二章 空へと羽ばたく幼い竜騎士②
この儀式場は小山にある。この小山はさらに背の高い山々に囲まれていた。ハクリが向かった先は、さらに深い山奥だった。ルカとレリアもこんなところまで来た覚えはなく、周囲を窺いながら登る。しかし、結界が張ってあるのか、ここに天使が来る様子はなかった。
しばらく山を登り続けて、数分が経った頃、
「着いたぞ」
ハクリが立ち止まる。
もうどこをどうして歩いてきたのかさえ分からない山の中、山にしては妙にだだっ広い場所に出た。その空間だけは何故か緑がなく、むき出しの地表と崖がある。その断崖にはぽっかりと口を開けた洞窟があった。
「義父さん、ここは?」
「パパと呼べ。――ここは、そうじゃな、名付けるとするなら竜の洞窟。竜洞とでも呼ぼうか」
「竜洞?」
「そうじゃ。レリア、ぬしはここで待っておれ。ルカ、わしとともに来るのじゃ」
「あ、うん」
ハクリが歩みを進めて、洞窟へと入る。レリアは何も言わずに手を振って、ルカを送り出してくれたが、ルカは目の前の洞窟の口の中にある闇がとても恐ろしく感じた。まるでこの洞窟そのものが化け物のような、妙な威圧感がある。
「そんなに怯えんでも大丈夫じゃ。じゃが、決して、取り乱すんじゃない。取り乱したが最後、食われるかもしれん」
「え……」
「静かに」
ハクリが小さく注意をする。灯りもつけずに洞窟の奥に入ったため、凝った闇に包まれた。何も見えないし、聞こえない。ただ、
「何かがいる……?」
こちらを窺う気配を感じた。
「いいか? 静かにしておるのじゃ」
ハクリが静かに注意を促して、何かをしようとする気配を感じる。暗闇のため、ハクリの行動が見えないが、ハクリが呪文を唱えるのが聞こえて、ルカはハクリの注意通りに口を閉ざした。
そして、ハクリが魔術で火を灯したらしく、目の前が一気に明るくなる。突然の眩さに思わず目をつぶり、恐る恐る目を開けて――思わず悲鳴を上げそうになった。
「な、な……!」
目の前には大きな竜がいた。炎のように真っ赤な鱗。蝙蝠のような膜のある翼。頭部に鋭い四つの大きな角が生えている。金色の縦に割れた瞳孔が、ルカを睨みつけている。牛よりも二回り大きい赤い竜が、ルカの前に鎮座していた。
「義父さん、この竜は……?」
「わしの遠い親戚じゃ」
「それは聞いたけど……」
「わかっておる。何故、〝自由の里〟の近くの山に竜が住んでいるか、じゃろ?」
ルカは頷く。赤い竜はひたとルカを見据えたまま、沈黙を保っていた。
「五千年前、人間と悪魔、天使の三種族は共存しあっていた。当時、竜たちもたくさんおってのぉ、みんな仲良く暮らしておったわ。じゃが、ある日、天使たちは悪魔を殺し、人間を支配するようになり、中立を保っていた竜たちもまたその激動の変化により多くが死んでいった。生き残った竜たちは悪魔や天使たちの戦いに巻きこまれないよう山や森の奥深くに住むようになった。竜たちは急な変化に対応できるはずもなく死にゆき――まだ幼く衰弱しきっていたこの竜をわしは保護したのじゃ。じゃが、里や国へと連れていけば竜たちは戦いに駆り出される――その恐れから、こうして、人目につかぬ場所へと連れてきたわけじゃ」
「そ、そうだったんだ……」
竜はハクリの言葉を聞いているのか、聞いていないのか。それともルカの存在に警戒しているのか、微動だにしない。
「義父さん、竜に乗れって……まさか?」
「そうじゃ。ルカ、この竜に乗れ」
「え?」
「そうすれば、ぬしは空を飛ぶことができ、さらには天使や悪魔にも引けを取らぬ戦いができるじゃろう」
戦いができる。とても魅力的な言葉だった。
「でも、この竜たちは戦いに巻き込まれないように保護してたんだろ? 俺を乗せるっていうことは、戦いに巻き込まれるっていうことだぞ?」
「いいのじゃ」
「義父さん……?」
「もともと、わしらは空を飛び、戦場を駆け抜ける戦士じゃった。こうして、身を隠し、日の当たらぬ場所で一生を過ごすことはなかろう」
