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逢魔刻の黄昏竜  作者: ましろ
序章 始まりの約束
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序章 始まりの約束


 それはもう千年も前の話です。

 かつて世界は人間、天使、悪魔、竜が仲良く暮らしていました。とても平和な世界だったのです。

 人間のとある青年と、天界の一番偉い神さまは、そんな平和な世界で愛しあっていました。

 けれど、ある時、突然、青年は神さまを裏切りました。

 神さまは怒りました。

 神さまの怒りに触れた青年は死刑にされました。

 しかし、神さまの怒りは止まりません。

 怒った神さまは、人間の世界である地上と、悪魔が住む冥府と、天使が住む天界を分けました。

 そして、神さまは人間たちに復讐するために、世界を支配しました。

 人間を奴隷に、悪魔を永遠に冥府へと追放したのです。

 そうして世界は神さまのものになったのです。


    ――悪魔の書・千年前の考察『天魔の境』より。




序章 始まりの約束



 ――現在から千年前。


『ずっと一緒にいよう』


 女が一人泣いていた。美しい金色の髪を風になびかせて、その鋭い輪郭を描く頬には涙が伝う。神秘的な紫の瞳が、ぼんやりと目の前に立っているそれを見つめていた。

 風が吹き抜けていく。壊れてしまった建物。ねじ切れて倒れる木々。燃やされて焦がされた大地。かつて人がいたであろう痕跡を残したまま、何もかもが壊れてしまった小さな街。

 その街の広場だった場所には、ぽつん、と十字型の墓標が空しく立っていた。

 血のような赤い夕陽が女を、墓標を照らし、黒い影を伸ばしている。

 女は泣いていた。

『みんなが仲良く暮らせる世界を創ろう』

 女はその言葉を思い出す。思い出せば思い出すほど、涙が溢れてくる。思い返せば、思い返すほど、笑えてくる。

「どの口が、平和を語るというのですか……?」

 女は笑う。かつての彼にではなく、自分自身を嗤った。

『ずっと、きみのことを思っているよ』

 死の間際に残した彼の言葉。

 それを思い出すたびに心に溢れ返るのは、愛しさと――それを燃やし尽くすほどの憎悪だった。

 本当にどの口が平和を語る。どの口が愛を語るというのだ。

 そして、それを真正面から受け止めて、信じ続けてきた自分自身が本当に哀れで――笑えてくる。女は笑いながら泣く。女は泣きながら恨んだ。

「裏切り者……!」

 怨嗟の言葉は風がさらっていく。女の美しい金色の髪が靡いた。そして、墓標はまるで女を慰めるように、赤い日の光を眩く反射した。



     * * *



 ――現在から十年前。


 それは美しくも、冴えわたった月の光が降り注ぐ夜のことだった。その月光の下では、激しい炎の柱が立ち上り、深い夜空を赤色へと染めている。

「逃げろ!」

「はやく……っ!」

 聞こえるのは阿鼻叫喚だった。人々は泣き叫び、そして、怒号を上げる。ある人は逃げ、ある人は武器を持ち立ち回った。けれど、無謀にも果敢な人間は、空を舞う美しい白い影に一瞬にして殺されてしまう。

 人々が逃げ回り、悲鳴が反響する中でがちがちと歯を鳴らしながら、ルカは独り震えていた。

 家々を燃やす紅蓮の炎が勢いを増して、夜空を焦がしている。家が燃える匂いの他に、生臭い匂いが鼻を突いていた。耳はもう頭蓋骨が割れるのではないかと思うほどの悲鳴が反響している。肌はちりぢりと焦げるように熱いというのに、寒くて寒くて仕方がなかった。

 視界に映るのは恐怖に逃げ惑う人々の顔と、もうすでにこと切れて何も映していない人の顔だった。喉がからからに乾いて、ごくりと生唾を飲む――でも、何故か血の味がした。

「……ごめんなさい」

 ルカにはそれしか言えなかった。

「誰か、お願いだから……俺はどうなってもいいから……」

 みんなを助けて。

 続く言葉は出てこない。

 顔に、びしゃ、と赤い血が飛んだ。鼻腔が血の匂いでいっぱいになる。くら、と朦朧とする視界に白い影が落ちてきた。それは人の体に美しい純白の翼を持っている――天使だった。

