カミング・バック・トゥ・ライフ
ファンタジーやSFの要素は無く、日常生活をスケッチする手法で描くことを自分に課して書いています。地味な作品ですので、何度か読み返すお時間のある方はぜひじっくりとどうぞ。
耳元でガラスと硬いものがぶつかる音がして目が覚めた。視線の先には左手があり、手首がテーブルの上に乗っかっていた。テーブルは金属製の足に厚手のガラス板がはめ込まれたやつで、数日前に立ち寄ったホームセンターで見かけたのと似ていた。指先には湯呑とテレビのリモコンが置かれ、ウサギのぬいぐるみの頭が付いたティッシュケースがあった。テーブルをこんなにベッドの近くに置いたはずはないのにな、と独り言をつぶやきながら眼を閉じて右側に寝返りを打つと、今度はバフッという音がして体が柔らかい壁に押し返された。うっすらと瞼を開くと、あるはずのベッドが無く一面が真っ白けだ。ベッドの位置を50センチ以上動かさないと部屋の壁には当たらないし、そんなスペースさえ惜しいような狭いワンルームに住んでいるんだ。それにあんなファンシーなティッシュケースなんて買ってきた覚えはない。柔らかい壁から恐るおそる顔を離していくと、クリーム色のつややかな革が見えてきた。上体を起こすと自分の膝を見つけ、ベッドではなく大きめのソファの上にいることがやっと分かった。
少し離れたところから俺を呼ぶ声がしたのでそちらを向こうとして、次の瞬間に俺は頭を抱えて呻いた。今まで経験したことのない激烈な頭痛が後頭部から襲ってきたからだ。いや正確には、この頭痛のせいで昼寝から覚めたのだ。頭の中で岩石が高速回転するかのような容赦無い痛みに俺はただ両手で頭を抱えてうずくまった。するとしばらくして、先ほどの声の主らしいのだが、パタパタと小走りに駆け寄ってきた。俺の真後ろにまわったようだったが、ちょっと待っててね、と小さく声をかけと思うと俺の肩と首の上でパサッという音がした。なおも痛みに悲鳴を上げる俺に声の主は何度も、力を抜いて、とか、大丈夫だからね、と呼びかけた。女の声だった。俺に出来るのはその声に従うだけだったが、そのうちに首筋と肩が湯をかけられたようにじんわりと温かくなっていることに気づいた。頭を抱えていた両腕を下ろすと俺の額をひんやりとした手のひらが包んだ。明らかに女の手の感触だ。俺の部屋に女がいる、女がいるということらしい。が、それはどう考えてもあり得ないはずだ。
頭痛は意外なぐらいあっさりとひいていった。大丈夫?もういい?という声に、ああ、と弱弱しく答えた俺は小さな足音をたてて部屋から歩き去る女の後姿をぼんやりと見た。身長は俺より頭ひとつぐらい小柄なようで、ヒヨコみたいな黄色いエプロンと小さいウサギの耳が付いたスリッパを身に着けていることまでは何とかわかったが、彼女は部屋を出てすぐの壁の向こうにあるキッチンに入ったようだった。俺のいる部屋とキッチンはきっちりと仕切られているわけではないようで、淹れたてらしいコーヒーの香りがかなりの濃さで届いた。鍋が火にかかっているらしい、湯気の音と食器を洗う音が同時に聞こえていたがやがて止んだ。
ソファに座ったまま首をゆっくり右に向ける。頭痛が襲ってこないことを確かめてホッとする俺の眼に飛び込んできたのは、40インチはあろうかという巨大な液晶テレビと、その横の背の高い本棚、さらにそこにぎっしりと詰め込まれた自動車についての雑誌や図鑑だった。テレビ嫌いの俺が20年近くだましだまし使ってきたブラウン管の25型はどこだ、まさかこの新型の液晶の奴に丸呑みされてしまったのか。小銭が出来たときにちまちまと集めたLPレコードは一枚もなく、それどころか全く目もくれたことのない国産車のミニチュア模型が飾られていた。