ハクリの言葉に賛同するように、初めて竜が目を細めることで反応して見せた。
ルカは赤竜を見つめる。
この竜に乗ることができれば、自分は戦えるというのか? あんな惨めな思いも、孤独を感じることがなくなるというのだろうか? そして、約束を守れる可能性が一気に上がる。
「乗りたい……」
ルカは拳を強く握った。膨れ上がる思いを捕まえるように。
「義父さん、俺、竜に乗りたい!」
「そうか」
ハクリは嬉しそうに頷く。しかし、
「じゃが、ルカ。竜に乗るためには試練を乗り越えなければならん」
「試練……?」
「あぁ、その試練を乗り越えて、初めて竜に認められたとき、背中に乗ることを許す権利が与えられる」
赤竜の金色の双眸がじ、とルカを見つめていた。もしかしたら、こうして睨みつけられていたのは、警戒心からではなく、ルカを見定めていたのかもしれない。
「義父さん、その試練って……?」
「竜に勝つことじゃ」
「勝つ?」
「あぁ、竜と勝負し、勝つことじゃ」
そんな。ルカは一歩、後退した。
悪魔やレリアに劣る自分が竜と戦えというのだろうか? この剣のように鋭い爪と牙を持つ、自分よりもはるか巨大な竜に。
勝てるわけがない。ルカは、さらにもう一歩後退した。先ほどまでの期待に膨らんでいた胸中は、今や絶望と恐怖でいっぱいだった。
「ルカ。逃げることは許さん」
「義父さん!?」
がし、と肩を掴まれて、ルカは反射的にそれを振りほどこうとする。しかし、その手を振りほどくことができず、さらにルカの肩を掴む力が強くなった。
「ルカ、逃げることは許さんぞ。ぬしは戦いたいと言った。それを覆してはならぬ」
「でも、俺が竜に勝てると思っているの?」
「思っておる! ルカよ、ここで覚悟を決めなければ、ぬしは強くなれぬ! レリアとの約束も守れなくなるぞ!」
びく、とルカの肩がはねた。確かに、ここで頑張れば、ルカは強くなれる。約束だって守れるはずだ。これは絶好の機会だ。決して、逃がしてはいけない。
ルカは震える足で、一歩、踏み出した。
「わ、わかった……」
声は、情けなくも震えていた。けれど、ハクリは嬉しそうに頷いた。
「よいか? 最低でも三日の猶予を与えよう。その間にぬしは竜に勝ってみせろ。最初は逃げても構わぬ。じゃが、決して、この試練から逃げるではないぞ」
ルカは強く頷いた。
「わかった」
強くなれるというなら頑張ってみよう。ルカは不安を押し殺しながらも、頷いた。
翌朝、ルカはこの竜洞へとやってきた。
まだ冷たい空気が漂う早朝。この洞窟内は凍えるほどに寒かった。
ここへと来るまでレリアと一緒にいたのだが、レリアもまた竜を紹介されたようでそちらへと行ってしまった。何でも、もう竜の背中に乗ることができたという。けれど、問題があるとかで、とても難しい顔つきをしていたが。
レリアがもうすでに竜の背中に乗れると聞いて、微かに嫉妬心を抱いた。しかし、嫉妬心を抱いてもどうにもならないことはわかっている。自分も頑張るしかなかった。
眩い朝日は、洞窟の奥の闇を照らしてはくれない。その闇がルカを誘うように、ただ凝っていた。
「――おはよう」
とりあえず、声を掛けてみる。返ってくる挨拶はなかった。
しかし、耳を凝らせば微かに息遣いが聞こえてくる。ルカは意を決して、また一歩近づいた。
闇になれた目は、次第に闇の奥の存在の輪郭を浮き彫りにさせる。
ルカよりも巨大な体躯。蝙蝠のような翼に、雄々しい四本の角。鋭く伸びる爪。そして、爪よりも鋭利で獰猛そうな二つの双眸。
炎よりも赤い竜が、そこにいた。
「おはよう。えーと……」
竜の名前を呼ぼうとするが、竜の名前をルカはまだ知らない。ハクリ曰く、ルカが認められれば、名を告げるらしかった。喋ることができないのに、どうやって? とは思ったが、その日が来ればわかるだろう。
――どうすればいいんだ?
