12 出来ること③
「ん……」
その夜、マリエールは明け方にふと目を覚ました。
時計を見ると起きる予定の時間まで四時間はある。
(初めてお客様を迎えるから緊張しているのかしら)
この家に初めて来た夜もそうだったが、どうやら『初めてのこと』には緊張して睡眠が不安定になってしまうらしい。
(そういえば私、子供の頃に家族でピクニックに行く前夜とかも眠れなくなってたわね。それで翌日に熱を出してしまったり……)
さすがに大人になって、緊張で眠れなかったからという理由での体調不良は避けたいところだ。
もう一度寝なおすために寝返りを打って落ち着く体勢をさがす。
ふと顔を上げると、いつものように隣の枕の上に黒いふわふわの毛があった。
無意識に口元を緩めたマリエールは、そっと手を伸ばして背を撫でる。
ひくひくと兎の鼻が動いたことに、小さく笑ってしまった。
(あったかい)
柔らかくて可愛く、そしてとても温かくて、マリエールは緊張が解けていくのを感じた。
そんな風にぼんやりと兎を眺め、眠りに落ちる寸前でうとうとしていたのだが。
ふいに触れていた手の感触が変わった。
兎が一回り、突然大きくなったのだ。
「え……」
ぱちりと目を大きく開けると、その瞬間に兎は急激に大きくなっていく。
「わ、わ、わ……! あっ……」
騒げばバロンが起きてしまうかもと、慌てて手の平で口を押えた。
その間にも、兎は大きく大きくなっていく。
真っ黒なふさふさで艶やかな毛におおわれていた部分が、滑らかな人間の肌へと。
(へ、はだ……はだか!?!?)
見慣れた大人の男の姿になったバロンをみたマリエールは、あまりの光景に思わず彼の上から下までをしっかり見てしまう。
すぐに我に返り、目線を反らして頑張ったけれど、それでもはっきりと男性の下半身を、人生で初めて見てしまった。
一応は夫なのだから構わないはずなのに。
死にそうに恥ずかしい。
「そ、そうよね、服、もちろん着ているわけないわ」
(いえ。でも、つまり、バロン様はいつも全裸でこのベッドから抜け出しているの? 毎朝!?)
あまりの衝撃に頭がくらくらしてくる。
とにかく隠さないとと、シーツを引っ張って彼の体の下から抜いて被せようとした。
何とかこっそりシーツを引き出すことに成功したが、そこでマリエールはあることに気が付き、思わず目を大きく見開く。
「傷……?」
バロンの脇腹から背中へ渡る、大きな一本の傷の跡。
古いものらしく完全にふさがっているが、僅かに盛り上がっていて赤茶に変色した、今なおはっきりと分かる傷の跡はずいぶん大きな怪我だったに違いない。
「痛そう………」
思わず、そこに指を伸ばして触れそうになった―――……が。
「……あっ!」
伸ばそうとした自分の手に握っていたシーツに気づくなり、マリエールは彼の今の姿を思い出し、慌てて被せて可能な限りの部分を隠した。
赤くなっているだろう頬を両手で挟みながら、頭を降って見てしまった光景を頭の中から追い出そうとする。
(もうもう! 恥ずかしいわ! ……――――――でも、兎がバロン様に代わるところ、この目で初めて見たわ。本当に、妄想でもなんでもなかったのね)
状況的にももう真実なのだと分かってはいても、頭の端でほんの少しだけ疑ってもいた。
テオが自分をだまして楽しんでいるのではないかなんて想像したりもした。
でも実際に目で見てしまったので、もう仕方ない。
マリエールは大きく息を吐き、眠るバロンの隣で自分も眠りなおすことにする。
(うううう。落ち着かない。毎晩本当に、こんな全裸の夫の隣で私は寝てたの!?)
