17 賑やかなワルツの裏で④
――――結局、気になって我慢できず。
バロンは自分の意思で忌まわしい兎の姿になり、御者台の下にある荷物置きに潜んでついてきてしまっていた。
マリエールのことを信頼していないわけではない。
公爵家のパーティーでそうそう事件がおこるはずが無いことも分かっている。
ただ、それでも夜にまだ馴染みのない場所へ送り出すのは心配だった。
そして外での彼女の顔というものがどんなものなのか興味もあった。
パーティードレスを着たマリエールは本当に華やかで綺麗で、自分の知らない人みたいで、これを他のたくさんの人に向けるのかと思うと胸がざわついたのだ。
(まぁ、まったく心配する必要なんてなかったようだが)
公爵家の庭先の窓扉ごしに、こっそりと会場の中を覗いていた兎の姿のバロンは溜息をはいた。
マリエールは明るい会場の中、とても楽しそうに笑って、話している。
社交は得意ではないとバロンには言っていたけれど、お喋りではなくても真摯に話を聞く姿勢や、常に笑みを絶やさないところが周囲からは好評価を得ていると、彼女をとりまく人々の表情から察せられた。
そしていったん壁際に移動したマリエールが、誰から見ても分かりやすく、羨ましそうに、眩しそうにダンスの輪を眺めているのに、声をかけようかと気にしている紳士たちの姿に胸の奥が詰まった。
(夫であり、好きな人でもあるのに、私にはマリエールの手を引くことは出来ない。あっ)
夫でありながら手さえ握っていない仲なのに、余所の男はなんのためらいもなく彼女の手を取った。
男は優しくマリエールを促し、しかも手を握りながら、一緒にダンスの輪の中へ入って行く。
そのまま楽しそうに踊り出した二人。
寄り添いあい、笑いながら話している彼らの姿に、バロンはもう耐えられず、広間に背を向けてしまった。
(っ……)
そして彼は四本の足でとぼとぼと庭の奥へと入っていく。
(くそっ!)
社交界は人々の交流の場なのだから、当然の行為であるのだ。
ダンスや会話、酒を通して仲を深める。
そこで家同士のつながりの強化が出来ればなお良いし、人によっては様々な算段もあるのだろう。
今夜のマリエールはグラットワード家と他家の仲を深めるために出てくれていて、立派に役目を果たしてくれる。
感謝するべきところなのに。
なのにバロンはとても気分が悪かった。
胸のうちに黒いドロドロしたものが膨れ上がっていくような、嫌な感覚がした。
いっそのこと今すぐに引きはがして、怒鳴りつけてやりたい。
自分の妻なのだと大声で言ってやりたい。
でもそのどれもが絶対に叶わない、呪われた兎の身。
(もう時間的にも、自分の意思で人間にも戻れないしな……)
例え人間になれたとしても真っ裸。服を調達しに警備の厳しい公爵家へ盗みに入るのも難しいだろう。
どうにもならない苛立たしさと悔しさに歯噛みしながらも生垣の影に隠れていたバロンだったが、降り注いでいた月の光にふっと影が差しこんだ。
「おい、兎がいるぞ」
「何で?」
「野兎がどっかから紛れ込んできたのか?」
(しまった……!!)
気づいた時にはもう三人の警備兵が、バロンを囲んで見下ろしていた。
逃げる間もなく、そのまま大きく武骨な手が伸びて来て、遠慮なく後ろ首を掴み持ち上げらてしまう。
(くそっ! やめろ! 離せ!)
「うおっと、こら! 大人しくしろ!」
(離せ! 離せ離せ……!)
暴れても、しょせん兎だ。
大の男はそれくらいの兎の抵抗にびくともせず、他の二人に掲げて見せながらブラブラと揺らして遊びさえした。
ぐらぐら揺らされ目を回しそうになりながらも、バロンは必死に短い手足を動かして逃げようとあがく。
(やめろ! 痛いだろう! このこのっ!)