「ひ……っ」

 悲鳴が喉の奥でへばりつく。天使は真っ白な仮面をかぶっていた。仮面に空いた二つの穴。その穴から天使の目がルカを睨み付けている。ルカは何も言えず、ただ恐怖でがたがたと震えた。血まみれの天使の手が、ルカへと伸ばされる。

 一瞬にして、思考が『死』の一色に染まった。

 しかし、

「ぐぁっ!」

 その天使の背中に剣を突き立てたのは、一人の少女だった。ルカと同じ十歳の女の子。

 この夜空よりも美しい藍色の長い髪をなびかせている。愛らしく整った顔立ちに、華奢な体はどこから見ても、か弱い女の子のそれなのに。白い肌には天使の返り血を纏い、何より、金と橙色の双眸が爛々と光っている。その目はいつもの少女のものとは違い、獰猛な獣性を宿していた。

「レリア……」

 ルカは幼馴染の少女の名を呟く。けれど、少女はその目に感情を浮かばせず、ルカを無感動に見つめるだけだった。

 その姿がルカには化け物のように見えた。

 少女が剣を振るい、天使たちを圧倒していく。十歳の少女が、この世界を恐怖に陥れている天使を殺していく。それを化け物と言わずして、何と言おうか。

 怖い。

 それが今のレリアに対する感情だった。

 普段の彼女なら「冗談よ」なんて舌を出して笑う。そして、ルカも怒ったふりをして、喧嘩をして――仲直りして、遊ぶのだ。

 それがルカとレリアの日常だった。

 でも、今は違う。

 戦くルカを凝視していたレリアは視線を逸らした。天使の血で汚れた剣の切っ先を地面につけて、ずりずりと引きずりながら、その金と橙の瞳は『敵』を探しているようだった。

 その背中に手を伸ばそうとする。

 でも、恐怖で凍り付いた体は動かなかった。

 そうしている間にもレリアの目は『敵』を見つける。その華奢な体を炎が舞い上がる戦場へと躍らせた。

 それを前にして、レリアを呼び止めることも――レリアのように戦うこともできない自分。

 ――自分は何をやっていたんだ。

 こうなってしまったのは自分のせいだというのに、それなのに自分は何もできずただ震えているだけだった。

「……ルカ」

 がし、と誰かがルカの凍り付いた腕をつかむ。悲鳴を上げそうになり、その腕を振り払おうとして、ルカはその手の主を見て、暴れるのを止めた。

「兄さん……」

 地面に倒れて、ルカの腕をつかんでいたのは他でもない兄だった。その兄の姿にほ、とするものの、兄の下半身を見て息をのんだ。兄の脚――右足がなくなっていた。それに体も傷だらけで、血にまみれていた。

「兄さん、そんな……!」

 ルカは兄の手を掴む。ぎゅ、と握りしめて、必死に兄を呼んだ。

 優しい風貌の兄は、にっこりと笑う。こんな時だというのに、今にも自分は死んでしまいそうだというのに。

「ルカ。悪い」

「何が!? 兄さんは、何もしていないだろう!? それなのに、何で謝るんだよ!」

「すまない……」

 それでも兄はルカに謝り続けるだけだった。優しい笑みはそのままに、けれど、その目には涙をたたえて。

「兄さんは悪くない! 俺が悪かったんだ! 兄さんの言いつけを守らず、結界の森を出て――天使に見つかって、ここまで追いかけられて、村が……!」

 全て、自分が悪い。

 結界によって守られていた村。そのおかげで天使に見つからずに済んだというのに、ルカが「外へと出てはいけない」という兄との約束を破ったせいで、天使にここを見つけられて襲撃されたのだ。

