一章 騎士は空に剣を掲げるも出番なく
一章 騎士は空に剣を掲げるも出番なく
悪魔になる前準備の教育を受ける場所がある。
それが、〝自由の里〟という、山の中にある隠れ里だった。
〝自由の里〟は保護された人間――主に人間の子供たちが住んでいる。その他は、教師や軍などもある。
ここでは悪魔になるための、基礎知識、いわば教育が行われる。
厳重な警備と結界の中で、安心して悪魔になれる――〝自由の里〟はいわば悪魔になるための教育施設だ。
そして、一通りの教育を終えた子供たちは悪魔になる選択を与えられて、その選択で悪魔になった子供たちはさらに悪魔の本格的な知識、戦術を学ぶこととなる。そして、悪魔になることを拒絶した子供には、悪魔になった彼らを支援するために生活を支え、最終的には〝王国〟で働くことになるのだ。
その〝自由の里〟には水晶殿という聖殿が八か所ある。水晶殿は〝自由の里〟を守る結界を作り出す水晶が奉られていた。里を中心に、水晶殿は八角形を作る形で建てられている。
週に一度、〝自由の里〟に住む人間、悪魔たちは水晶の清掃、および、調整、点検を行っていた。この水晶が一個でも壊れてしまえば、結界に穴が開いて、天使たちに見つかってしまうからである。そのため、この調整はこまめに行われていた。
水晶殿は、小ぢんまりとした聖殿である。意匠が施された壁は、滑らかな乳白色で統一されて、飾り気こそはないがそれでも聖殿独特の静謐な雰囲気が漂っている。
八方形の部屋の中心にある壇上、さらにその台座の上に丸い水晶が置かれていた。透徹とした水晶は一切の曇りもなく、台座の意匠を透かして見えるほどに透明度がある。
〝自由の里〟の子供たちはその水晶殿の清掃を言いつけられている。
無論、ルカもその一人で、今は水が入った大きな桶を担ぎ水晶殿へと向かっていた。
小さな桶と言っても、ルカの腰ほどの高さがあり、幅も広く深い桶にはたくさんの水が入る。水がたくさん入れば、当然それは重くなるわけで、ルカは持ち上げるにも一苦労だった。
必死になって運ぶこの作業はルカにだけ任せられた簡単なもの。理由はルカが人間であり、清掃するには力もなければ体力もないから。
いくら簡単なものとはいえ、ルカにとっては重労働そのものだった。悪魔であるなら、すぐにこんな作業を終えてしまうだろう。
けれど、人間だから弱くて運べない――そんな理由でバカにされるのも嫌だったルカは必死に運んだ。
「絶対に、こなしてやる……!」
低く呻いて、水晶殿の外まで運ぶことができた。けれど、
「え、ぅわっ!」
足が段差に躓いて、続いて、桶が傾き。ばしゃ、と全身に水を浴びてしまった。一気に水が服へとしみこんでいく。
「つめた……」
桶を気にしていて、水晶殿の段差に気付かなかった。ルカはずぶ濡れの体のまま立ち上がる。
「おい、見ろよ、あいつ……」
「うわー。すげぇな、あれ」
「何? 自分から水被ったの? 情けなーい」
「これだから人間は……」
その状況を見ていたのだろう。悪魔たちがくすくすと笑い始めた。耳に入ってくる嘲笑に、ルカは怒りが湧いてくる。けれど、それ以上に恥ずかしくて、情けなくて、惨めだった。
ルカはみんなの笑い声を聞きながら、水晶殿の裏へと回った。
昼に昇る太陽の日差しはとても温かい。水晶殿の外でルカはシャツを脱いで、簡単に絞って、そのまま着て太陽の日差しで乾かそうとした。
「疲れた……」
一言呟いて、手のひらを見る。桶を持ち上げていた手は赤く、腕も怠かった。いくら鍛えても、どうしても悪魔と人間の差が埋まらない。その落差をいつも見せつけられては、悪魔にならなかったことを後悔して、でも悪魔になってしまったときの未来を描いて恐怖して。その繰り返しだった。つまり、自分は臆病者なのだと、改めて突きつけられて、知らずに溜め息をもらす。
「おや? ルカ君じゃないな」
いかにも揶揄するような口調で現れたのは悪魔になったばかりの少年少女の中で一番の優等生であるユル・ベリコアだった。その後ろにはぞろぞろとユルが連れてきた取り巻きの少年たちがいる。
「ユル……」
「んー? どうしてそんなにびしょぬれなんだ? かわいそうに風邪をひくぞ? あぁ、それなら俺が乾かしてやろうか? ん?」
ユルはにやにや笑いながら、指先をルカへと突きつける。そして、
「***、*****」
