18 繋がった手の先に①
公爵家の奥まった一室に、倒れたマリエールは運ばれた。
呼ばれた医師や、控室から駆け付けたヴィセがいったん退室したそこは、同じ屋敷内で今も行われているパーティの賑わいが嘘のように静まり返っている。
(マリエール……)
バロンはずっとマリエールの枕元にへばりついて、彼女を見守っていた。
彼の長い耳は垂れ下がり、背は丸まっている。
あきらかに彼女を心配し落ち込んでいて、そんな様子の兎に、医師もそのままにしてくれていたのだ。
何よりもマリエールが完全に意識を失う寸前まで必死に兎を守ろうとしていたことも、兎がベッドの上から払いのけられずにいる大きな要因なのだろう。
バロンは青い顔色で目を瞑っているマリエールから視線を逸らすことなくいたが、ふと気づくとベッドの傍に男の気配があった。
マリエールに集中しすぎていて、誰かが入室して来ていたことに気づくのが遅れてしまったのだ。
「屋敷に姿が見えないと思ったら、やはりこちらにいらっしゃいましたか。バロン様」
テオの声だった。
マリエールについての連絡が屋敷にまで行って、駆けつけてくれたのだろう。
のろのろと顔を上げて見た彼の顔は眉を寄せていた。
いつもの余裕のある笑みとは真逆の厳しいものだ。
会話の出来ないバロンを見下ろす紫の瞳も、とても冷たい。
「公爵様の手配してくださった医師と話をしてきました。命に別状はないとはいえ、肩から背中への大きな擦り傷と足や腕にも傷があるそうです。一番深手なのが兵が蹴ってしまった腹部への打撲。腹部は結構大きな青あざになってしまっているようで……痛かったでしょうね、可哀想に」
棘のある台詞は、あきらかにバロンへ向けられたもの。
「しかも原因はうちの兎。兎ですよ。公爵様はずいぶん恐縮してらっしゃいましたが、うちの兎が原因では責める気にもなれない。どの家だって野良兎に庭に住み込まれれば捕獲して処分しますよ。我がグラットワード家の先々代当主もそうしました」
マリエールに危害を加える形になった兵は何らかの罰は受けるだろうが、屋敷にいた獣を始末することは職務内に入ってもいるので、重いものにはならないだろう。
なによりバロンが不用意に着いて行かなければ、こんな騒ぎはおこらなかった。
マリエールは立派にグラットワード侯爵家の妻としての役割をまっとうし、パーティーを楽しみ、屋敷に帰っていたはずだ。
心配する必要なんてまったくなかった。
足手まといにしかならない体なのに、付いてきてしまった。
「ほんっっとうに、情けないですねぇ」
心の底から吐きだされたテオの台詞に、どんどんどんどんシーツにのめり込んでいく、兎。
彼の言う事すべてが事実だから、反論も出来なかった。
(情けない……好きな女に守られ、怪我をさせて)
いままでバロンは自身のみっともない、呪われた姿が嫌いだった。
でも今は、兎の身の力の無さが悔しくて仕方がない。
落ち込むバロンを見下ろすテオは、大きく溜息を吐く。
「はぁ。まぁ……乱暴をしようとする男の前に飛び出していったマリエール様の無茶な行動も後で叱らないとですが―――とにかく、グラットワード家へ運びましょうか。そろそろ貴方も人間に戻るころです、早く帰らないと」
こくりと頷いたバロンは、そのままテオの手に掬われ持ち上げられる。
テオが部屋の前に控えさせていた侍女と侍従を呼び、マリエールを運ばせるのを、バロンは小脇に抱えられてただ見ているのだった。
* * * *
――――暗い所に落ちていた意識が、ぼんやりと浮き上がってくる。
「つっ……」
「マリエール」
ふっ、と熱っぽい吐息を吐きだしながら薄く開いた視界の先に見えたのは、もう見慣れた寝室の天井。
そして酷く憔悴した様子の、上から自分を覗き込んでくるバロンの顔だった。
「起きたか? 目が覚めて良かった」
(私……)
マリエールは返事も出来ないまま、しばらくぼんやりと、どうしてか泣きそうな表情をして自分を見下ろしているバロンの顔を見上げていた。
半分だけ開けられているらしいカーテンから差しこむ陽はずいぶん明るい。