今度は左を向く。そこには有ってほしいものが無くなっており、なぜ有るのかが分からない代物が転がっていた。壁に沿わせるかたちで細長いテーブルのようなものが置かれていたが、それが安物の電子ピアノであることはすぐ分かった。楽器屋まで行かなくても、電気屋で月給の三分の一くらい払えば買える程度のものだったが、そんなのはどうでもいい。それより何より、俺のベースが無い!どこだ!俺の誇り、トバイアスの85年製シグニチュア、分割24回のローンで購入を決めるまで二週間近く悩みつづけ、手にしてからは八年近くメインで使い続けてきたあの5弦ベースが見当たらないのだ。一度だけ盗難に遭ったときはこの世の終わりが来たようだったが、まさかそんな厄災に再び見舞われるなんて、さっきの頭痛のほうがまだましだ。嫌な汗を背中に感じながらキョロキョロと部屋の中を見回すが、どう見ても楽器と呼べるものはあの電子ピアノだけだった。それだけではない、楽器と同じくらい散財して集めたオーディオ達の姿が無く、液晶テレビの横にこじんまりしたCDプレイヤーが置かれているだけだった。ひそかな自慢だったあのイージス艦級の高性能機たちに比べれば、まるで近所のガキが乗りまわしてはひっくり返す三輪車よりも情けないオモチャだ。
膝が震えるようだったが、意を決して立ち上がる。と、肩から何か滑り落ちる感触があった。ソファの上を見ると、何かを包んだバスタオルが落ちていた。タオルを開いてみるとジップロックに入った手のひら大のスポンジがあったが、どうやら湯を含ませているらしくじんわりと温かかった。先ほどの頭痛を抑えるために女が用意したのはこれだったようだ。このスポンジをタオルごと持って部屋を出てみると、廊下の左側がトイレでその横がバスルームだった。俺が住んでいたのはまともに光も入らないウナギの寝床の見本のようなワンルームマンションだったのに、目が覚めてみたら2LDKの豪邸暮らしというわけか。廊下に出てきた俺の気配に気づいた女が、タオルとスポンジは洗濯物入れにお願い、とキッチンから声をかけてきた。その指示に従ってバスルーム手前の洗濯物入れにタオルとスポンジを置き、再び廊下に出ると、キッチンとは反対側の先に玄関があることに気づいた。ありきたりの靴箱と傘立てが並んでいたが、見慣れない二本の銀色の棒が立てかけられていた。眼を凝らしてみると松葉杖だった。
再びソファのある部屋に戻ると、女がコーヒーのカップを持って入ってきた。
「少し濃いめに入れたから、そのぶん量を減らしたよ。カフェインは頭痛の元になることもあるみたいだから、今は我慢してね。」
あの頭痛を遠ざけるためならなんだって我慢できそうだ、と内心で呟きながら女から渡されたコーヒーに口をつける。俺はつい首をかしげた。薄い。キッチンから漂う香りから考えてもこのコーヒーはインスタントではなく、豆をドリップで淹れたもののはずなのに、そのわりにはあまりにも薄かった。好物のコーヒーを口にしながら、表情がくもっていくのが自分でも分かった。
女からの視線を感じて向きなおると、ん?とでも言いたそうな顔が俺を見つめていた。頬が高いのかあごが細いのか、ほっそりとした印象を与える顔だ。濃い眉がちょっとだけ目立ったが、その下の丸く黒目がちな瞳が俺をとらえていた。
「眠くない?」
「いや…だ、大丈夫。」
「コーヒーを薄くするのは最初は反対してたくせに、ね、こっちの方がちゃんと眠れていいでしょ?お風呂はもう少し後にしましょうか。シャワーだけにしてもいいんじゃない?熱いお風呂も、もしかしたら良くないかもしれないし。」
「うん、そうだね…」
こういうのを生返事というのだろう、みっともないぐらいモゴモゴと口ごもる俺だったが女はさほど気にしたそぶりもなく穏やかに微笑んだ。女はテーブルの下に散らかった新聞広告と雑誌を片付けはじめたが、俺はその手元、正確には左手の薬指に眼がくぎづけになった。実につつましやかな銀色の指輪が、水仕事でくすんだり汚れたりしそうなものなのに、丁寧に磨き上げられているのか、その光は俺の眼にもすぐにとまった。小さく息を飲んで、俺はとっさに自分の左手に眼をやる。ややくすんでキズもあったが、同じ色、同じ形の指輪が薬指にはまっていた。今度はさっきの頭痛のゴロゴロではなくハンマーか何かで思い切り殴られたような感覚が脳天を貫いた。なんてことだ、この女は看護師や家政婦ではない。そんなものなんかではない、俺の妻なのだ。