悪魔の呪文とともに、ぼ、と炎の塊がルカへと放たれた。咄嗟にルカはそれを避ける。その背後にあった壁に炎がぶつかり、壁に大きな焦げ目を作った。
「おいおい、せっかく乾かしてやろうと思ったのに。それにどうするんだよ? お前が避けたせいで、ほら、聖なる水晶殿の壁が焦げたんだぞ」
「……そっちのせいだろ。人に向かって魔術を放つから」
「人……あぁ、そうだった。お前は人だったなぁ。お前が悪魔だったら別に躱さずに受け止めても怪我を負うこともなかったんだけどな!」
あはははは! とユルはおかしそうに笑った。
「なぁ、お前まだ、悪魔になろうとしないのかよ?」
ユルが嘲笑を浮かべながら、ルカへと詰め寄ってくる。そして、懐から短剣を取り出すと、ルカに突き付けた。濃紺の髪がユルが笑うたびに揺れて、やや釣り目がちな黒い瞳がルカを見据える。
「何とか言えよ!」
つ、と切っ先が首にわずかに沈んだ。ちく、とした痛みが襲うが、ルカはそのことをおくびにも出さずに無表情を貫いた。
「おっと、悪い、お前、弱いからすぐに死んじまうな」
その言葉が何よりの鋭い痛みだった。ルカとユルは、外見は同い年の少年だ。でも、その中身は断然別のものだ。
ルカが普通の人間に対して、ユルは悪魔。
悪魔であるユルの首に剣が刺さったところで、痛くもかゆくもないのだろう。
「お前は本当に弱いなぁ。この里で一番弱いんじゃないか? それこそ、そこらへんのガキにも負けるだろうよ!」
その言葉に、周囲にいた生徒たちが大声をあげて笑った。その不協和音な笑い声が、ルカの鼓膜に響き渡る。このまま喚き散らして逃げ出したい気分だった。でも、首に突きつけられている剣がそれを許さない。ルカは声を上げて嗤うユルの剣をよけて通り過ぎようとした。
「おい、ちょっと待てよ」
ユルがルカの腕をつかむ。
「何……?」
「いつ俺の前からいなくなっていいって言った?」
にやついた笑みから一変、虫でも見下すかのような眼差しでユルはルカを見つめていた。
何で、いつも放っておいてくれないのだろうか?
ルカは人間で、このユルよりも圧倒的に劣る。それは自他ともに認めているのは確かだ。どんなにルカが鍛えても、その優劣の差は縮まらない。それなのに、何故、ここの悪魔たちはルカをこうして構うのだろうか。――でも、そんな答えはわかりきっている。
「お前さ、弱いくせに目障りなんだよ。こっちが天使と戦うために必死になってんのに、お前は臆病風に吹かれて人間のままで、人間だからっていつも大目に見てもらって。頑張っている俺たちのこと、考えたことあるのか?」
ルカに構うのは、ただの憂さ晴らし。悪魔になれば、過酷な訓練が待っている。それは当然のことだ。なりたての悪魔が受ける授業と、人間が受ける授業は全く違う。違うのだから、その苦労もまた違うのだ。
それでも、なりたての悪魔たちにとっては過酷な訓練にストレスが溜まっていくのだろう。そのはけ口として選ばれたのが、同年代で人間であることを選んだルカだった。
「それなのにお前は桶一つまともに運べない。戦うこともできない、弱い奴だ。本当に情けないな」
「……」
「あん? 何だよ、何か言いたそうだな? いいぜ、言ってみろよ?」
ルカは無理矢理、口元を笑みの形へと歪ませた。ルカにできる精いっぱいの、嘲笑だ。
「さすがは優等生だな。どんなにがんばっても、人間のレリアには必ず負けて泣かされるくせに。それがわかって俺のところに来るんだから、お前もお利口さんだよな」
「――――っ!!」
瞬間、頬に衝撃を打った。体が背後の壁にぶつかる。強打したために、息が一瞬詰まるも、その苦しさを押し殺して、ユルを見据えた。
「お、お前……人間の癖に、俺を馬鹿にしたな!?」
「何言ってんだ? 俺はお利口さんだと褒めてあげただけだ。自分よりも弱い奴を標的にするいい子ちゃんだってな」
「お前ぇっ!!」
ユルが殴りかかってくる。ルカはそれを避けて、距離を一気に縮める。そして、ユルの横っ面に思い切りこぶしを叩きつけた。ユルの体が少し傾ぐ。それでも倒れなかったのは、ユルが悪魔だからだ。
「よくも殴ったな!」
掴みかかってくるユルを何とかかわそうとする。けれど、ユルは悪魔の言葉で詠唱を口にした。
「****、******!」
魔術を使われてしまえば、ルカは圧倒的に不利だった。ルカは地面に伏せて、蛇のようにうねる水の刃を躱して、ユルに見つからないように地面の砂を掴む。