こっちはとても必死なのに、男たちはずいぶん余裕で、のんびりとした様子だ。
「それにしても目つきの悪い兎だなよぁ」
「さっさと追い出そうぜ。今お偉い方々がたくさん来てるから、獣がいるとこなんて見られたら当主に怒られるだろ。虫でさえ大騒ぎするんだから」
「いや。こういうのって追い出してもまた帰って来てしまうものじゃなかったか? 庭のどっかに巣作っている可能性もあるし」
「まじで? じゃあ縄で縛って捕まえといて、どっかで処分して貰うか」
「厨房に持って行けば捌いてくれるんじゃないか?」
「それいいじゃん! 兎の肉ってうまいよなー」
「え、俺食べたことない」
兵たちの会話に、ゾッと背筋が凍った。
このままだと、血を抜かれて皮を剥がれ、最後には捌かれて食われてしまう。
先々代がやったことが巡り巡って自分に帰ってきてしまうのか――――。
(くそっ! 食われてたまるか! 離せ!)
バロンは渾身の力を込めて思いっきり身を捩り、四肢をばたつかせる。
「うわっ! なんだこの兎! なんか変! 気持ちわるっ!」
「あ!」
「こら!」
予想以上の力で暴れる兎に驚いたのか、兵士の手が緩む。
「おい逃がすなよ!!」
バロンは隙を見逃さず、勢いをつけて飛び降りた。
トンと地面に足をつけて、ホッと息を吐く。
そして、さぁ逃げようとした時。
顔を上げたバロンのもう目の前に迫っていたのは、兵士の靴。
逃げようとする兎を止めるため、思いっきり蹴り上げてしまおうとしているのだ。
(っ……!!)
自分の身体ほどに大きな足が迫ってくる恐怖に、ひっと引きつった息が漏れた。
この兵は蹴りで兎を殺そうとさえしていると、ためらいの無い動きであっさりと悟ってしまう。
固い鉄版の入った兵の靴で蹴られるなんて、絶対に無事ではいられない。
(駄目だ、逃げられな―――)
「バロン様!!!」
「うわっ!?」
(!?!?)
良く知った―――マリエールの声が突然聞こえたかと思えば目の前が真っ暗になって、柔らかな何かに全身を包み込まれる。
次いで、間を置かずに鈍い衝撃が伝わった。
「ぅっ……!」
「やっ、べ」
低くくぐもったが届く声。
自分を包むのが、マリエールの腕なのだと理解したとき。
「なんで兎なんか構うんですか! 大丈夫ですか!!」
「どこの令嬢だ? おい! 医師の手配を……!!」
「俺手配してもらうよう言ってくる!」
聴こえた男たちの声の内容に――――息が、とまった気がした。
(マリエ――ル……!!!!)
マリエールがバロンをかばい、兵とバロンの間に割り入って、バロンの変わりに思い切り蹴られたのだ。
(マリエール! マリエール!!! マリエール!!!!)
彼女の名前を呼ぶことさえできない自分が、ひどく憎かった。
バロンは血の吐くような口惜しさと怒りに四肢をバタバタと動かすが、自分を固く抱きしめているらしいマリエールの腕は緩まらない。
胸もとにぎゅうっと抱えられ。
大事に大事に、バロンが傷つかないように彼女は守る。
「大丈夫。大丈夫ですよ。っ……怖かったですね。もう大丈夫ですよ」
(どうしてここに。どうして俺をかばう!)
必死のバロンの声は、彼女には届かない。
「お嬢さん。立てますか、とにかく休める場所へ」
「えぇ、っ……ごめ、なさ。この子、うちの……うさ、ぎですの……。付いてきてしまってた、みたい、で……っつ……!」
「お嬢さん!!」
(マリエール!!)
マリエールはそのまま、意識を失い倒れてしまった。
彼女の表情は苦痛に歪み、額にはびっしょにと汗がにじんでいる。
柔らかな薄茶の髪が、一房バロンの上に落ちてきた。
「早くベッドに! 部屋の準備は!」
「もう侍女が整えてくれてる! 医者もすぐに来るから、早く!」
他の男が彼女の身体を起こし、他の男が彼女を抱き上げ運んでいく。
その様子を、バロンはただ無力なまま見ているしか出来なかった。
自分のせいで怪我をした彼女に、本当に何も出来なかった。
声をかけることさえ、兎の身体では叶わない。
バロンを抱いたまま決して離そうとしないマリエールの腕の中で揺られながら、悔しさで頭がどうにかなりそうだった。




