2-9 エメラルドブルーの香水瓶③
「ほう。坊ちゃんと観劇か」
「そうなの。五日後の公演よ。とても楽しみだわ」
冬であっても花の咲くサンルームで、庭師のジイとマリエールはお喋りをしていた。
二人並んでしゃがみ込み、雑草を探しつつだ。
……冬になると庭の草木のほとんどが休眠期に入ってしまう。
だから庭仕事のうちでマリエールに出来る仕事は、こうしたサンルームでの雑草抜き程度。
庭師たちは春に向けての花壇のレイアウト変更や植え替えなどで忙しそうにしているけれど、それらは汚れてしまう仕事や力仕事が多いようでさせては貰えなかった。
それに無理に手を出しても、足手まといにしかならないだろう。
だからマリエールは、特に手入れの必要のないくらいの小さく細い雑草の芽を探して抜いていた。
この程度の仕事、二人分の手もいらないだろう。
ジイは完全に、ただ付き添いでここに居てくれてるのだ。
「……仕事に戻ってくれていいのよ? 何か分からないものは抜かないようにするから」
「主人の奥さんの心に花を咲かすのも、庭師の仕事のうちだろうよ」
「まぁ」
細い雑草を摘まんで引いていたマリエールの手がとまり、ぽっと頬に朱が走る。
彼は本当に、息を吐くように褒めてくれるのだ。
夫であるバロンが口下手な分、こういうのは余計に照れてしまう。
「ジイ。若い頃はとってもモテたでしょう」
「まぁ、そうだな。若い頃のうちの奥さんは五人の男から言い寄られてたんだが、迷わずワシを選んでしまうくれぇにはな」
「まぁ、素敵! ジイの奥様に会ってみたいわ。今度ぜひお屋敷に連れて来てちょうだいね」
「はは! おうよ」
返事と共に、ジイの大きくてかさついた手がマリエールの頭を豪快に撫でていく。
そのくすぐったい感触に笑いを零してから、マリエールは小さく少し沈んだ声でつぶやきを落とした。
「舞台に二人で出かけたら、……バロン様とも、ジイと奥様みたいな仲に近づけるかしら」
「うん? 充分だろぉよ。仲がいい夫婦だって評判だぞ?」
評判というのは、最初のほとんど目さえ合わさなかった最初の頃と比べてのものだろう。
確かに会話は普通にかわすようになったが、それでもまだ足りないと、マリエールは眉を下げた。
「会話なんてお仕事の話がほとんどよ? あとは天気の話? ジイとのほうがよっぽどお喋りしているわ」
「あー……口下手な人だからなぁ」
「でも、だからってもう少し……」
ぶつぶつと不満を吐き出すマリエールの眉が、徐々に寄せられていく。
自分からバロンへ直接文句を言う勇気もないくせに、こうして彼のいないところで夫の愚痴を吐いてしまう自分に気づいて嫌になった。
まるで陰口みたいだ。
マリエールは泣きそうに歪んでしまう自分の顔を隠すために、俯いて一生懸命草を抜くふりをした。
(……バロン様はいずれ終わらせる夫婦関係だって言ったの)
怪我をして帰ってきた時、確かにそういわれた。
でも何だかうやむやになってしまって、別れ話はあのときから途切れたままになっているのだ。
そのことが、ずっと何カ月もマリエールの中で重石として沈んでいる。
彼の考えは、この半年間ではたして変わったのかを知りたい。
今、マリエールとずっと夫婦でいてくれるつもりでいるのだろうか。
(でも。どれだけ気になっても、私から話題にだしたことがきっかけになって、ちょうどいいから今日で離婚しようなんて言われたら、嫌だわ)
それが怖いから、マリエールからはずっと訊ねることが出来ないでいるのだ。
「坊ちゃんとうまくいってないのか?」
沈んだ面持ちで雑草を無心に抜く姿を心配してくれたらしい。
マリエールはジイの優しい声を首を振って否定する。
「そんなことないわ。優しいし、いい人よ。……兎になるけど」
「あぁ。いい人だ。……兎になるがな」
そう、バロンはぶっきらぼうだけど優しい。
離婚するほどに嫌なところなんて何もない。
でも……結局、男より女の方が弱い立場にある世の中である。
万が一にも本当に離縁状をたたきつけられれば、マリエールは拒否する権利を持ってはいなかった。
田舎の男爵家の娘が駄々をこねて嫌だと言って泣きわめいても何の意味もなく、あっさりと追い出して捨ててしまうことが彼には出来てしまうのだ。
(いつか、捨てられる……?)