「***、****―――っな!!」
詠唱を唱えるユルに投げつけた。
「げほ、ごほ、お前、何する――!?」
口の中に砂利が入ったのだろう、口の中にある砂を吐き出そうとするユルの顔面に向かい、再びこぶしをめり込ませた。ユルは後方へと飛び。その隙を見逃さず、ルカは逃げ出そうとした。しかし、
「お前、よくも舐めた真似をしてくれやがって……!」
激しい怒気をはらんだユルがルカを睨みつける。そして、ユルはさらに長い呪文を唱えた。
――まずい。
魔術の詠唱は長ければ、長いほど威力が増す。一方、ルカは丸腰の人の身。このままでは確実に死んでしまうだろう。ルカは一目散に逃げだした。
そして、
「****、*******!」
空間が一気に熱くなり、どん、と、目の前が破裂した。
「どこ行きやがった!」
「探せ!」
ルカは厩舎に隠れていた。あの炎の爆発に巻き込まれて、こうして生きていられたのは本当に不幸中の幸いだった。全身がずきずきと痛む。爆発によって破れた衣服の下にある肌には痣と、切り傷と、低温火傷の赤味があった。
ルカはあのあと命からがらに逃げ出して、厩舎の藁の陰に隠れている。そんなルカをユルと、ユルの取り巻きたちが探しているようだった。
「悪い、少しだけ匿わせてくれ」
鼻面をこすり寄せてくる馬の頬を撫でて、ルカは小さく嘆息した。痛む体を庇うように膝を抱えて、顔を伏せる。このまま早くいなくなってくれればいいのに。そう強く思う。
しかし、
「見つけた!」
厩舎の扉が荒々しく開かれた。
「おーい! いたぞ! こんなところに隠れていやがった!」
ユルの取り巻きの一人が大声でユルを呼ぶ。次いでどたどたと奔る音と続いて、厩舎の開け放たれた扉からユルたちが顔を出した。
「こんなところに隠れやがって……!」
ユルが怒りの形相で厩舎へと入ってくる。近くにいた馬が不快そうに小さく嘶いた。
「おい、こっち来るな!」
「は? 今さら、怖気づいたか? いいぜ、今度はもっと怖い目に遭わせてやるよ!」
「待てって! その魔力を押さえろ!」
「何言ってんだ?」
「だから……!」
ユルは優等生であることを、ユルは知っている。その知識も、技術も、魔術も、この悪魔たちの中でも飛びぬけて優秀だ。それを知っているユルは威圧をかけるためだけに、魔力を纏うことがある。ユルだけではなく、力の強い悪魔がほとんどだ。力の強い悪魔が魔力を纏う。それだけで力の弱い悪魔たちは自分より強い悪魔に畏怖を覚えるのだ。だからこそ、プライドが高いユルはいつも力を誇示するために魔力を纏う。
畏怖を覚えるのは、何も力の弱い悪魔たちだけではなかった。何より、そういう気配に敏感なのは動物だ。そう、厩舎にいる馬たちも例外ではない。
「ヒヒィィィンッ!!」
馬が恐怖から高く嘶くと、その巨体を暴れさせた。
「へ?」
「うわぁっ!!」
高々に挙げられた前足が床を叩き、さらには後ろ足で壁を蹴とばす。それに驚いた馬がさらに暴れ、その連鎖で――。
「わぁぁっ!」
「逃げろ!」
ユルや、取り巻きの悪魔たちが一斉に逃げ出す。ルカもまた厩舎の外へと逃げ出した。
「おい、どうした?」
「馬が暴れてるぞ!」
近くにいた大人の悪魔たちが騒ぎを聞きつけて、慌ただしく厩舎の様子を窺っていた。
「どうして、馬が暴れているんだ!?」
男の悪魔が、近くにいたユルの肩を掴んだ。原因はユルの魔力だ。それもユルは気づいているだろう。ユルは口を閉ざして、視線をさまよわせた。
ルカはその場から静かに退散しようとする。はっきり言って、嫌な予感しかしなかった。けれど、ユルの黒い目がルカを捕まえた。
「あいつだ……!」
「は?」
「ルカだ! ルカが馬を暴れさせたんだ!」
その指摘にルカは「違う!」と言いかけて、止まる。大人の悪魔たちは怒りに燃える眼差しでルカを睨みつけていた。
「この、ごくつぶしが……!」
「悪魔になれないできそこないが!」
ルカは歯噛みをする。そして、今度こそ全力で逃げ出した。
〝自由の里〟は小さな村だ。八つの水晶殿に囲まれている里は、ぽつぽつと家々が点在している。北の聖殿近くには軍の詰め所などがあるが、あとは家畜である牛や羊がいる他にはない長閑な風景が広がっていた。家々の前の道をルカは走り続けて、ようやくその足が緩やかになる。息切れも激しく、深呼吸を繰り返しながら歩いていた。