もう、夜は開けて昼近くにまでなっているのかもしれない。
自分はここで、何故眠っていたのだろう。
どうして枕元に、バロンがこんな顔で居るのだろう。
ゆっくりと考えを巡らせていくと、次第に意識を失う前の出来事がよみがえってきた。
「あっ」
ぱちりと瞬きしたと同時に我に返ったマリエールは、慌てて身体を起こそうとする―――が。
「ん……痛っ―――」
とたんに腹部に鈍痛が走り、嫌な汗が吹き出す。
「よ、横になってろ。擦り傷と打ち身で、内臓に問題はないようだがしばらくは痛むから安静にしろと医者がいっていた」
「……バロン様」
「い、医者を呼ぶか!? それとも侍女か、ジイがいいか!?」
「い、いえ。大丈夫です」
「本当に? つらそうだぞ?」
「急に動いたせいでしょうし、寝てれば収まるでしょうから。少し……手を貸していただけますか?」
「あ、あぁ」
お腹のあたりにズキズキと広がる痛みに涙目になりながら、マリエールは彼の手に支えられて横になりなおした。
傷が痛まない姿勢を探してしばらく身じろぎを繰り返し、落ち着いた場所を見つけてほっと息を吐く。
シーツの中で手を動かし、自分のお腹のあたりを触ってみる。
(うーん……押すと、痛い。絶対に結構な大きさの青あざが出来てるわね)
たぶんニ三日たつと赤黒く、余計に痛々しく見えてくる類のものだろうなと、原因を思い出しつつ想像した。
でもまぁ、一発だけなので重傷と言うほどでも無いだろう。
そんな風に考えていたマリエールへと、バロンがひどく疲れたような、弱々しい声音で口を開いた。
「……マリエール」
彼と二人きりで居るのもあまり無いが、彼から声をかけられるのも珍しいこと。
マリエールは横になったまま首をかしげて、バロンを見上げた。
「はい、バロン様。どうかされましたか?」
「……君はあのとき兎を……その……もしかして、私のことを」
言いにくそうに口ごもったバロンの台詞を繋ぎ合わせ、自分が兎に対して「バロン様」と呼んでしまったことを思い出した。
とっさのことで、いつものように『兎さん』と呼ぶのを忘れてしまっていたのだ。
もう仕方ないかと、観念して話すことにする。
「バロン様が兎になることなら、すみません。知ってます」
「!? ど、どどどどどうして」
「ええっと、ここに嫁いで早い段階で、テオとの会話を聞いてしまって……バロン様がとても隠したいようでしたので、そのように」
「…………そうか」
バロン様はぐしゃぐしゃと自分の頭をかき混ぜる。
「知っていたのか……」
そしてため息とともに肩を落とし、ベッドサイドの椅子へと思わず座りこむなり、項垂れてしまった。
俯かれると乱れて落ちた黒髪で隠れて、彼の顔が見えない。
バロンが兎になることを知られることを恐れていたことは知っていた。
だから知っていることをマリエールも隠していた。
こうして秘密が明るみになった今、想像していた通り、やはり彼は落ち込んでいる様だった。
沈んだ様子のバロンが心配になって声をかけようと唇を開こうとしたが、しかしその直前にバロンの掠れた声が部屋に落ちた。
「……別れよう」
「え」
マリエールの薄茶の瞳が、ゆっくりと見開かれていく。
「あの?」
秘密を知ったことが、別れに繋がるなんて想像していなかったのに。
「もうこの婚姻は終わりだ。悪かったな。こんなおかしな人間が、君みたいな人を娶ろうとして。しかも、呪われた身を守るために、怪我までさせて」
「バロン様?」
「離縁の表向きの理由はなんでもいい……そうだ。私が暴力的で、君を無理矢理に追い出したと言う事にし」
「バロン様っ!」
マリエールは、バロンの言葉をさえぎって叫んだ。
「何、何を……いってらっしゃるの……?」
思わず眦を吊り上げて睨みつけた。
しかしバロンは気まずそうに余計に顔を背けてしまって、視線が噛み合うことはない。
マリエールはずっとずっと、一生彼の妻でいるつもりなのに。
そのつもりでここに嫁いできたのに。
たとえ兎だろうと彼の妻であることは変わらないのに。
どうして、バロンはーー……。