ハクリは試練に合格すれば、背中に乗せてもらえると言った。ルカは赤竜の背を見る。赤竜は固い鱗に覆われていた。もちろん、背中にもびっしりと鱗がある。加えてその巨体だ。たとえ合格したとして、自分はちゃんと背中に乗れるのだろうか?
合格した後のことを考えても仕方がない。
この試練に打ち勝つ必要があるのだ。そちらに集中しなければいけない。
――戦うしかない。
ルカは恐る恐る、赤竜へと近づく。赤竜の目がわずかに細くなったような気がした。反応がある。さらに慎重に赤竜へと近づいた。赤竜の視線が痛いくらいに突き刺さる。ルカの様子を沈黙で見守っていた。その反応を窺いつつ、ルカはまた一歩足を進める。
竜との距離まであと十歩というところだった。
「―――――っ」
竜が突然起きだし、唸り始める。その口から覗く、鋭い牙が暗闇でもわかるほどに鈍く輝いていた。
グルルル、と、赤竜は低く唸りを上げている。これ以上はまずいと判断したルカは、後退しようとした。しかし、
「オオオオオオォォォンッ!!」
竜の咆哮が洞窟内を大きく揺さぶり、ルカは思わず耳を塞ぐ。けれど、耳を塞いでもその振動はまるで頭蓋骨そのものを揺さぶるほどに凄まじいものだった。
どすん、と大地がさらに揺れる。竜の足が一歩、ルカへと踏み出されていた。その双眸がルカを見据える。
まずい、まずい、まずい――――!
ルカの中で警鐘が鳴り響いた。これは危険だ、逃げろ、と。反射的にルカは駆け出していた。瞬間、ルカの背後が真っ赤に燃え上がる。
「まさか……!?」
赤竜の口から吐き出されたのは灼熱の炎だった。炎はルカがいた場所とその近くの洞窟内の壁を舐めていく。あんなにも凍えそうだった冷気は、一瞬にして炙られて肌が焼けるほどに熱くなった。
「う、わっ!!」
ルカは洞窟内から飛び出る。そのすぐ後を炎が勢いよく吹き出した。
「グオオオオオォォォンッ!!」
まだ消えない炎の中から、一頭の竜が飛び出す。その雄々しい翼を広げて、真っ赤な鱗を日差しに反射させて――その黄金の目がルカを捉えた。
「……っ」
息を呑み、ルカは走り出す。その後を、風を巻き上げながら赤竜は追いかけてきた。山を駆け下り、すぐさま森の中へと入る。竜はルカを追いかけて森へと入ろうとしたが、木々が邪魔をして入ってこられず、森に入る手前で旋回した。
竜が入ってこられないことに安堵したルカは、木の幹に背中を預けながら、大きく息を吐いた。
「おいおい、俺、死ぬんじゃないか……?」
苦く笑うルカの脳裏は、ハクリの言葉を思い出す。
――竜と勝負し、勝つことじゃ。
「嘘だろ、義父さん?」
勝てるはずがないことをわかっているはずだ。しかもルカは里の中で一番弱い。自他ともに認めるほどにだ。それなのに、どうしてこんな自分が竜に勝てるというのだろうか? しかも三日という短期間で。
ルカは生い茂る枝葉の天井の向こう側にある空を見つめる。その空を泳ぐように竜が飛んでいた。ルカを探しているのか、ぐるぐると回っている。
「――逃げよう」
絶対に勝てるはずがなかった。勝負するよりも早く死んでしまう。そんなのは御免だった。
でも、
「力、か……」
力が欲しい。戦える力が。生きていける力が。約束を守れる強い力を。
「――手に入れたい」
しかし、戦おうにも自分は非力だ。戦っても、どうにもならない。でも、でも、でも―――。
「くそっ」
強く歯噛みした。力が目の前にあるというのに、その力を手に入れる力がない。
「オオオオオオオォンッ!!」
竜の咆哮が轟いた時だった。バキバキ、と何かがしなり、折れる音とともに、上空から竜が現れる。どうやら、木々を薙ぎ倒しながら、突っ込んできたらしかった。
ルカは悲鳴を上げることも忘れて、逃げ始める。竜はさらに追ってきた。木の幹を抉り、大地を穿ちながらまるで仇敵を追うようにルカを追いつめてきた。どうやら、ルカを逃す気はないらしい。
「だったら……!」
逃げてやろうと思った。逃げながら、竜を倒す算段を立てればいい。どうやら、竜は森の中での飛行はうまくいかないようだから。
でも、不思議に思った。何故、この竜はルカのことを追いかけるのだろう、と。
こんなに逃げてばかりでは獲物の価値すらないはずなのに。それなのに巣から飛び出してきて、森の中まで追いかけてくるこの執念はどこからくるのだろう?
