8話: ―続― 十余七<とお あまり ななつ>
毛者は、果実を食べなかった。
葉も枝も食べなかった。
木は日に日に弱っていく毛者を助けたかった。
うねる大地の向こうから、誰かがやってきた。
男が一人、帰ってきたのだ。
男の髪は白くなり、顔や手はしわだらけで、腰はすっかり曲がっていた。
木は喜んだ。
実をたくさん落とし、食べるように言った。
男は首を横に振り、もうその固い実をかむ力がないのだと言った。
木は友を助けたいと言った。
男は木の足元に横たわり、毛者に己を食うように言った。
毛者は人の肉を食んだ。
流れる血は木の足元にたまり、大地に吸い込まれていった。
木は、その血を根から吸い上げた。
木と人は一つになった。
毛者と人は一つになった。
命は、新たな形の連鎖を始めた。
◇
玉髄御前が亡くなったのは、今から1年前の今日のことだ。朝、寝床で冷たくなっていたのを葵が一番最初に見つけた。
漉慈は縋るようにしながら、嗚咽を上げた。訃報を聞いて駆けつけた籐馬も、唇をかみしめて何かを堪えていた。そんな中で葵は泣かず、取り乱しもしなかった。こうなることは前から知っていたのだと言う。それでも悲しみで葵の心がいっぱいになっていることを、雫は痛いほど感じていた。
玉髄御前の葬儀は執り行われなかった。この村で『御前』と呼ばれる者は、その御霊を空と大地ではなく森に還すことになっている。つまり、その血肉を森の獣に食わせるのだ。
葵は菫青御前の名を襲名し、玉髄御前を森に還す儀式にあたった。儀式と言っても内容は非常に簡素で、森の浅いところ、すなわちシラヌイオオカミの縄張りのあたりまで遺体を運ぶだけだ。しかし規模は大きい。それを見送る為に村人全員が列を為し、菫青御前がその先頭に立って祈りながら歩いていく。この習わしは村が興った時から続いているが、その最中に獣に襲われたことは一度たりともないという。人の多さに尻込みしているのか、それとも何かしらの力が働いているのかは、いまだに分かっていない。
「雫おねえちゃん」
雫の手が、弱弱しく引かれる。
「どうしたの、澪」
澪と呼ばれた少女は、不安そうに瞳を潤ませていた。
絆替えの禊の際、雫は子どもたちの護衛を任されたが、その中の1人と特に仲良くなった。それが澪であり、柳仁が気に掛けていたあの子どもだったのだ。
「玉髄御前は、どこへ連れて行かれるの?」
玉髄御前が眠る柩を見つめて、澪が尋ねる。雫は視線を少し落とし、言葉を探した。
「御前はね、あたしが4つになる前の日、会いに来てくれたの。あたしを可愛いって言ってくれたのよ」
「そう」
「大きな耳も、すぐに長く伸びる爪もすてきだって。お友達になりたいって」
「……うん」
「あたし、また置いていかれちゃった……」
泣き出す澪を、雫はそっと抱き上げた。
「大丈夫。私がついてるでしょう」
「うん……」
「漉慈も、葵……ううん、菫青御前も。他にもお友達がいるじゃない」
「うん……うん」
「それに、玉髄御前はどこにも行かない。ずっと私たちのお傍にいて下さるから」
「……ほんとに?」
「本当に。私が澪に嘘を教えたこと、ないでしょ?」
涙でいっぱいになった澪の瞳が、大きく開かれる。
「雫おねえちゃんはすごい。あたし、もう悲しくなくなったよ」
「そう、それは良かった」
「あたしも、雫おねえちゃんみたいになれるかな」
「なれる。澪ならもっと凄い人になれるかもね」
澪の顔が小さくほころんだ。雫も、それに釣られて微笑む。
命をおくる列がゆっくりと進んでいく中、雫は昨夜の夢を思い出していた。
最初に聞こえた懐かしい声の主は、私のことを知っている、と言った。
お互いに知り合っているはずなのに、私は覚えていないと。
邪魔が入った、というのは、玉髄御前のことを言っているような気がする。理由は分からないけれど……。
でももしそうならあの夢は、玉髄御前の死と何か関係しているのか。
「故郷を出てはなりません」
それはどういう意味なのだろう。
「時が来るまでは留まるのです」
時、というのはいつのことを示しているのか。
分からないことだらけだ。
もしかしたら、意味などないのかもしれない。
だけど、最後に聞こえた、あの優しい言葉。
「息災に」
「しあわせに」
あれは、玉髄御前が私に遺してくれた形見の言葉だ。
本当に幸せになれるかどうか、それは分からないけど……。
でも、そこに向かって必死に生きようと思う。
◇
「雫姉さま!」
ナバの木のてっぺんから、夕日に照らされた澪が大きく手を振る。雫も同じように手を振り返して応え、そのまま歩いていく。
木の下では、同じ歳くらいの子どもたちがわいわいと騒いでいた。澪のように頂上を目指して登り方の指南を受けている子、教える側の子、すっかり飽きて別の遊びに没頭している子。
雫はその風景を見て、昔を思い出した。
もう、あの頃には戻れない。
その思いに含まれているのは寂しさだけではなく、執着心のようなものも混じっていた。
本当は、戻りたい。
まだ変えたくない。
ずっとこのままで。
しかし、前へ進むには何かを捨てなくてはならない時がある。そのことに雫が気付くのは、もう少し後の話だ。