隣り合って眠ると身じろぎするたびにどこか素肌が当たってしまうのだ。
マリエールは必死に隣の存在のことを考えないように、頑張って羊を数えつつ眠気が来るのを待つのだった。
* * * *
(結局、バロン様が起きて退室されるまで眠れなかったわ)
起き出して暫く経っているのに、マリエールは小さくあくびを漏らしてしまった。
(それにしても、本当に真っ裸のまま出ていくのね。びっくりした……。服、あるのに……でも服が無くなっていたらバロン様が寝室にいらしたことがばれるから無理なのね。うーん、だったらせめてタオルを巻くとか……)
毎晩、下着さえ履かない裸のまま夫婦の寝室から自分の居室か執務室に帰っていたのを知ったばかりのマリエールは、結構な衝撃を受けていた。
そのせいで、ヴィセが話しかけて来てくれているのに気づくのが遅れてしまった。
「マリエール様。マリエール様? 寝不足ですか? 少し目の下に隈がございます……」
彼女は今日お客として来られる伯爵夫妻を迎えるための身支度を手伝ってくれていて、鏡台の前に座るマリエールの後ろで心配そうに眉を下げた。
鏡に映る彼女はちょうどマリエールの髪を編み込んでくれているところだ。
ヴィセはとても器用らしく、みるみる間にマリエールの扱いにくい細いくせっ毛がまとめられていく。
「ううん。……少し、眠いだけよ」
「……。今日の昼食会、体調不良でのキャンセルもできますよ?」
ヴィセの言葉に、マリエールは慌てて首を降った。
「平気よ! 大丈夫」
ほんとうにただの寝不足だ。
明け方までは眠れていたから、体調不良ということもない。
(それも寝不足の理由が、夫の裸に動揺したからだなんて……)
これで欠席はさすがに申し訳なさ過ぎる。
それでもヴィセが心配そうな顔を崩さないので、マリエールはにっこりとほほ笑んでお願いをした。
「そうだわヴィセ、ミントティーを淹れてくれないかしら。頭がすっきりするもの」
「っ! はい! すぐにおいれしますね!」
「濃いめにお願いね」
「かしこまりましたっ」
手早く髪を纏め終えるなりお茶の用意をしに行ったヴィセの後ろ姿に、マリエールは小さく笑った。
彼女はマリエールに頼られることを嬉しく思ってくれるらしい。
そんなにヴィセになつかれるようなことをした記憶はないのだが、それでもこの、まだまだ知らない人ばかりな土地で心を許せる人が出来るのはとても嬉しいことだった。
バローナ伯爵夫妻は、予定していた十二時少し間に到着した。
「ごきげんようバロン」
「久し振りだな、バロン」
「マーク殿。お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
お客は、レースがたっぷりとついた桃色の衣装をまとった、ふくよかな体型のご婦人。
そして彼女の傍に立つ、同じくふくよかな体型の、顎鬚を生やした男性だ。
男性の方の頭は少々さびしく、ピカピカと艶を放っている。
聞いていた通り五十代後半くらいの、赤い蝶ネクタイがとてもよく似合う紳士だった。
夫であるバロンの挨拶が済んだのを確認したマリエールは、一歩前へでてスカートをつまみ礼を取る。
「初めまして。ようこそいらっしゃいました」
「まぁまぁまぁ。可愛らしい。私はリラよ。どうぞこれから宜しくね」
「はい。よろしくお願いします、リラ様。マリエールと申しま、っ、わぁ」
伯爵の奥方であるリラは、にこにこ優しい笑顔で両腕を開き、ためらうことなくマリエールを抱きしめてくれた。
その瞬間に香ったのは花のいい香り。
とても柔らかく温かい身体に包まれ、花畑の中に居るような自然な香りに覆われる。
おそらく彼女の趣味だというドライフラワーからくるものなのだろう。
香水の場合は花の成分を抽出し凝縮したものだから、もっと濃厚になるはずなのだ。
「どうぞ宜しくね。仲良くしてちょうだい」
背中をぽんぽん叩きながら言ってくれるリラの優しい笑顔につられ、マリエールからも自然な笑顔があふれるのだった。




