2-8 エメラルドブルーの香水瓶②
夕焼け色に空が染まる頃。
マリエールの家を出たガーネットは、馬車に乗って宿までの道のりを辿っていた。徒歩で行けると言ったけれど大きな荷物だからとグラットワード家の馬車での送迎を押し付けられてしまった。
……この王都に着くまで長い事乗っていた乗合馬車からすれば、雲泥の差の乗り心地に揺られながら、ガーネットは小窓から見える街並みを赤い瞳でぼんやりと眺める。
さすが国の中央地であるだけあって人も多ければ建物も大きく高い。華やかで、賑やかで、トラスト男爵領とは空気からして違う気がした。
耳にはかすかに町の雑踏の音が届いているものの、マリエールと楽しくお喋りしていたつい先ほどと比べると、とても静かだ。
うっかり、小さな口からつぶやきを漏らしてしまう。
「……良かった。嫌な顔されなくて」
侍女のヴィセにはああ言ったが、嫁いでいった友達を追いかけて、いきなり家に行くなんてもちろん常識が無い事だと知っている。
でも、森の奥で、師匠が亡くなって以来ずっと一人で生きて来たガーネットにとって、マリエールは唯一のつながりのある人物だった。
彼女がいなくなって、寂しくて寂しくてどうしようもなくて。
訪ねていいかを聞いてまた長い月日、返事を待つのがもどかしかったから、助けを求める手紙に乗ってほいほいと王都まで来てしまった。
マリエールは年を取らない自分の容姿に、興味は持ちこそすれ気味悪く思うことの無い、稀有な存在。
「…………」
ガーネットは腕を伸ばして、自分の手のひらをぼんやりと眺めた。
「丸っこくってフニフニ。どう見ても、子供の手だわ」
リボンを取り合った初対面の五年前、あの頃はお互いに同じくらいの身長で、同じ位の子供の姿だった。
でもマリエールはもう、立派な大人になった。
あきらかにおかしいガーネットに、彼女だけはずっと変わらず接してくれる。
バロンの兎になる呪いというのも、一見は可愛いけれど所詮は『呪い』である。
屋敷の中で呪いのことを知っている者は何人かいるようだが、それは子供のころから知っているほどに近しい間柄だから受け入れられたのだ。
会ったばかりで怖がらず逃げもせず受け入れて傍にいられるのは、マリエールだからだろう。
「……まぁ、薬を渡しといてなんだけど。呪われた人に会ったのなんて初めてだったし。呪いに実際に薬を試す機会がなんて今までなかったから、どれだけ効果があるかは実はあたしも分かんないんだけどねー」
桃色の唇からぽそりと漏らされたとても重要な事実は、誰の耳にも届かず消えた。
そもそもガーネットは呪術に対しての知識なんてほぼ持っていない。
師匠から洩れ聞いた昔話を繋ぎ合わせて、これならいけるかもと思って薬を渡したにすぎず、効かない可能性の方がよっぽど大きかった。
「怒られるかしら、ね」
* * * *
――月は高くに昇り、もう少し経てば兎になるだろう時刻。
寝室のベッドの端にマリエールと並んで座り、バロンはガーネットに貰ったお試しの薬の入った瓶を摘まんで目線の高さに掲げていた。
透明なガラスでできた可愛らしい香水瓶のような入れ物に入った、透き通ったエメラルドブルーの液体。
揺らしてみた感じでは、少しとろみがあるらしい。
薬というには綺麗すぎる見た目で、ジュースや酒にもあまり見ない色なので、飲むのには勇気が必要そうだった。
(しかしこれが一時的に呪いの効果が消えるという薬ならば、飲まない理由はない)
解決したとは言い難いけれど、夜の社交の誘いを無碍に断る必要がなくなるというのはバロンにとってとても嬉しいことだった。
当主が変わり者という印象は、妻であるマリエールにとっても肩身の狭いことだろうから。
(それにこれがあれば、パーティーでマリエールをエスコートして、マリエールとダンスをすることも出来る。いや、しかし―――そうだ……!)
思いついて瓶から顔を上げたバロンは、ドキドキと胸を高鳴らせる。
見た目はいい大人かつ表情も豊かではないのだが、内心はまるで恋する乙女のごとく初心で純情だ。
緊張と期待をもちつつ、おそるおそる隣に座るマリエールに提案をしてみた。
「マリエール、その……」
「はい?」
小首を傾げた、薄い夜間着にカーディガンを羽織っただけの恰好の彼女はいつもながら目に毒だ。
もちろん手を出す勇気も根性もバロンは持ち合わせてはいないのだが。
「こ、これの効果を確認するために。夜にでっ、でっ、でーとをしないか?」
緊張のあまりに声が裏返ってしまった。
そんな様子のバロンとは正反対に、マリエールはいつも通りの態度で首をかしげている。
「デートですか? ええと……いつもは兎になる時間に、二人でお出かけということでしょうか」
「そうだ」
「……。どれくらいの効果なのか確証が持てないのに、最初の使用から人目にさらされる外に出てしまって大丈夫でしょうか。まずはこの寝室の中でだけで試しては」
「ガーネットは自信満々だったぞ。ま、ま、ま、まりーの友人を、私も信頼しているから、きっと大丈夫だ」
友人を誉められた嬉しさからか、初めて言った愛称にかわからないが、マリエールははにかみを浮かべた。
しかし直ぐに、戸惑う仕草を見せる。
「有り難うございます。でも……相当に値が張るものですし、私とのお出かけなどに使うのももったいな、」
「勿体なくない!!!」
思わず身を乗り出して大きな声を出してしまったバロンに、マリエールは驚いたらしく目を丸めた。
「あっ、その……!」
バロンは慌てて詰めてしまった身を引き、狼狽しつつ言葉を探す。
お喋りはあまり上手くないので、つっかえながら、言葉を探しつつだったが。
しかしどれだけの金よりもマリエールとの時間の方が自分には重要なのだと、どうしても伝えたかった。
「こ、今後気軽に使えないかもしれないものだからこそ、このお試しの薬はマ、マ、マリーとただ楽しむ時間のためだけに使いたいんだ。いつもは出来ない……夜の遊びを、マリーとしてみたい――――――だめ、だろうか」
マリエールはバロンの勢いに少し戸惑っていたようだが、少しの間を開けてふんわりとほほ笑みをみせた。
「分かりました」
承諾の返事に、一気にバロンの気分は上がる。
「どこか行きたいところは無いか!」
「……バロン様のお好きなところに。今まで出られなかったのですから、夜に行ってみたいところはたくさんあるでしょう?」
バロンの行きたいところにという言葉に、考えたすえ、夜限定の演目を見るために劇場での観劇を提案してみた。
いつかマリエールが気になる演目があると、世間話程度に話していたはずだ。
バロンの記憶は確かだったようで、彼女は嬉しそうに頷いてくれた。