息をするのを忘れるぐらいの驚きがいったん収まると、俺は「妻」をさりげなく見やった。黒く豊かな髪が肩から胸元に流れていて、広告や新聞に触れるとサラサラと細やかな音をたてた。厚手のカーディガンを羽織っているが、あまり痩せていないことは背中の幅からなんとなく分かった。かなり色の褪せたジーンズをはいており、立ち上がるとややO脚気味の太ももや、むっちりと重そうな尻が眼に入った。俺は「妻」がキッチンに入るのを見計らってテレビの横の本棚に静かに駆け寄った。素早く眼を走らせると、女の字体で“LIVES♡”というタイトルが書かれたアルバムが連番で四冊もあった。手に取るのももどかしくその四番目の最初のページを開く。そこには「妻」と俺との、あちこちの観光名所での何の芸もないスナップが並んでいた。行く気にもなれないテーマーパークでネズミの耳の被りものを着けている俺がいた。海辺のショッピングモールで安出来のクラブサンドとフライドポテトを前に笑う俺がいた。「妻」の友人らしき女性とその子供といっしょにキャンプに行き、カレーを振る舞っている俺がいた。札幌雪祭りの雪像があり、鎌倉大仏があった。太宰府天満宮の次には琵琶湖があった。「妻」はどこに行っても満面の笑顔でフレームに収まり、俺は自分でも吹き出しそうになるくらいのふぬけ顔で同じように笑っていた。どうやったら鏡に向かってこんな顔が出来るのか、可笑しさをとおり越してなにやら不安になるくらいだった。
アルバムの半分ぐらいでやっと目当ての写真を見つけた。白のタキシードの俺とピンクのドレス姿の「妻」が教会のステンドグラスの前に並んでいた。この写真は業者が製作したものらしく、縁に日付と教会、俺の名前、そして「妻」の名前が気取った書体で印刷されていた。読みづらい字だったが、それは“RISAKO” とあるようだった。
「またぁ、アルバム見てる。」
「リサコ」の声に思わずビクッとして振り返った。エプロンを外した彼女はソファに腰を下ろし、テーブルの上にある籠の中からみかんを手に取った。俺は少しだけ躊躇したが、覚悟を決めて同じソファの彼女の隣に座った。カーディガンから柔軟剤が分かりやすく香った。
「リサコ。」さりげなく言ったつもりだったが、わずかに声が震えているのが自分でも分かった。
「なあに?」眼が合った。ほんのわずかに茶色がかった瞳だった。
「さっきの頭痛のせいかもしれないし…なんか、ボーっとしてるような感じがするんだけど…そのぉ、考えがまとまらないっていうか…俺って、最近なんか変な目に遭ったことってあったかなぁ?」
我ながらアドリブの下手さに心からガッカリしたくなったが、きっと笑われるぞと身構えた俺に、彼女はすっと手を伸ばしてきた。ひんやりした手のひらが左の頬に乗せられた。
「そう、やっぱり…またフラッシュバックが起きたのね。」
薬物中毒者の話でしか聞いたことがない言葉が我が身と関わりがあるというのはさすがにギクリときた。声にならない声が漏れそうになる俺に彼女はゆっくりと、諭すように言った。
「三月前、あなたは自動車事故で頭を強く打ったの。しばらくは松葉杖だったけどすぐに普通に歩けるようになったし、手足や顔にはもう全然、後遺症は出てないから。それは大丈夫でしょ?」
