19 繋がった手の先に②
「……十年前。私は初恋というものを経験した」
別れようとさっき告げたばかりの彼の口から唐突に始まった昔話。
しかも初恋の話に、ベッドに横になっているマリエールは首を傾げた。
しかしバロンが堅い声で言葉を紡ぐ姿に気づいて、大切な話なのだと悟り、真剣に耳を傾けることにする。
「初恋、ですか?」
お腹が痛まない程度の小さな声量で訊ねると、こくりと彼は頷いた。
ひどく緊張しているようで、彼が膝の上で握った手が震えていることにマリエールは気づいた。
(……十年前というとバロン様はまだ十三歳よね)
マリエールなんて五歳だ。
そんな幼いころの話をなぜ今するのだろうと不思議に思っていたが、すぐに自分に関係のある話だったのだと気づくことになる。
「私は父の仕事について勉強をするため、父と共に北の地方に出掛けた。トラスト男爵領だ」
「まぁ。私の実家の領地にいらしたことがあったのですね」
「あぁ、一度だけ。……そこで泊まっていた宿の中で、私は夜、兎の姿で怪我をした。しかも呪いについて知らない人間にそのまま外に放り出されてしまったんだ」
怪我をした兎の姿で外に放り出された。
話すことも出来ず、力もない姿でのその状況を想像し、マリエールは眉をひそめた。
「それで、どうされたのですか?」
「大雨の日だった。一晩中雨に打たれて熱も出て、血も止まらなくて、体力も精神的にも弱り切って、朝になっても身体が人に戻らないくらいになっていて、もう本当に駄目だと思った」
「…………」
「その時、私を拾ってくれた女の子がいたんだ。血と雨と泥で汚れきっていて、今にも息絶えそうな、道端に転がっていた兎を、何のためらいもなく温かな腕で抱きあげてくれた、幼い女の子が」
「良かった……」
助けてくれた人がいたのだと、マリエールはほっと息を吐いた。
でもなんとなく、既視感を覚えて眉を寄せる。
「傷と雨が原因で体調を崩し、熱にうなされる私に何日も何日も、彼女はつきっきりで傍にいてくれた。ゆっくり撫でながら、ずっと励ましてくれた。私よりずっと年下の小さな子が、私を生かそうと必死に頑張ってくれた」
考えていたマリエールの瞳が、ゆっくりと見開かれていく。
(雨の日に、怪我をした兎を拾って、看病……)
遠い昔、一度だけ動物を飼った記憶。
あまりに感情移入してしまって、気づかない間に窓から逃げて居なくなってしまったと知った時は悲しくて悲しくて大泣きした。
別れが悲しすぎたから、同じ思いはもうしたくなくて、あれ以来動物を飼うことはなかった。
子どもの頃の楽しくて幸せで、そして最後は辛かった思い出だ。
その記憶が、バロンの話している昔の話と、重なり合っていく。
「まさか……」
「っ、だから! 私はっ、君を妻にと望んだんだ……!」
叫ぶように言い切った彼の耳は、赤く色づいていた。
「ひ、ひと月一緒に居て、数えきれないほどの君のやさしさに触れた。居心地が良すぎてどうしようかと……でも、ずっとそうしている訳にもいかなくて抜け出した時、隠れながら聞いた君の泣き声に、どれだけ胸をかきむしられるような思いをしたか――――っ、好きなんだ。十年前からずっと。ずっと君のことだけが、好きだった」
そう言った直後、バロンはくしゃりと顔をゆがませる。泣きそうに。
「なのに……大事なのに……私のせいでこんな風に傷つけてしまった……」
じわりとマリエールの薄茶の瞳に涙が滲む。
歓迎されていない嫁入りではなかった。
ちゃんと愛されてた。
ちゃんと想ってくれていた。
嬉しくて、胸が詰まる。
でも同時に、だったらどうして人間の時にあんな態度をとるのだという怒りも沸いて来る。
堰を切るように、マリエールの口から今までの不満が零れ落ちた。
「っ、どうしてそれを、私に言ってくださらなかったのです。どうして避けるような態度をとっていたのです。兎に変わることが言えなかったとしても、それでも余所の男と遊んでいいなんてこと言わなくても良かったはずです。どうして、それで……私を好きなのに、別れようなどと言えるのです」
「―――私は、最初からいずれ君を手放すつもりだったから。時が来ただけだと」
「え……」
バロンは頭を振って、吐き出した。
「呪われた血なんて、もうたくさんなんだ……! もう、自分の代で終わらせるつもりなんだ」