そんな疑問を抱えながら、ルカは走り続けた。
すでに朝の太陽は、地平線へと消えようとしている。赤い夕日に照らされながら、ルカはずっと逃げ惑っていた。こうして逃げ回れば竜を倒す算段を見つけられるかもしれない、と思ったが、それは失敗に終わる。竜を倒す手がかりを見つけ出すどころか、ルカの方が先に疲れてしまい思考がうまく回らなくなってしまったのだ。それにルカがこんなにもへとへとだというのに、竜は疲労感を全然見せない。獲物を捕まえるまではとことん追いつめる様子だった。
「はぁ、はっ、はっ……」
息も絶え絶えに、ルカは木の幹に手をつく。全身が汗にまみれて気持ちが悪く、とても怠くて重かった。自分の体ではないようで、ふらふらとして真っ直ぐに立ってられない。
竜はルカを追い詰めては空へと戻り。しかし、時間が経てば再び森の中へと急襲しルカを追い立てた。その繰り返しに、遊ばれているように感じる。今、竜は一度森から離れて空へと戻り、地上にいるルカの様子を見つめているようだった。
黄昏時を舞う赤い竜は雄姿そのもので、疲れていてもついその姿を目で追ってしまう。
ルカはずるずると膝をついた。全身で息をして、少しでも疲労を回復しようとする。しかし、
「ウオオオオオォォォン!!」
竜が咆哮を上げたかと思うと、森の中にいるルカへと突っ込んできた。
――逃げろ。
そう思考がルカに告げる。しかし、立ち上がろうとした体は前のめりに倒れ込んだ。
しまった。
ルカの視界には地面がいっぱいに映る。
――死ぬ。
その言葉がルカの思考を塗りつぶした。
死んでしまう。本当に自分は死ぬのか? いや、死んだ方がマシかもしれない。その方が、この辛い世界から解放される。
でも、レリアとの約束は?
一緒にいるという約束はどうなってしまうのだろう?
もちろん果たされない――ルカは約束を守れないまま死んでしまうのだ。
瞬間、死の恐怖よりも、さらに色濃い恐怖が、ルカの思考を埋め尽くす。守れない? 約束を破ってしまう?
怖い。それが、何よりも怖い。
ルカは恐怖から無我夢中で体を動かした。逃げようとした。しかし、竜は追ってくる。
もうダメだ。
そう思った時、竜が旋回して空へと戻っていってしまった。竜は森の上をぐるりと旋回し、空の向こう側へと消えていく。もうここへと来る様子はなかった。
ルカは苦く笑う。こうも自分が無力であると実感させられたことはなかった。体は痛い。息をするたびに、肺も悲鳴を上げた。疲れた、なんてものじゃない。怖かった。本当に、怖かった。死ぬかもしれない、と何度思っただろう。
――もう嫌だ。
ルカはこの時を持って、試練に臨むことを諦める。どんな人生であれ、どんな約束を抱えていようと、生きていることが重要だからだ。
* * *