故郷には、もうきっと自分の居場所はない。
嫁ぐ身として当然ながら、一生戻らない覚悟をして出て来たのだ。
こうして半年かけてやっと根付かせた今の自分の居場所が無くなってしまうことが、マリエールはどうしようもなく怖かった。
恋しているくせに夫婦であろうとしない夫と、夫婦になりたいのに近づくことを怖がる妻。
いったいどちらが、臆病者なのだろう。
* * * *
そして五日後の夜。
マリエールは観劇に行く衣装として、深い色合いのワインレッドのドレスを着ていた。
まるで良く知った兎の毛みたいな真っ黒でふわふわのファーストールを肩にかけ、袖口にも黒いファーの飾られた手袋をはめている。
モコモコふわふわな装いだけど、ただでさえ寒い季節かつ夜遅くなのだ、防寒はやりすぎな位で丁度いい。
そして赤に黒という組み合わせがちょっと悪女っぽい配色のような気もするものの、やっぱり白のファーより黒のファーの方が彼の隣に立つのにしっくりきたので、最終的にこうなった。
「お待たせしました」
ドレスと同じワインレッド色の扇を片手に先に馬車の前へ行くと、そこで待っていたバロンがマリエールへ手を差し出してくれる。
「……」
「マリエール?」
差し出された手をつい見下ろして固まってしまったマリエールに、バロンが眉を寄せていた。
「っ、あ……失礼しました」
慌てて手を重ね、そのまま馬車に誘われる。
「馬車をだしてくれ」
「畏まりました」
御者の声と共に、馬車は走り出す。
動き出す振動の中、腰の落ち着かせるためにクッションを引き寄せつつ、マリエールはこっそり息をついた。
(バロン様にエスコートされるの、慣れないわ。いつもは私が兎になったバロン様をお連れする側だから)
……だから慣れなくて、驚いてしまったのだ。
そもそもバロンはあまり外出をしない。
結婚の挨拶や報告をするために家の繋がりが濃い家に何度か出掛けはしたが、あれは仕事のうちだ。
夜の街中を、遊ぶことを目的にして二人で出かけるというのは、本当に初めてのこと。
(なんだか新鮮だわ)
少し緊張もしつつ、馬車の中でのひと時を過ごし辿り着いた、王都で一番大きな、国立の劇場。
劇場の前の地に足をつけ、その煌びやかな建物を見上げたマリエールは感嘆を零した。
「わぁ! 素敵!」
「そんなに珍しいだろうか」
昔からある建物らしく、バロンは見慣れているようだった。
「やはり地方の劇場とは規模が違いますわ。地方のものもまた趣が違って、舞台と客席の間も近くて楽しいですが」
目の前にそびえる劇場の外観は、もうただただ大きくて煌びやかで、柱一つとっても細かな彫刻が施されていたり、扉のノブに輝く金が使われていたりと贅の限りを尽くした感じだった。
案内されて入った客席も四階まであり、何百という人が一度に観劇出来る広さだ。
マリエール達は二階席のバルコニーの一区画に案内され、席に座る。
舞台はまだ幕が降りており、その両端手前にある一段窪んだ空間で劇中の曲を奏でるのだろう楽団が準備を初めているところだった。
時々なる音合わせの音と、ガヤガヤとした人の声を聴きながら、バロンはワイン、マリエールはレモン水を飲みつつ舞台が始まるのを待つ。
あまり大きな声を出していい場所ではないので、マリエールは扇で口元を隠しつつ控えめにバロンに話しかけた。
「劇場ならではの、なんとも言えない空気ってありますよね」
「あぁ……図書館とか、美術館とかと同じようなやつか?」
「そう。日常とは少しだけ違った場所みたいなの。結構好きなんです―――バロン様?」
マリエールが視線を向けたバロンは、どこか遠くをみていた。
(一体何を……?)
不思議に思って彼の視線をたどってみると、マリエールとバロンの座る正面、舞台を挟んだ反対側の二階バルコニー席を見ているようだった。
二十代前半くらいの男性と女性の二人組。こちらと同じく夫婦か、もしくは恋人どうしだろうか。
どちらも見覚えのない顔だったので、マリエールは首をかしげた。
「バロン様のお知り合いですか?」
「……いや」
ゆっくりと首をふり、僅かに瞼を伏せてしまったバロンのまとう空気は硬くて。
それ以上深入りしていい話題ではないのだと察してしまった。
少しのきまずい沈黙が漂ったところで―――盛大に鳴り響く、始まりを告げる楽団の音楽。
階下にある舞台の幕が、ゆっくりと開かれた。