 もう、村は元には戻らない。

 そのことを、ルカも――兄も分かっていた。

「ルカ、お前は悪い子だ」

 兄はいつも通り優しく叱る。血で汚れた手でルカの手をやんわりと放して、その手でルカの頭を撫でた。いつものようにくしゃり、と。

「兄さん! お願いだから……!」

 死なないで。

 ルカは兄の手を取って、その手を胸に掻き抱いた。兄は笑う。やはり、あの優しい笑みだった。

「ルカ、約束してくれ」

「約束する! 今度こそ、絶対に守るから! お願いだから、死なないで!」

「……ルカ、ありがとう」

 兄は微笑む。

「お前は生きてくれ」

「兄さん!?」

「お前は生きて、そして、幸せになってくれ」

 兄の視線はルカを外れて、ルカの背後へと注がれる。そこには正気を失い、天使と戦い続けるレリアがいるはずだ。

「レリアと一緒に、ずっと、生きて、幸せに……」

 兄はそう告げると、そ、と静かに瞼が下りていく。その視界にもうルカは映っていない。その体もくったりと力なく、崩れ落ちた。

「兄さん!」

 叫んでも、兄はもう微笑むことはなく、ただ静かに横たわっていた。

「……あ、……ぁ……」

 意識が一瞬にして真っ白になる。

 兄の死が信じられなかった。だって、兄は先ほどまで喋っていたではないか。頭を撫でてくれたではないか。そう、今だって寝ているはずなんだ。兄は生きて――……。

「ぎゃっ!!」

 背後で悲鳴が聞こえた。

 緩慢に振り返るとレリアが天使の胸に剣を突き立てていた。胸から刺された剣の切っ先は、背中に突き出て、天使の血がぼたぼたとこぼれている。レリアが倒したこの天使が最後の一体らしかった。他の天使の姿は見当たらない。

 ルカは周囲をぐるりと見渡した。

 人も、天使も、みんなが血の海に倒れ伏している。

 炎が囂々と燃え上がり、夜空と地面を燃やし尽くそうとしていた。

 炎の中で佇むレリアがゆっくりと振り返る。その金と橙の目は、やはり何も映していない。けれど、その瞼が落ちて、レリアの体が地面へと倒れ伏した。

「……」

 ここにいるのは、ルカだけだった。

「レリア……」

 ルカはふらつきながらも立ち上がる。

 ――レリアを助けないと。

 その想いで立ち上がり、ルカはレリアに近寄る。躓きながらもレリアへと向かい、倒れているレリアの横に半ば転ぶように膝をつく。

 レリアは寝ているようだった。

 綺麗な藍色の髪を無残にも地面に散らばせて、色の違う双眸は固く閉じられている。白い肌には傷があり、血が流れている。血を流したせいか――戦ったせいか、顔色が悪かった。

 ルカはレリアに手を伸ばす。その華奢な体を支えながら、背中に背負った。

 早くここから逃げないと天使が追ってくる。

 ルカは背負ったレリアの温もりを感じながら、歩き出した。



 もう空は明るくなり始めていた。

 けれど、木々の生い茂った葉の天井のせいで、ここまで光が届かない。足元がわからず、何度も転びそうになりながらルカは歩き続ける。

 いつもレリアと遊んだこの森は湿った土の匂いに、温かな葉と太陽の香りが漂う自然の遊び場だった。触れる幹も、踏みしめる大地もルカにとっては慣れ親しんだ庭のようなものだった。

 けれど、今はその湿った土の匂いも、葉の香りも、吹き抜ける優しい風も、触れる木の肌も、足の裏に感じる大地の感触も――まるで違った。素知らぬ世界のもののようで、ルカは背筋に寒気が奔る。

 唯一、ルカが知っているのは、背中のレリアの感触だけだった。温もりも、柔らかさも、ルカが知っているもの。

 ――でも。

 ルカは唇を噛んだ。血が出るくらいに強く、噛みしめた。ぼろ、と涙がこぼれる。それを耐えるために唇を強く噛んでいるというのに、涙は次から次へと出てきた。頬に涙が幾筋も伝う。嗚咽も出そうになり、必死になって止めようとした。

 しかし、涙は出るし、嗚咽もひどくなる。

 いっそのこと、泣きわめいてしまいたかった。

 ――自分は、何故、泣きわめきたいんだろう?