「見て、あのルカだ」
「あら、あの子、また悪さをしたんですって……」
「ハクリ様も、どうしてあんな子供を引き取ったのかしらね?」
「ハクリ様、大変ねぇ」
わざわざルカに聞こえるようにささやかれる陰口。勝手に噂をすればいい。そう思う反面、悲しさと惨め感に襲われた。
何をしても、結局は自分が悪いようにされる。最後は「いなくなればいいのに」と締めくくられた。
悲しいし、悔しいし、とても惨めだった。
でも、ルカはここにいなければいけない『約束』があった。
ルカとレリアはもともとこの〝自由の里〟の生まれではない。ここよりも、小さな村が故郷だった。そこでルカは『絶対に結界の外へと出てはいけない』という兄の約束を破り、結界の外へと出てしまい、天使に見つかってしまった。そして、ルカを追いかけた天使が村を見つけ、村は襲われた。
命からがら逃げだしたルカとレリアは、養父であるハクリにここへと連れてこられたのだ。
そこでルカとレリアは『約束』した。
『ずっと一緒にいる』。
そのために、ルカはこの〝自由の里〟にいる。そして、その『約束』のために、ルカは悪魔になることを蹴り、人間でいつづけようとしていた。それはそれで辛い選択だった。何しろ、人間であるということは、悪魔以下の存在と同義だからだ。だから、子供同士の間ではいじめが起こり、大人から見れば役立たずとののしられる。
でも、ルカは構わなかった。
レリアと一緒にいるなら、それでいい。
そう。『約束』を果たさなければ、あの時のように最悪なことが起こる。そんな気がしてならなかった。だから、何が何でもルカは『約束』を守り続けようとしている。
ただ、兄の最後の約束である『幸せに生きてくれ』というのは、この世界が争い続けている限り、どうにもならないのだけれど。
「おい、いたぞ!」
不意に後ろから声が聞こえてくる。振り返ればユルたちが迫ってきていた。ルカは逃げるために、走る。『約束』を胸に秘め、どうしようもない惨め感を抱えながら。
レリアは資料館にいた。
〝自由の里〟の北に位置するいわば軍の施設。ここは王国から遣わされた軍隊の悪魔が駐在する施設だ。ここにある資料館は資料や書類、または書物が王国とまではいかないが学舎よりも豊富にそろっている。一般公開されているここは、調べ物をするときにはうってつけの場所だった。本棚がずらりと並び、どこか埃の匂いが漂い、しんと静まり返った空気が居座っている。
窓の近くに座っているレリアの席は、夕日によって照らされていた。手元に灯りをつけて、文字を追っていると、不意に気配を感じて顔を上げる。窓外の近くには道があった。そこでユルに追いかけられている赤茶色の頭を見つける。赤茶色の髪の毛に、やや吊り上がった赤い目。少年にしては小柄で、華奢で、それでいてまだ幼さが残る顔立ち。それはよく見知った顔だった。
「ルカ?」
レリアは本を開いたまま、机に置いて、迷わずに窓を開ける。夜になる冷気が吹き込んできたが、レリアは構わずに窓の外へと体を投げ出した。
「ルカ!」
今にも殴られそうになっているルカの名前を叫ぶと、ユルがその拳を止める。
「レ、レリア!?」
ユルの顔に驚愕が浮かぶ。声が裏返り、突然の乱入者――しかもレリアだということに気付き、顔を引きつらせた。
「そこどかないと、蹴り殺すわよ!」
「ちょ、待て!」
「私が待てると思う?」
レリアとユルの間にある距離は大きく空いている。レリアは強く、地面を砕くほどの勢いで跳躍した。大きく空いた距離は彼女には関係なかった。飛躍する最中で、体をひねり、腰を曲げて――脚を回し。
「ひ!!」
恐怖で悲鳴を上げるユルの腹部を蹴り上げた。
「ぐふっ!」
ユルの体は、夕日の色に照らされて、ぽーんと飛びあがる。誰もがユルが空を舞い、地面へと落ちる姿を見守った。どん、という鈍い着地音で、ユルの取り巻きたちがはっと我に返る。
「ユル!」
「ユルくん!」
慌てて駆け寄ろうとする取り巻きの一人の肩を、レリアは掴んだ。
「今度は、あなたたちの番よ?」
言外に、絶対に逃がさないわよ、という意志を込めて微笑めば、取り巻きたちの顔が一気に青ざめた。
「ひ……!」
悲鳴がもうすでに日が沈んだ黄昏に響き渡る。
――『化け物』。
それは自他ともに認める、レリアの本性だった。
* * *