海
【海、おんなの想い......】
暑中お見舞い申し上げます。
暑い日が続きますがお元気にお過ごしでしょうか?わたしは今、15年前のあの夏に、あなたと一度だけ訪れた海のそばで暮らしています。そして今、その海が見渡せるレストランで、あなたに届く宛の無いこの手紙を書いています。あの時、あなたと一緒に食事をしたあのレストランです。座った場所も確かこの席でした。
あれから15年という、とても長い時間が過ぎたけど、あの夏の一日は今でも鮮明に憶えています。あなたの髪型、あなたが着ていた服、このレストランで食べたメニュー、お話しした内容さえも......
お互いのお仕事の都合を付けて、やっと一緒に来られたこの海で、二人は子供の様にはしゃぎましたね。本当に楽しかった。
あの年の、あの春に、偶然に再会したわたしたち。過去に一度、あなたにサヨナラを言っていたわたしなのに、その時は自分でも信じられない程にあなたにときめいてしまいました。しかし、運命のイタズラなのでしょうか。わたしはあなたと再会する数ヶ月前に、別の人とお付き合いを始めていました......
あなたの笑顔は少しも変わって無くて、むしろ昔よりもっと素敵になって、キラキラと輝いていました。
わたしはお付き合いしている人が居る事をなかなか打ち明けられず、あなたに誘われるままにいろいろな場所で同じ時間を過ごしました。
あなたと過ごす時間はとても楽しかった。彼の存在を忘れてしまう程に楽しかった。わたしは彼にサヨナラを告げて、あなたと共に生きてゆく事も考えました。けれど、それはあなたの望みではなかったのですね......
わたしが思い切って彼の存在を打ち明けた後、あなたは何も言わずに突然わたしの前から姿を消してしまいましたね。
結局わたしは、無理矢理に自分の気持ちを納得させ、彼と結婚しました。
でも、わたしの心の歯車には、いつもあなたと言うわだかまりが挟まっていて、上手く回ってくれませんでした......
数年後、わたしたち夫婦は別々の人生を歩む決断をしました。それからはひとりでひっそりとこの街で生きています。
わたしの元を離れてから、あなたはどこでどの様な日々を過ごしていましたか?
逢いたいです。あなたに逢いたいです。わたしのこの先の人生であなたに再会する事は、あの春の様な偶然を待つことでしか叶わな無いのでしょうか。
ほんの気まぐれでもいいから、あなたがわたしの事を思い出して、この海を訪ねて来て欲しい。わたしは、いつもこのお店のこの席で海を見て待っています。いつまでも......
【海、おとこの想い......】
ぼくは毎年、夏になるとどうしても15年前のあの日の事を思い出してしまうんだ。君と一度だけ行った、あの海辺の一日を......
あの頃ぼくは25歳、都内のイタリアンレストランのキッチンで働いていた。店はとても人気が有る繁盛店だったが、あまりにも忙しくて、その労働環境は過酷だった。仲間は次々と辞めて、人手不足からぼくは滅多に休めない状況だった。だからあの日は久し振りの休日だったんだ。
ぼくと君の出逢いはふたりが21歳の時だったね。ぼくが最初に勤めた店に、君がホールのアルバイトとして入ってきた。同じ歳のふたりは直ぐに打ち解けあい、付き合うようになった。ぼくはまだ見習いで、仕事は辛かったけど、君の存在が大きな心の支えになってくれた。
大学生だった君は卒業と同時にお店を辞めて就職。そして配属されたのが遠く離れた県だったね。
慣れない土地で初めての一人暮らしや、仕事。不安だらけの君を支えてくれた人に恋をしてしまっても、ぼくは責めることも出来なかった。ふたりはそのまま別れることになったね。
ぼくは、それから何人かの女の子と付き合ったけれど、君ほど好きになれる人には巡り逢えなかったよ。
23歳の頃、一度だけぼくに手紙をくれたね。近況報告と共に「私は今はひとりです。近々に転勤でそちらに戻ります」と記して有った。
忘れかけていた君への想い。少しだけ心が揺れたけど、その時はただそれだけだった。
あの春の日の偶然の再会には本当に驚いた。ぼくが働いていた店に、君が友達と食事に来たんだよね。人手不足で、キッチンとホールを掛け持ちしながら、慌ただしくしていたぼくの足と目は、君を見た瞬間に思わず止まってしまった。君もぼくに気付いた時、とてもビックリしていたね。
それからは、ふたりで色々な場所に出掛けたね。ぼくがなかなか休めないから、仕事の前や後での短いデートだったりしたけど、本当に楽しかった。
だけど、時折ふっと見せる、影の有る横顔に、ぼくは少し不安を感じていたんだ。
そして、たった一度だけ一緒に行った夏のあの海。
子供の様にはしゃぎ、疲れ切って部屋に帰ると、数時間前まで一緒にいた君から電話が架かってきた。
ぼくらが再会する数ヶ月前から付き合っている彼が居る事、その彼はとても真面目で優しくて君を大事にしてくれる事、安定した職に就いている事。だけど、気持ちはぼくに傾いている事。時折り涙ぐみながらぼくに打ち明けてくれたね。
実は、ぼくにはあの頃、イタリアのレストランで働かないかという誘いが有ったんだ。年齢的にも最後のチャンスだし、働いていた店も卒業したかったし、気持ちはもうほとんど決まっていたけど少しだけ迷いも有った。
その事をどうやって伝えようかと考えていた時に聞いた君の話し。ぼくは無理矢理に気持ちを固めたんだ。
これからどうなるか分からない身のぼくより、付き合っている彼の方が君を幸せに出来るに決まっている。ぼくは黙ってイタリアに旅立ったんだ。
だけど、君の事はイタリアに居ても忘れられなかった。どんなに仕事に打ち込んでも、君への気持ちは消えなくて、今も独り身です。
あれから君はどこでどんな人生を送ったのでしょう。今は幸せですか?
君はあの海辺のレストランを憶えているだろうか。たった一度だけ、ぼくたちが出掛けたあの海が見渡せるあのレストランを。ぼくの中では一番大きな君との思い出の場所......
ぼくは来週、15年振りに帰国します。そして偶然にも、先輩の紹介で、あの海辺のレストランでシェフとして働く事になりました。
ふたりで訪れたあの海を眺めながら、ぼくは毎日料理をつくります......
Fin
最後まで読んで頂き有り難うございます!
遠回りして辿り着いたふたりの海。
その後の邂逅シーンをみなさんの胸の中で描いて頂けたら幸いです。