 と、冷静な自分が問う。

 悲しみなのか、怖いのか、怒りなのか、後悔なのか――それとも全てなのかはわからなかった。でも、次から次へと自分の感情の正体も知らず、ただ、子供のように泣いて、喚いて――助けてほしかった。

 ――あぁ、そうか自分は助けてほしいんだ。

 ようやく自分の中の正体に気付いて納得する。でも、そのせいで、また泣いてしまった。助けてほしい。でも、助けてくれる人なんて、ここにはいないのだ。

 天使に支配されたこの世界では、人間は奴隷になるか死ぬか。

 その二択だけ。

 その二つの選択肢に突きつけられた人間は、ほとんどが奴隷となってしまっている。ルカたちを助けられる人間など、どこにもいないのだ。

 ルカはレリアを背負いながら、泣いた。

 泣いて、泣いて、泣き続けた。

 これからどうなるかわからない不安と恐怖。

 死しか見えない未来に対する絶望と失望。

 唯一、ルカの慰めとなるのは背中の温もりだけ。けれど、そのレリアも気を失い、調子も悪そうだった。それに、あの正気を失った彼女の戦う姿を思い出す。いつもの彼女とは違う雰囲気に、化け物という恐怖を覚えてしまった自分。背中に背負う彼女が目を覚ました時、それはレリアなのか、それとも別の何かなのか。

 けれど、ルカにはどうすることもできない。

 だから、ルカはレリアを背負い、泣きながらあてもなく彷徨うしかなかった。

 そんな時だった。ルカの前に、それは舞い降りる。

『どうした?』

 それは――目を細めてルカたちを見つめた。

 岩よりも頑丈そうな鱗に覆われた長大な体に、牡鹿よりも雄々しい角。大きく開いた口の中には獰悪そうな牙がずらりと並び、縦に割く瞳孔がぎろり、とまるで獲物を見つけたかのように爛々と輝いている。

 それは、竜だった。

『ん? おじさんに言ってみ?』

 獣の頂点に立つ恐ろしくも幻想的な竜は、何とも気さくにルカに声を掛けた。



 この世界は天使によって支配されている。

 人間の行く末は二択だ。

 奴隷となるか死ぬか。

 多くの人間は奴隷となっている。奴隷となった人間は恐怖と不安と絶望だけがあり、希望というものはとうに失せていた。

 いまだ天使に見つかっていない人間は結界を張り、天使たちの目をそらすことができるが、そううまくはいかない。見つかってしまえば死刑であり、最良で奴隷となる。

 天使と戦う力のない人間はただ怯えながら生活をするしかなかった。そんな世界から隠れるようにひっそりと存在する里もまた、天使の目を何とかそらせていた。

「ルカ……?」

「レリア」

 ここ――〝自由の里〟に引き取られて三日後、ようやくレリアは目を覚ました。三日間、レリアは死んでしまったかと思うほどに昏々と眠り続けていたのだ。

「レリア、具合は? 調子はどう?」

「ん……だいじょうぶ。ルカ、ここは?」

 ベッドから体を起こそうとするレリアを、ルカは押しとどめる。レリアは抵抗もなく、ぽすん、とベッドに沈んだ。それにレリアは不満そうにする。ルカは苦笑するが、内心では安堵していた。いつも通りのレリア、それだけで安心する。

「ここは〝自由の里〟だよ」

「〝自由の里〟?」

「そう」

 ルカは視線をレリアから外して、家の中、そして、窓外へと移した。

 部屋はとても質素だった。木の壁に、粗末な調度品、ベッド、くたびれている木製のテーブルに、今にも崩れそうな木の椅子。それだけだった。およそ、生活感らしいものはない。ただ、無造作にそこに置かれているような印象だった。

「ルカ、〝自由の里〟、って何?」

 レリアは訳が分からない、というように、眉根を寄せる。金色と、橙色の双眸も、怪訝が浮かんでいた。

「……天使と戦う悪魔が生まれる里、って言ってた」

「悪魔が生まれる里?」

「うん」

 正直、ルカにもその意味はわからない。ルカたちがあの竜に拾われて、ここへと連れてこられた。竜にそう説明されて、世話を焼いてくれるけれど、詳細は話してくれなかった。けれど、竜はこれだけ言った。

『ぬしたちはここに住むんだ。そして、わしがパパとなる!』

 その言葉に戸惑いと困惑しか浮かばなかった。でも、独りではないということに安心感はある。ただ、竜がルカたちの親となる、ということには複雑だった。天使たちに殺されてしまった両親、兄のことを思うと素直に父親と受け入れられそうにもない。