子どもを作る気はない。
ずっと夫婦でいる気もない。
ただ、あの時のぬくもりをたった一時だけでももう一度味わいたかったと、彼は言う。
だから誰から見ても一度もマリエールを抱いていないような態度をとる必要があった。
あれは別れても仕方ないと周囲が思うくらい、冷たくしていた。
「どっ、どうせ君みたいな魅力的な女性に言い寄る男なんて、これから幾らでも出て来るんだから。優しくて頼りがいがある男が現れた時、堂々とその男の下に行けるようにって……思って……」
「私の将来の為にって、ことですか」
彼はこくりと頷いた。
「私は、呪われている。呪いを、君や君の子に被せるなんてしたくない」
「……バロン様」
(馬鹿だわ、この人。馬鹿っていうか……とっても臆病? 自分に自信がないのね)
呪われた自分が、とても汚らしいものにでも見えているかのようだった。
マリエールはとっても呆れた。
馬鹿馬鹿しいと思った。
バロン自身は、真剣だろうし、生まれながらに呪われた血を持った人間の気持ちなんて、マリエールにはどうしても分からない。
分からないから、別にそのままでもいいのにと思ってしまう。
「バロン様、兎の姿とても可愛いですよ? そんなに嫌がるような……情けなくももみっともなくもないです」
「呪われた姿だ」
可愛いだけなら、まだ恥ずかしいと思うだけですんだ。
でも兎は、呪いなのだ。
愛する人に良い影響を与えてくれるはずがない。
そんな思いを表情に表し瞳を揺らすバロンの手を、マリエールは握り、屈託のない笑顔を浮かべた。
彼が呪いに引きずられない様に、自分が明るく引っ張ろうと思った。
「分かりました」
「な、なにが」
「バロン様にとって、呪いが重く苦しいものなら、探しましょう。別れない為に必要なようですし」
「探す?」
「呪いを解く方法を、です」
「そんなの。あるはずが無い……! 何度も何度も探した。手に入るだけのありったけの本を読んだ。おかげで家の図書室は魔術だの魔法だの魔女だのパワースポットだの、明らかに異彩を放つものになってしまっているんだぞ」
「まぁ。ふふっ」
「な、なんで笑う。それに、魔女が居ると噂の森にまで足を向けたけれど、野獣に追いかけられ怪我をして帰ってくるだけで終わってしまった。本当にもう、もうどこを探せばいいのかもわからないんだ」
「あります。絶対に」
マリエールははっきりと言い放った。
個人的に今まで調べてもいたけれど見つからなかったことは言わない。
知らせれば、彼は落ち込んでしまうから。
それにマリエールは絶対に見つかると信じているから。
微笑みつつ、横になったままベッドの端へと身をよじらせ移動し、手を伸ばした。
バロンが膝の上できつく握っていた手に、自分の手をかぶせる。
「見つかりますよ」
どうしようもないほどに優しい声に、バロンの頭が揺らぐ。
ばっと勢いよく顔を上げて、夜に怯える子どもみたいな表情をした彼は言う。裏返った声で。
「どっ、どうしてそんなに良くしてくれるんだ! ま、ままままりえーるは、私のこと、す、すっ、好きなのか!?」
「え?」
驚いてしまったマリエールの反応に、バロンはとたんに泣きそうに顔を歪ませた。
「ち、違うのか?」
「えーっと……」
政略結婚が当たり前で、恋愛をする日がくるなんて想像もしていなかった。
でも、バロンは間違いなくマリエールに『恋』をしてくれているらしい。
反対に、マリエールは?
(私が、バロン様に恋? うーん)
妻として、役に立たなければと思っていた。
家族になるのだから、助け合わなければと思っていた。
バロンのことは好きだけど、でも恋や愛には、まだ届いていない。
だって彼は、マリエールに対して決して優しくはなかったから。兎の可愛い姿以外でときめく要素が、正直あまりなかった。
(なんて言うか、むしろ不器用で手のかかる子を見守る母のような気持ちというか……)
「えっと、今は、ごめんなさい。違うかもしれません」
「そう、か」
あきらかに落胆し項垂れたバロンに、マリエールは小さく笑いを漏らす。
そして背を丸めて再びうつむいた夫の姿を眺めながら、柔らかく目を細めた。
(……でも、予感はするわ)
この人となら、いつかは愛し愛され、生涯寄り添い合える関係になれると。