それは確かだった。頭痛を除けば自分の身体に違和感は無いし、玄関の松葉杖はどう考えて出番は無い。 「さっきの頭痛はいちおう後遺症らしいんだけど、起きる回数が減ってきてるから大丈夫だろうって、先週お医者様からきいてるわよ。もし起きても、さっきみたいに首筋を温めて安静にすればすぐ収まるから、お薬は最近全然飲んでないわ。眠くなって仕事に影響が出るからって、あなたも飲みたがらなかったし。」
彼女は笑顔で俺に告げたが、俺が瞳を見つめると少し目を伏せて続けた。
「でもね、フラッシュバックって言って、記憶障害の一種らしいんだけど、過去の記憶が急に戻ってきて、最近のことを一時的に忘れちゃうぐらい強烈だって…思い出すっていうより、いきなり過去の自分に戻るっていうか…臭いや感触までリアルに…いちばん辛かったときの記憶が特に多くて…」
彼女は丁寧に教えてくれたが、俺の耳にはその言葉は半分以上入っておらず、耳元まで来てまわれ右で走り去っていった。
「でもね、新しいことを完全に忘れちゃうわけじゃなくて、しばらくすると頭の中で整理がついてちゃんとつながるみたいだから、ね?そんなふうにアルバムを眺めたり、雑誌を読み返したりすると良いんだって。」
それ以上何も聞きたくなかった。俺の顔は彼女から離れ、彼女の手は力なく俺の右足に落ちた。彼女は少しだけうつむいていたが、すぐに顔を上げた。満面の笑みを浮かべ、妙に明るい声で言った。
「いいわよ、何でもきいて。」
「え?えぇ…何を?」
「何をって、何でもよ。混乱していて思い出せないんでしょう?なら私にきいてよ。分からないままじゃ不安、でしょ?」
彼女の眼がいたずらっぽくクルクルと動いた。なぜこんな俺に、と斜に構えそうになったが、そうか、俺が不安だとこの娘も、いや、妻である彼女、リサコも落ち着かないのだろう。
「ええと、まず、俺はいつタバコを止めたのかな。」
「四年前。私と交際し始めて一年目。けっこう楽に止められたって喜んでた。禁煙外来もいかずに独力で止められたんだから自慢してもいいんじゃない?」
「じゃあ、ジッポは」
「お友達に全部買い取ってもらいました。そこの湯呑はその時にお友達がおまけで下さったものよ。」
生まれ年のヴィンテージのジッポは一生の宝にするつもりで無理して買ったものだった。
「オーディオは?CDやLPもけっこう有ったはずだけど」
「CDとレコードはここに引っ越すときに業者さんを呼んで買い取ってもらったわ。出張買取で、それで引越し代がけっこう浮いたんだから。オーディオは弟さん夫婦のところ。キッチンの改装のためってことにして、かなりいいお金で引き取ってくださったわね。」
弟のカミさんは韓流スターの追っかけだったはすだ。あの癪に障るペラペラなサウンドの楽曲を俺の最高級オーディオ達で流しているらしい。
「あのピアノは君が弾いてるんだっけ」
「ええ。あなたはずっとピアノが苦手って言って全然…でも、あのカシオが買えたのも半年前よ。ずっとそんな余裕が無かったけど、あなたがやっと決心してくれたおかげで」
「まさか、それって…」
「うん、あのベース。買取に持っていっても珍しすぎて価値が分からない店ばっかりだ、ネットオークションでもまともな値がつかないってずっとぼやいてたし、大切にしているのは私も知っていたから見てて辛かったのよ。でもね、」
リサコはそこまで言うと、背筋をすっと伸ばして俺に向かった。
「私だってその前に、ヤマハのホルンを売ったんだからね。あなたばっかりじゃなくて私だって」
リサコは急に言葉を切った。トバイアスとともに過ごした日々を思い出しそうになっていた俺はハッとして彼女の顔を見つめると、彼女はさっきのような笑顔に戻ってこうきっぱりと言った。
「ね、来年にはクルマが買えるのよ。あなたのお仕事が順調にいって、私もスーパーのパートから音楽教室の講師に変われたら、それが半年ぐらい早くなるんだから。」
クルマの話が思い出せずに戸惑っていると、リサコはもういちど俺の頬に手を当てた。そして今度は俺の頭をぐっと自分の胸に抱き寄せた。カーディガンからジャスミンの香りが俺の鼻に流れ込んだ。服の下の乳房が思いのほか大きく柔らかった。