「ねぇ、ルカ」

 複雑な心境にいるルカに、レリアは首を傾げた。

「私たち、これからどうなるのかしら?」

 それに答えられる正解はない。ルカにもそのことがわからないのだから。でも、

「とりあえず、俺たちは大丈夫ってことは確かだ」

 レリアはきょとんとする。あまり意味が分かっていないようだった。

「俺たちは、大丈夫。大丈夫だ」

 レリアに言い聞かせようとして、自分に言い聞かせていることに気付く。不安に苛まれながらも、ルカは強がってみせた。

「ねぇ、ルカ」

 そんな不安が隠しきれていなかったのかもしれない。レリアもまた不安そうに顔を曇らせた。

「私たち、一緒にいられるよね?」

「え?」

 その言葉を理解しないでいると、レリアがベッドから起き上がる。さらり、と紺色の髪が流れて、金色と橙の瞳がルカを真っ直ぐ見つめた。

「私たち、ずっと、一緒よね?」

 縋るように、レリアが言う。

 ――レリアも不安なんだ。

目が覚めれば見知らぬ場所で、ここにはルカ以外見知ったものはいない。

 ルカは笑った。それは無理矢理だったかもしれない。でも、レリアを不安にさせないように、頑張って笑みを作った。

「あぁ、俺たちはずっと、一緒だ」

「本当に?」

「うん」

「約束?」

 ――『約束』。

 その単語に、一気に天使に襲われたときの恐怖を思い出す。ルカは頭を振って、それを追い出した。恐怖を、その一部始終を。

「約束だ」

『約束』。

 それが、こんなにも重く、とても苦しいものだとは知らなかった。

 レリアが手を伸ばす。その手のひらは傷だらけだった。ルカはその手を振り払うことはせずに、そのまま少女を抱きしめた。

 もうお互いしか、家族はいない。

 とても大切なものだと、心に刻むように。

 それは五年前、ルカとレリアが十二歳の時の話である。



     * * *



 ――〝自由の里〟に来てから五年後。


「汝、ここに冥府の眷属であることを誓うか?」


ぼんやりとした蝋燭の明かりがゆらりと揺れた。円形状の大きな部屋。光源が蝋燭の灯しかない部屋はほんのりとした暗闇に包まれている。その円形状の中心には壇上があった。そこに一人の司祭を囲むようにぐるり、と少年と少女たちが傅いている。誰一人として口を開かない厳かで、重苦しい沈黙が漂う中で、司祭の声だけがまるで死に神の死の宣告のように響いていた。

 ルカの前に司祭が立つ。

 その司祭はおよそ人間ではなかった。顔は牛に、上半身は人間であり、下半身はオオカミの四肢。それは、『悪魔』だった。

 天使が支配するこの世界。唯一天使と戦える存在がいる。

 それが悪魔だ。

 悪魔は魔力を使い、天使と互角に戦えることができる。

 しかし、悪魔の数もそう多くはなかった。神の手によって冥府へと押しやられ、同胞たちは天使と戦い敗れ散ってしまったからである。

 そんな数少なく生き残った悪魔たちが考えたのは、人間を悪魔にする方法だった。

 保護した人間たちを悪魔にして、自分たちと同じように戦わせる。

 聞こえはとても理不尽だが、実際は戦える力が手に入るのだ。天使に憎悪、怒りを持つ人間は多く、悪魔になることも躊躇わないほどだった。

 けれど、悪魔になれない人間も多くいる。それは体が弱い、悪魔になれない体質など様々あるが、多くあるのが「悪魔になるのが怖い」から。

 人間が悪魔になると、人間としての形、自我は最初こそある。しかし、戦うにつれて、それはどんどん悪魔の力によって蝕まれて、最終的には異形の姿となり、自我を失う。自我を失った悪魔は狂ったように戦い、最悪、戦いによって死んでしまうのだ。たとえ、生き残ったとしても、自我を亡くしているために、暴れ続けると言われている。そして、結局、最後には死を迎えるのだ。

 それを知っている人間は、それを恐れる。だから、悪魔になろうとしなかった。

 悪魔になることは強制ではない。

 しかし、悪魔になることはここではとても名誉なことだった。だから、拒む者はよほどの理由がない限りしない。

 悪魔がルカに仲間になるかと訊いてくる。

 悪魔は天使と戦う戦士だ。この世の何よりの誉れだ。拒絶することなく、ここに冥府の眷属であることを誓えば華々しい人生を送れるのだろう。ただ、それは悪魔、としての話だけれど。

