれるバロンに、マリエールは心配ないと頷いた。
「実はお菓子も美味しいようなのです。夜中ですけど、今日だけ特別に食べてしまおうかなと」
真夜中のお菓子はたいへん美味しいが身体によくないし、体重にはもっと良くない。
だから普段は食べないのだが、今日くらいはいいだろう。
せっかくだしテイクアウトで焼き菓子などがあれば屋敷の人たちにお土産として持って帰ってもいいかもしれない。
そんなことを話していると、視線の端に見知った人が映った。
四十代前半の紳士だ。
「まぁ、マロニット子爵」
そう声かけると、子爵は振り返り笑顔を見せた。
「おや。グラットワード侯爵ではないですか」
彼はマリエールがグラットワードの性を名乗る様になって初めての夜会で初めてダンスを踊った相手だ。
隣には彼の腕に手をかける、女性も一緒だった。マロニット子爵の令嬢、ビアンカでマリエールとも何度かお茶を一緒にした仲だった。
視線が合うと同時に小さく頭を下げると、ビアンカも目元を細めて頭を下げてくれる。
「ごきげんよう。マリエール様」
「ビアンカ様。今夜はお父様とご一緒ですのね」
「えぇ。そうなの」
「ははっ。娘が作者の大ファンでね。付き合わされましたよ。侯爵も?」
「そうですね。あぁ、いえ……妻が以前から見たいと言っていたので、私から誘った形ですが」
「あら。出不精で有名な侯爵様も、新妻には弱いということね」
「こら、ビアンカ。口が過ぎるぞ」
マロニット子爵が顔を顰め、娘の軽く背中を叩く。
ビアンカは小さく肩をすくめた
やはり父親の前だと子供っぽくなってしまうのか、唇を突き出して拗ねたような様子をみせた。
「申し訳ない、グラットワード侯爵」
「いえ。大丈夫です。元気で可愛らしい娘さんだ」
どうやら彼らも入り口付近の混雑が解消されるのを待っていたようで、少しの間立ち話の流れになった。
マリエールと同じくビアンカも今回の舞台の原作小説を読んでいた。
なので原作とここが違う、あそこの台詞は忠実に再現されていた、などという女性たちの盛り上がりに、男性二人は取りあえず頷いているといった感じだった。
「ふふっ。マリエール様とは趣味が合うみたい。今度はご一緒に舞台観賞でもさせていただきたいですわ」
「嬉しい。是非お願いします」
「では。そろそろすいて来たようだし行こうかビアンカ。お二人とも、失礼しますね」
「マロニット子爵。ごきげんよう」
「また」
立ち去っていく二人の背を見送りながら、マリエールは嬉しくなった。
外出先で夫婦として並びたち、誰かと会話をするのはあまりない事なのだ。
(これからはこんな風にバロン様と二人での社交が出来るのね)
自分の夫が社交嫌いの変わり者と噂されるのはやはり少し心苦しかった。
それに、夜会で一人ぼっちなのはやはり寂しいのだ。
でもこれからはバロンも一緒にできるのだと想像するとどうしても口元が緩んでしまう。
(あ、そうだわ。バロン様とダンスも踊れるのね)
とたんに楽しみになって、マリエールはわくわくとした気持ちで傍らのバロンを見上げた。
――――しかし。
ついさっきまで穏やかに談笑していたはずのバロンの様子が、おかしかった。
口元を押さえて、青い顔をしていたのだ。
「バロン様?」
マリエールは慌てて彼の背に手を当てて撫で、その顔を覗き込む。
「どうされました。もしかしてお加減でも?」
「う……」
小さな、うめき声のようなもの聞こえたかと思えば。
「ひぁっ!?」
その瞬間―――― 突然、バロンが兎へと戻ってしまった。