「私たち、ずっと頑張ってきたんだよ…みんな私たちの結婚に賛成だったのにあなたのお父様だけが最後まで反対されて、式にも来ていただけなくて…最近ずっと帰りが遅いから心配してたら会社で熱だして倒れちゃうし、頭の怪我だって会社の駐車場で、先輩が運転するクルマにひっかけられての事故じゃない?クルマに乗らないのにクルマのセールスの仕事に就いて、最初は研修ばっかりで土日が毎週潰れちゃうのに、あなたはお風呂掃除とお買い物は何があっても手伝ってくれて…」
彼女の声がどんどんと震えだした。
「音楽と君なら君を選ぶって言ってくれたとき、ホントに嬉しかった…旅行が好きじゃないって言ってたのに、いつも仕事を調整してくれて、徹夜明けなのに神戸の港を案内してくれて…この家に引っ越したばっかりの時、昔のバンド仲間が泊めてくれって急に夜中に来たとき、あなたはものすごく怒ってみんな追い返して…私の作った夜食のうどんが伸びるからって…」
そこまでか細い声でつないでいたが、最後には嗚咽にかき消されてしまった。俺が顔を上げると、涙でぐしゃぐしゃになったリサコの顔があった。黒目の大きなうるんだ瞳に吸い寄せられるように俺は顔を近づけ、小さいが厚みのある唇にキスした。リサコは俺の唇をねだるように、求めるように何度も吸いついてきた。再び眼を合わせると今度は彼女が俺の胸に飛び込んできた。肩を震わせ、鼻をすする音がしばらく続いたが、顔を上げたときは穏やかな笑顔を見せてくれた。俺は頬に残る涙の筋を軽く拭った。彼女は俺の首筋を手のひらで撫でていたが、くるっと瞳を動かし、頬に軽くキスしてくれた。
「ねぇ、もう寝ましょ。土曜日だからって夜更かししちゃだめよ。」
教え諭すような口調だったが、少し甘えているようにも聞こえた。俺が腰を抱き寄せると彼女は何の抵抗もなく体をより添わせてきた。首筋にまわされた彼女の腕が温かかった。
「あぁ、そうだな…でも、その前にちょっと、ベランダで…外の風にあたっておきたいな。」
リサコはほんの少し上目づかいで俺をにらみ、すぐにクスクスと声をたてて笑った。今までごく普通に俺に見せてくれた表情なのだろうが、鼓動が早くなるのが自分でもわかるくらい魅力的だった。
「いいわよ。でも、体を冷やさないようにね。」
ソファの下に落ちていた俺のセーターを拾い上げ、リサコは肩にかけてくれた。
彼女が部屋を出てバスルームに入っていくのを見届けて、俺はベランダに出た。郊外らしく辺りは静かで濃い闇に覆われており、同じ形のマンションが行儀よく並んでいる。かつての俺の部屋からは日本で最も高いビルと、ショッピングビルの中を回転する観覧車が一緒に見えたのだけど、このベランダからは見えるはずもなかった。胸ポケットを探ったがジッポは出てこなかったし、コーデュロイのパンツの前ポケットにもマルボロはなく、近所にあるらしい回転寿司店のレシートが出てきた。温かいコーヒーが飲みたかったがリサコに気を遣わせることを考えて思いとどまった。俺の眼は夜闇に向けられていたが、何も見えず、何も見ていなかった。いや、何か見出そうとして思いとどまったと言ったほうがいい。そう、何も見えず何も浮かばない闇に、昔のように問い続けるのはもう止めにしよう。答を求める必要はない。俺はもう見つけていたんだ、こんな俺が、自分でも分からないうちに。
かつてならタバコを二本ほどふかすぐらいの間、俺は夜風に眼を閉じて深く息を吸った。風はかすかに森の香りを含んでいた。ベランダから部屋に戻り、セーターをソファの上に置くと、俺はスリッパを履きなおして寝室に向かった。
(了)
文章を読みやすく、分かりやすく書くことに苦心しているところですので、分かりづらい言い回しや不自然な点が見つかりましたらぜひご指摘のほどお願い申し上げます。