 悪魔になってしまったが最後、この司祭のようにいずれは人間としての形を失い、さらには自我を失い、本能のままに戦う異形となる。痛みも恐怖も関係なく、ただ思うが儘に、それしかできないからくり人形のようになってしまうはずだ。

 ――嫌だ。

 それが、ルカの本音だった。

 けれど、隣に並ぶルカと同年代の少年少女たちは口々に悪魔になることを誓っている。答えていないのは、ルカと、隣にいるレリアだけだった。

「汝ら、ルカ、レリア。冥府の眷属になることを誓うか?」

 司祭は訊いてくる。

 ルカは考えた。悪魔にならない方法があるのだろうか、と。しかし、その方法は考えつかず、ルカは「はい」と肯定するしかない。でも、どうしても不安が過り躊躇してしまう。

「冥府の眷属になることを誓うか?」

 左隣にいる少年がルカの様子を窺うのがわかった。でも、ルカは答えられない。

 しかし、

「私は嫌よ」

 レリアはきっぱりと答えた。その表情には勝気な笑みが浮かんでいる。

「何故だ?」

「私は私のままで生きたいもの。私は他でもない、私。私を他の誰にも渡さないわ」

 きっぱりと拒絶の意を示したレリアに、見守る大人たちが、並ぶ少年少女たちがざわめいた。

「でも、天使とはちゃんと戦うわ。それで私の大切なものが守られるならそうする。戦うなら別に悪魔にならなくていいもの」

 さらに二重の拒絶を示して、レリアはそれきり口を閉ざす。レリアの挑発的な笑みを前に、司祭は何も言わなかった。ルカにはわかる。司祭は考えあぐねている。

 レリアの『異端』に。その『異端』が悪魔へと変貌を遂げたとき、それがどういう未来へと行き着くのか。そこに危険性があるのか、ないのか。それを目まぐるしく考えている。

 ――司祭はレリアの拒絶にもう何も言わなかった。

 代わりにその牛の双眸が、ルカを見据える。

「汝、ルカ。冥府の眷属になることを誓うか?」

「……俺は」

 口を開いて、ルカは閉じる。けれど、今度は顔を上げて、司祭の目を真っ直ぐに見つめた。

「俺も嫌だ」

「何故だ?」

 理由は多くある。悪魔になるのが怖いから、戦うのが嫌だから。でも一番の理由は、悪魔になって自我を失ってはレリアとともにいられないから。

「――俺自身の信念、だ」

 司祭の目が細くなる。睥睨されているのは確かだった。けれど、それ以上は何も言わずに、儀式の壇上へと上がる。その後ろ姿を見送って、そして、ルカとレリアは他の司祭の手によって退場させられた。

 外はすでに真っ暗だった。〝自由の里〟の儀式場は山の中にあり、木々の枝葉の隙間から満点の星空が見えた。暗闇は暗闇でも、あの儀式場とはまた違う明るく美しい暗闇に、ルカはようやく一息つけた。

「ルカ」

「何?」

 レリアが隣に立つ。金色と橙色の目が、ルカの顔を覗き込んできた。藍色の髪が、ふわり、と揺れる。

「いいの?」

「何が?」

「――ううん。何でもないわ」

 レリアはそれ以上、何も言わない。視線を星空へと戻して、その口元にはあの勝気な笑みを浮かべた。

 レリアにはわかっているのだ。

 ルカの選んだ道はとても過酷なものであるということを。そして、そう指摘しないのは、きっとルカの意志を尊重してくれているから。

「ねぇ、ルカ。これから、どうなるのかしら?」

 飾り気のない真っ直ぐな質問に、ルカには答えられない。ただ、

「なるようにしかならない」

 それだけだった。

 そう、全てはなるようにしかならないのだ。それに抗い、運命を変えるほどの力を、ルカは持っていない。

「――そうね」

 レリアは頷く。

 これから太陽が昇る。悪魔になることを誓った少年と少女たちにとって、悪魔としての新しい一日の始まりが訪れるのだろう。

 でも、ルカは違った。

 みんなが悪魔になる中、ルカとレリアだけが人間であることを決めた。

 ルカは知っている。今日から、人間であるということの最悪な人生が始まるということに。



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