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臆病なうさぎさん  作者: おきょう
続章

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2-1 魔女の来訪①




 ――ポフ。



 フワフワの黒い毛に覆われた兎の前足が、紙の上で柔らかく踏み鳴らされた。


「はい。どうぞ」


 それを合図にマリエールは紙を抜き、新しい紙を()の前に置く。

 兎の小さな身体からすれば、自分よりもずいぶんと大きい紙だ。

 全てを読むためには左から右、上から下へと、何歩も移動しなければならない。

 人間よりもずっと時間のかかる読む作業を兎がしている間に、マリエールは判に朱肉を付けておく。

 そうしつつ、真剣な顔で書類を読み進める兎を観察し口端を上げた。


(……どこからどう見ても普通の小動物が、やけに人間くさい仕草で頑張ってる姿って、愛嬌があるのよね)


 小動物には、見たものが思わず笑顔になってしまう魅力もあった。



――ポフポフン。


 また、前足が鳴らされた。

 今度は二度だ。


 マリエールはにっこりと笑って背を屈め、机の上の兎へと判を差し出す。


「はい。バロン様。気を付けて抱えてくださいね」


 兎は大ように頷き、前足で判子を受け取ると、ペタンッと紙に押し付けた。

 判子も紙と同じく彼にとってはとても重くて大きいもの。

 持つのは大変なので、柄の上の部分をマリエールの指先がサポートしている。



 本人は判子もまともに押せないことと、こんな些末な動作を手伝わせていることを情けなく思っているらしい。

 現に今も、悔しそうに青色の眦が細められていた。


 しかし少し前までこの姿でたどたどしく仕事をする彼をもどかしい気持ちで見ているだけだったマリエールからすれば、むしろ嬉しかった。


(兎一匹きりだと、いつ書類の山と一緒に机から転がり落ちてしまうかと、本当にハラハラするのだもの。手助けさせてくれた方がよっぽど安心出来るわ)


 いっそ落ちる心配のない床でやって欲しいのだが、彼のプライドがそれは許さないらしい。

 

(この一生懸命に判子を抱えてる、フワフワで小さくて黒い兎が私の夫だなんて言って、一体誰が信じるのかしら)



 ちょっと仕草が人間くさく、兎にしては目つきが非常に悪いけれど、どこからどう見てもただの兎だ。

 彼が夫だなんて口にすれば、きっと誰にも怪訝な表情をされて距離を置かれるだろう。

 それくらいに信じられないような、有り得ない話。


 でも本当に、黒い兎はマリエールの旦那様、バロン・グラットワード侯爵なのだ。

 



 ……マリエールがこの、夜に兎になる呪いを受けているバロンのもとに嫁いで、もう半年。



 結婚当初は距離があったものの、自分が怪我をした事件がきっかけで少し近づけ、今はこうして仕事を手伝うまでになっている。


 今日は仕事を昼の間に終えることが出来ず、兎になる時間を過ぎてしまっていた。

 不自由な兎になってもなお手を止めることなく働く夫を、マリエールは素直に尊敬してもいた。

 

「もう少し、頑張りましょう」 


 その後、二十分ほどかかってバロンは仕事を終えた。

 マリエールは仕上がった書類を整理し、今は別の用事をしているテオが回収しに来ても分かるように区分しておいておく。


「なんとか終わって良かったですね。さぁ、もう本当に遅いです。早く休みましょう」


 全ての書類を仕分けして、マリエールは寝室へと移動するために両手を差し出した。


「バロン様。はい、こちらへ」

「っ……」


 バロンは一瞬、恥ずかしそうに躊躇(ためら)う仕草を見せた。

 しかしもう少しだけ手を近づけると、マリエールのその手に大人しく掬われて抱き上げられてくれる。

 彼を片腕で抱えて空いた手で机の上の鈴を鳴らし、出て来た使用人に暖炉の火の始末だけを頼み、部屋を出た。

 ――廊下はもう暗く、とても静かだ。

 抱いているバロンに振動がいかないように、マリエールは寝室までの道のりをゆっくり歩く。

  

「あら」


 数分もたたず腕の中で丸まっている兎のバロンはうつらうつらとしていた。

 首が上下に揺れて、青い瞳の瞼は降りたり薄く開いたりを繰り返している。

 ゆらりと揺れる耳も次第に落ちてきているようだった。


 マリエールはそっとその背を撫でた。

 

「お疲れ様です。眠っても大丈夫ですよ」


 柔らかな声に誘われるように、兎の瞼はすぐに完全に落ち、首も身体も含め、ことんと腕によりかかる様に全身が預けられた。

 

 小さく笑みをこぼしたマリエールがバロンから顔を上げると、廊下の窓の外では雪が降り始めていた。


「……懐かしいわ」


 既視感を覚え、脳裏に浮かべたのは故郷の景色。

 ここより少し北にあるトラスト領は、今頃はもう一面に薄く雪が積もっている頃だろう。

 この分だと王都も今日明日くらいから積もりだし、本格的に寒くなるかもしれない。

 

「あの子は、今頃どうしてるかしら」


 思わず呟いてしまった『あの子』というのは、実家に居た頃に一番仲良くしていた友達のことだ。

 一緒に過ごす時間が長かったから、故郷を思うと自然に彼女のことも思い出してしまう。

 家族に出すのと同時に出した手紙は、彼女からだけ返事が来ていない。

 森の奥にたった一人で生きる子。

 人里離れた場所に住んでいるから、無事に届く可能性の方が低いのだと分かっているが、それでも—―。


「元気でいるかどうかだけでも、知りたいなぁ」


 暗闇で吐息と一緒に落とした願いが比較的すぐに叶うことを、マリエールはまだ知らなかった。



* * * *






 「よいっしょ」

 

 季節は、冬。

 

 グラットワード侯爵家に仕える侍女のヴィセは、主であるマリエールの居室の暖炉から出た灰を片付けるため、灰入れを手に廊下へと出ていた。

 

(今日は特に寒いから、あっという間に入れ物が一杯になってしまうわ)


 窓の外は昨夜遅くから降り始めた雪がまだ続いていた。

 この分だと明日は屋敷の使用人みんなで雪かきしなければならないかもしれない。

 マリエールやバロンが風邪など引かないように、ベッドに毛布をもう一枚だしておこうか。

 昨日は仕事が忙しかったらしく二人して寝不足のようだから、何かすっきりするものを差し入れてみるのもいいかもしれない。


(ミントティーとか? それかはちみつレモンもありかしらね)


 そんなことを考えながら、ヴィセはゆっくりと廊下を進む。

 灰は勝手口の横にさえ出して置けば、屋敷の庭師が肥料を作る材料にするため持っていってくれるはずだ。


(でもその前につまずいて灰をぶちまけてしまったら悲惨だわ)


 数日前にワックスがけがされたばかりの、ツヤツヤピカピカの床なのに。

 ことさらに慎重な足取りになってしまう。


「ヴィセ。少しいいか」

「はい?」


 名前を呼ばれたので振り返ると、タキシードに蝶ネクタイを締めた格好の男が一人、小走りにこちらへと近寄って来た。

 この屋敷に使える、ヴィセも顔見知りの侍従だ。

 彼はなんだか眉を下げて肩を落とし、見るからに困っているようで、何か問題が起こったらしい。


「どうしました?」

「……実は、マリエール様への来客のようなんだ」

「まぁ、お客様?」


 ヴィセは返事をしながら首をひねった。

 いくら思い出しても考えても、今日来客が来るという話には覚えがなかったのだ。



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